2009年01月20日13時41分掲載  無料記事
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イスラエル/パレスチナ

ガザ戦争後のハマス カレド・フロウブ

openDemocracy  【openDemocracy 特約】2002年、当時のイスラエル国防軍の参謀総長であったモシェ・ヤーロンは「パレスチナ人は、意識の最も深いところで、彼らは敗北した人々であるということを理解するようにならなければならない」と言った。2008年末にガザ地区でイスラエルによって始められた戦争は一つには、ハマスにもこの考え方を内在化させようと狙っている。そうはならないし、できない。実際には、戦争は反対の効果をもたらすであろうとわたしは考える。 
 
 3週間にわたる24時間の空と陸と海からの攻撃で、イスラエルはガザからのロケット攻撃をやめさせるという当面の目標も、モシェ・ヤーロンが述べたより大きな「心理的目標」も達成しているとはとても言えない。戦争それ自身は、より多くのパレスチナ人に、世界で4番目に強い軍隊による攻撃に再び持ちこたえる能力は、彼らの弱さというより力の源泉であると確信させるであろうことは明らかになっている。 
 
 ここで、ガザで包囲されている150万人のパレスチナ人は、彼らの未完の近代史において、新たな章を書いている。彼らは戦争のより一般的な教訓をも示してもいる。戦争と武力紛争は、予期しない結果をもたらした。戦争が達成しようとしたものとは非常に異なる新しい現実を作り出すことはよくある。 
 
政治的現実 
 
 この場合、2008年から2009年のガザ戦争の結果は、ハマスがより強くなり、パレスチナ人の間と同地域で正当性を増すことになりそうだ。イスラエルは、残虐行為でイスラエル南部での「新しい安全状況を達成する」という公式な目標を追求した。大量軍事力の使用は20日間(執筆時点)で1033人以上のパレスチナ人を殺し、そのうち600人が女性と子供であった。それでも、ハマスの原始的なロケットを沈黙させることも、団結した組織として機能する能力を破壊することもできなかった。 
 
 確かに、作戦的には、ハマスの能力は減少させられた(もっとも、これは一時的なものかもしれない)。イスラエルの諜報機関の推定では、ハマスは約1万5000人の戦闘員を有しており、現在の作戦で殺されたのはせいぜい400人だ。ハマスの指導部は無傷で、住民の支持と地域での地位は上がった。戦争の後、パレスチナの将来について国際的対話でハマスが加えられなければならないことは明らかである。 
 
 これは、それ自体でイスラエルが失敗したことの十分な証拠であろう。しかし、現状でも、敵を制圧する能力が減退したことが露見した。1967年の6日戦争でアラブ諸国4ヶ国の軍隊を破り、イスラエルの当時の領域をはるかに上回るエジプト、シリアとヨルダンの一部を占領した軍隊は、2006年のヒズボラに対する戦争では、非国家の民兵に対し結論が出ない戦争となり、困惑させられた。 
 
 これは、軍事的側面とともに重要な政治的側面を有している。ハマスが2006年のパレスチナの選挙で勝利して以来のイスラエルの戦略の中心は、ガザに対する経済封鎖を科すことであった。それは、住民にハマス政府に背を向けさせるほどの窮乏を作り出すことにあった。 
 
 この計画の欠点は、1987年から1988年にかけてのハマスの形成以来の進化の基礎について、イスラエルの自己破壊的な理解にある。この20年間のハマスの成長は武装活動だけにあったのではない。その力の基盤はパレスチナ社会に浸透した幅広い社会ネットワーク(ガザ地区だけでなく西岸の多く)である。2006年の選挙は一つには、このネットワークを作るためのハマスの長期的努力の見返りであった。 これは武力でなくすことはできない、引き続き存在する政治的現実である。 
 
戦後の展望 
 
 歴史のねじれが、ここで働いているのかもしれない。ハマスがパレスチナ民族運動の前面に出てきたことは、以前優勢であったファタハに取って代わる漸進的経過でもあった。ファタハが1960年代に創設されて以降、その初期の歴史も2車線であった。軍事(行き詰まりから別の行き詰まりへ進んだ。最高でも、1960年代後半のイスラエルに対する、つぎはぎ作戦。1970年のヨルダン軍による敗北。1982年のレバノンからの追放)と政治(そこでは前進し続けた。パレスチナ人の正当性と政治的指導性を強化した)。 
 
 ファタハの台頭は、クウェートをめぐるイラクの戦争後の1991年開かれたマドリッド会議で始まった(結局)不毛な和平プロセスとともに止まった。ファタハに起きたことの核心は、際限のない一連の交渉を通じて、1967年以降のイスラエルの占領をやめさせることができず、その政治的・民族的資源をむしばんだということである。別の言い方をすると、パレスチナの正当性と指導性への道は常に、イスラエルの占領に抵抗し覆す、説得力のある戦略を提示することにかかっていた。ファタハとマハムード・アッバス議長率いるラマラのパレスチナ自治政府の場合がそうであるように、この基準が満たされないと、パレスチナ人はそっぽを向くであろう。 
 
 このことは、短期的出来事も長期的傾向もファタファに不利で、ハマスに有利に働いていることを示している。西岸のパレスチナ人の世論は、同胞がイスラエルの毎日の戦争犯罪に直面している時に、アッバスをパレスチナ指導部の中心的責任を果たすことができない、無関係なものであるとますますみなしているようだ。「アブ・マゼン(訳注:アッバスのこと)」のイメージと地位の下落は、西岸におけるハマスの人気の上昇と平行している。 
 
 戦争の圧力と苦しみは、確かに異常な状況とつかの間の反応を作り出す。ガザ地区の一部のパレスチナ人が、ハマスが恐ろしい攻撃をもたらしたという理由で、怒りと不満をいずれハマスに向けるのは確かである。だが、より大きく、より長期的な政治情勢は、この戦争から国内の支持を増やし、アラブ・イスラム世界の数百万人にとって果敢な抵抗と勇気の象徴として見なされ、将来の外交交渉で不可避の現実になる動きである。これが勝利でないなら、何がそうなのか? 
 
 
*カレド・フロウブ ケンブリッジ大学のアラブ・メディア・プロジェクトのディレクター 
 
本稿は独立オンライン雑誌www.opendemocracy.netにクリエイティブ・コモンのライセンスのもとで発表された。 . 
 
原文 
 
 
(翻訳 鳥居英晴) 


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