2009年07月26日10時49分掲載  無料記事
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スーチーさんの連載への外務省の圧力をはねつける 木戸・元『毎日』主筆が回想録

  気骨ある1人のジャーナリストの存在がいかに大切であるか─。毎日新聞の木戸湊・元主筆の『記者たちよ ハンターになれ!』(新風書房)は、あらためてその事実を確認させてくれる。本書は、40年にわたる記者生活のなかから11のエピソードを取り上げた回想録である。いずれの話も臨場感と迫真力に満ち、胸を打つものが多いが、そのなかから私が毎日新聞記者としてかかわった、ビルマ(ミャンマー)の民主化運動指導者アウンサンスーチーさんの連載「ビルマからの手紙」をめぐる木戸さんの記者魂を紹介したい。(永井浩) 
 
 木戸さんは地方支局をふりだしに大阪社会部、ジャカルタ支局長、大阪社会部長、東京と大阪の編集局長などを歴任し、編集トップの主筆のあとは大阪本社代表を最後に2003年に退社した。記者生活で残った100冊余のスクラップ帳を繰りながら、後進の記者たちの参考になればと思ってこの回想録を書いた。 
 原稿を末娘にパソコンで清書してもらったら、「お父さん、自慢話が多いわね」とチクリとやられて頭をかいたという。 
 
 駆け出しの和歌山支局時代の第一章「『人の情け』が身にしみた名誉毀損事件」からはじまり、ざっと以下のようなタイトルがつづく。第五章「ASEAN10周年サミットのディープスロート」、第六章「天下り税理士許すまじ─国税との暗闘」、第七章「『守秘』VS『報道の自由』─梅川事件の舞台裏」、第八章「日本警察への弔鐘? グリコ・森永事件」、第九章「『阪神大震災』で問われた人間力」、第十一章「忘れ得ぬ人たち…」。 
 すでに本書を『サンデー毎日』の「サンデー時評」(09・6・21)で紹介している、政治評論家で元毎日新聞記者の岩見隆夫さんの木戸評を借りれば、いずれも「熱血漢で筋を通す非妥協的な人柄」をよく示している。 
 
▽「『毎日』は民主主義を大切にしたい」 
 
 スーチーさんの「ビルマからの手紙」は、最終章の最後「スーチーさんに会える日?」に登場する。 
 「まだ見ぬ人だが、忘れられないのがアウンサンスーチー女史(63)。 
 1996年度の新聞協会賞となった「アウンサンスーチー ビルマからの手紙」は連載に踏み切るまでが大変だった。90年の総選挙で反軍事政権をスローガンに圧勝したのに、軍は政権移譲をせず、彼女を自宅軟禁。多くの国々が黙視するなかで唯一、スーチーさんの窮状を世界に発信したのが毎日新聞だった」 
 
 なぜ大変だったかにふれるまえに、この連載開始当時の状況をしるしておこう。 
 
 スーチーさんは1995年7月、6年間におよぶ自宅軟禁から解放され、国民民主連盟(NLD)書記長として政治活動を再開した。首都ヤンゴン(当時)の彼女の自宅には世界各国から多くのジャーナリストがおとずれ、軟禁生活の模様や今後の民主化へむけた展望などについてインタビューした。私もその1人だった。 
 
 そのさい私はスーチーさんに、毎日新聞への連載寄稿をお願いした。私の個人的な関心は、「ビルマの民主化運動を支持するが、あなたがたの主張する人権・民主主義をより深く理解するにはあなたの国の政治、歴史、文化、人びとの暮らしや価値観などをしる必要がある。そのことがわかるようなかたちで世界の人びとにむけて執筆していただけないだろうか」というものだった。 
 また、「言論・表現の自由が許されていない国の人びとの声を世界に伝えるのは、言論・表現の自由が認められている国のジャーナリストの責務である」とも、私は述べた。 
 スーチーさんは「しばらく考えさせていただきたい」と答え、数日後に快諾の返事をしてくれた。 
 
 当時、私は毎日新聞の外信部編集委員で、木戸さんは東京の編集局長だった。 
 私はこのスクープ企画をさっそくヤンゴンから東京の外信部に電話で伝えた。だがまもなくして外信部長の返事として返ってきたのは、「そんな企画はおもしろくない」という気乗り薄な答えだった。「なぜそんなことが言えるのか。ビルマの民主化運動のことはおいといたとしても、ノーベル平和賞受賞者が毎日新聞に連載を寄稿してくれたことがあるか」と、部長の意をつたえるデスクに食い下がった。 
 
 連載にGOサインの出してくれたのが、木戸編集局長だった。 
回想録によると、「『毎日』が民主主義を大切にする新聞であることを世界中にアピールしよう」と思ったからである。 
 
 では外信部長(本書では固有名詞がないが、河内孝)はなぜ連載を拒絶しようとしたのか。彼は、「彼女らは勝手に闘っているので、われわれには関係ない」と言い放ったという。 
 国際ニュースの担当部門の責任者とはとても信じられない発言だが、どうやらそれは彼の個人的な見解だけによるものではなさそうである。それをうかがわせるのが、連載開始前後の社内外のうごきに関する木戸さんの証言だ。 
 
 「外務省は『日本─ミャンマー関係がこじれる。ひいては日中関係にも悪影響を及ぼす』と再三にわたって連載の中止を要請。在日ミャンマー大使館も抗議に来社した」 
 
 木戸局長はそれをはねつけた。本書には書かれていないが、木戸さんの話によると、あるパーテーで会った駐日中国大使館の公使も「日中関係にとって好ましくない」と連載を批判したという。そうした外部からの圧力だけではない。編集局長の上に立つ齊藤明主筆までが当時の池田外相の意を介するかたちで連載にあれこれ難癖をつけてきたという。 
 ちなみに、主筆と外信部長とも権力と癒着しがちな政治部出身であり、主として社会部記者としてさまざまな事件の修羅場をくぐり抜けてきた木戸さんとは記者魂が違うということであろう。木戸さんがいかに権力に妥協せず記者活動をしてきたかを知りたければ、本書を一読していただきたい。 
 
 「(圧力を)はねつけてスタートした連載は1年間50回に及び、世界20カ国の新聞にも転載され、軍事政権の横暴とスーチーさんの志がクローズアップ」された。 
 
 連載は1995年11月から翌96年末までの予定だったが、好評のため私は木戸さんに97年もつづけてほしいとお願いし快諾を得た。スーチーさんも多忙な政治活動に追われる日々であるにもかかわらず、ひきつづき週1回の執筆を引き受けてくれた。 
 だが、残念なことに連載は97年の途中で突然ストップした。スーチーさんからの原稿がとどかなくなったのである。理由はわからない。私は何度かいろいろなルートをつうじて彼女との接触をこころみたが応答はなかった。ビルマへの入国ビザは、大使館から拒否された。 
 原稿は軍政下のきびしい監視の目をかいくぐりながらファックスで送られてきていたが、なんらかのかたちで軍政の弾圧をうけて中断を余儀なくされたにちがいないだろう。 
 
▽スーチーさんの日本政府への失望 
 
 それまでスーチーさんとは連載の打ち合わせなどで何度かヤンゴンでお会いしたが、そのつど彼女が私に聞いてきたのは、民主化運動への弾圧に対する日本政府の反応だった。欧米諸国はかならずきびしい軍政批判の声明を発表し、具体的な政策も打ち出していた。だが日本政府からは、そのような毅然たる態度は一度たりとも示されたことはなかった。 
 そのことを彼女に告げると、信じられないという表情で私に問い返した。 
 「でも日本は民主主義国家なのでしょう」 
 
 政府だけではない。自分のエッセイを掲載している新聞社の編集幹部のなかにまで政府の片棒をかつごうとする連中がいるとは、スーチーさんは知る由もなかった。 
 
 その後スーチーさんは軍政によって2度目の自宅軟禁に置かれ、現在は3度目、通算13年となる軟禁生活を強いられている。さらに今年、米国人が自宅に侵入したことが国家防御罪違反だとして訴追され、現在公判中であることは広く報じられている。 
 
 その間、軍政の民主化勢力への弾圧はますます熾烈さを増し、国際社会の軍政批判も高まってきているが、そのなかで日本政府だけは突出した鈍感さをさらけだしつづけている。日本のメディアの多くも、「わが国は軍政とスーチーさん側の双方に独自のパイプをもっている」という外務省サイドの見え透いたウソを検証せずに垂れ流してきた。 
 
 スーチーさんがいつ解放されるのか、民主化がいつ実現するのかはわからない。 
 でも、「その日が来たら、彼女に会いに、こちらから飛んでいくつもりだ」と、木戸さんは「まだ見ぬ人」への熱いおもいを記している。 
 
 木戸さんの先輩の岩見さんは、さきの「サンデー時評」をつぎのように結んでいる。 
 「新聞の斜陽が言われている。だが、真実に迫ろうとする記者たちの黙々の日々がなければ、自由で民主的な社会は保てない。その断面を赤裸々に書き残してくださった木戸さんの出版に拍手だ」 
 
 後輩の私も、自分のジャーナリスト生活のなかでこのような先輩といっしょに仕事をできたことに感謝しながら、拍手を送りたい。 


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