2009年09月04日14時10分掲載  無料記事
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中国

「私は投獄されるためにがんばる」 四川大地震の犠牲児童調査で政権転覆扇動罪の活動家を支援 前衛アーティスト、艾未未にインタビュー

  現在、東京・六本木ヒルズの森美術館で「アイ・ウェイウェイ展 何に因って」が開かれている(11月8日まで。会期中無休)。アイ・ウェイウェイ(艾未未、52歳)とは中国の前衛アーティストであり、その父は、活動的な憂国詩人として名高い艾青(アイ・チン/がいせい。1910〜1996)だ。破壊的イメージの作品をつくる艾未未は、アメリカを中心に活動をし、北京の国家スタジアム「鳥の巣」建設で設計顧問も務めた。しかし中国の社会問題にも関心を持ち、昨年末から四川大地震で犠牲になった子供たちの実情を調査し、詳細な名簿まで作成している。同じく犠牲児童の名簿を独自に調査・作成している四川省の人権活動家、譚作人(地震後、石油化学工場の建設に反対し、白紙を手に持つ抗議活動も行った)が、「国家政権転覆を扇動した罪」で逮捕され、成都市人民裁判所で裁判が行われることになり、艾はその支援のため成都のホテルに滞在していたところ、8月12日未明、警官に押し入られ、殴打された。同じホテルに宿泊していた仲間のボランティアたちも、ホテルが警官隊に包囲され、公判に行くことができなかった。艾未未は警官に取り囲まれている自分のようすを携帯電話のカメラで撮影しさえした。「投獄されるためにがんばる」という型破りのアーティストに、亜洲週刊がインタビューした。(納村公子) 
 
 艾未未氏にとって2009年は、初めて経験する事の連続だった。初めて「公民」として大衆に知られ、初めて自身のブログ、ツイッター、飯否(訳注:中国で提供されているツイッターに似たミニブログサービス)が閉鎖され、初めて国内安全保衛警察(訳注:秘密警察)に監視され、初めて公安に殴られた。 
 それまでの彼は国際的に有名な芸術家であり、鳥の巣スタジアム設計の中国側顧問である。本人はあまり表に出したがらないが、有名な詩人艾青(訳注:1911〜1996年。浙江省出身、フランス留学経験のある憂国詩人。1930年代、左翼活動で投獄され、戦後も1950年代に右派として強制労働につかされるが、そのつど名作の詩を創作している)の息子である。 
 
 その人物像が一新したのは2008年12月15日。彼はボランティア団体とともに「五一二市民調査」グループを立ち上げ、四川大地震で犠牲となった学生の名簿作りを始めたのである。調査は1年にもおよび、のべ100人以上のボランティアが四川の各地で実地調査を行ない、2009年7月28日には「犠牲となった学生数は5194名、そのうち確認できたものが4803名、確認のとれないものが391名」と発表した。 
 
 中国では「ご存じ」の政治体制の中にあって、艾氏らはじつに粘り強く努力したと言えよう。詳細でかつ血のかよったこの膨大な数の名簿と、その調査過程で受けた妨害の記録を作ることができたのは「奇跡」と言われている。 
 
 彼のことを「何かやらかす」アブナイ人間だと言う人もいる。だが、彼は笑いながら「親父は牢獄にぶち込まれたけど私はまだ。悔しいね」などと言ってみたり、まじめな顔で「私が何をした? 誰も私を傷つけることなどできない。誰だって他人を傷つけることなんかできないんだ。自分を傷つけるのは自分だけ。プレッシャーに耐えきれなくなったり、完璧を求めてできなかったりしたときだ。これは、自分で自分のあり方を傷つける(原則的)問題なんだ」と言う。 
 
 四川で初めて公安に殴られた際も、人生で最高の状態だと言った。長年たずさわっている芸術活動からは、最適な表現方法を見つけることができなかった。しかし今はそれに手が届きそうだと言う。彼のお気に入りに、80年代生まれの韓寒(訳注:1982年生まれの上海の作家。男。邦訳の小説に『上海ビート』がある)という若手作家がいる。「よく遊び、自分の仕事を愛し、女の子を愛し、気に入らない人間は攻撃し、お仕着せを嫌い、生き方にこだわりがある」。艾氏に言わせれば、韓寒は暗い部屋を突き抜ける一筋の光だと言う。「こういう光が社会を目覚めさせるんだ」。 
 
 艾氏は自らを「八〇後」(訳注:80年代に生まれた、新しい価値観をもつ若者世代をさす言葉)と言い、自分はどんどん若くなっていると言う。「あせることはない。私はまだウォーミングアップ中でスタートラインにいるんだ。始まったばかりさ」。では走り出したらどうなるのだろう。「想像できないね。何事も想像の域を出ないようであれば、やる価値がない」。 
 
 彼の自宅兼アトリエは北京郊外の草場地芸術区にある。もともと芸術グループの工房であったが、現在では五一二調査にたずさわる若きボランティアたちの駐留場所となり、壁一面に犠牲になった子供たちの名簿が貼られている。さらに、ここには40匹の野良猫と7匹の野良犬がいて、いずれも艾氏の生活の一部だ。インタビューの最中も、青い目をした白猫がテーブルにやって来て、私の手を枕にして寝ていた。以下はインタビューの要約である。 
 
――なぜ四川に行き、譚作人氏の証人をつとめようと? 
 弁護士に呼ばれたんだ。譚氏は我々と同じような活動をして捕まった。私も彼と同罪と言えるし、むしろ私のほうが多くの事をやったし、世間を騒がせた。譚氏と我々は道義も目的も同じだし、たどりつくべき結論も同じ。彼の証人をつとめるのは当たり前のことだ。 
 
――もし無事に法廷に行っていたら、何を言うつもりでした? 
 死亡した学生の数と建築物の手抜き工事との関係を説明し、譚氏を罪人とすることの非を証明しようと思った。これは明らかな事実だ。事前準備もしっかりしたし、証人として呼ばれようが呼ばれまいが、私は行くつもりだった。名簿や専門家のインタビューを含む10通以上の文書や、音声や映像の資料、18か月にわたる調査中の日記も用意した。日記には調査の苦労や政府からの干渉、26人が連行され2人が殴られた事実も記されている。政府の態度がわかるし、譚氏が捕まった理由もわかるはずだ。 
 
――芸術と今の活動との関係は? 
 芸術は表象にすぎない。でも人間には筋肉も血管もあり、それを欠くことはできない。どんな表現も結局は政治だと私は考える。芸術を通じて自分にとってふさわしい表現方法を見つけることはできなかった。でも今はそれに近づいた気がする。以前は発言権がなかったが、今はブログをやるようになった。私は確信犯。芸術活動も、各方面で得た名声も、すべては確実な活動の場を得て発言するため。公の場では公のための話がされるべき。私はその確実な場を探していたんだ。しっかりした釘が必要だったんだ。釘もないのにハンマーを振り回しても意味がないだろう? 
 
――今が一番良い状態だと? 
 そう。とくに顔を殴られたあの瞬間ね。あの時、思い出したんだ。私の父は70数年前、上海のフランス租界で左翼デモの準備をしていた。会議の最中に国民党と警察が部屋に突入してきた。他の人間は抵抗しなかったが、父だけは抵抗した。私と同じだね。父はフランスから帰国したばかりで、インテリの気概にあふれ、頭の中は自由・平等・博愛で一杯だったのさ。そして父は殴られた。自分が殴られた時、この話を急に思い出して、愉快だと思ったよ。父は6年の刑をくらったけど、私はまだおとがめなしさ。 
 
――「芸術家」と呼ばれるのと「公民」と呼ばれるのとでは、どちらがいいですか? 
 もちろん公民さ。公民と呼ばれるほうがリアルだし、芸術家というのは変じゃないか。人を芸術家と呼ぶのは、臭豆腐売りを臭豆腐屋と呼ぶのと同じで、なんだか軽蔑しているような感じがする。本当は「公民」だって好きではないよ。人を公民と呼ぶのは……まるで人はこうあるものだって言われているみたいで気持ち悪い。よく使う言葉だけど、本当は好きじゃないんだ。 
 「公民」は公民社会や民主社会の概念で、社会に参加することで意味を成し、責任を負うことを要求される。政治とは最終的に個人の生命に対する公平さや平等に行き着く。人類の理想をつきつめると、最後に行き着くのはまぎれもなくこの単純な問題なんだ。そして場合によっては、この「公民」という言葉が大きな犠牲を強いることもある。だけどこの言葉は、それ以上何かを語るものでもなく、ましてや我々の精神のあり方や生活の質や存在意義を語るものでもない。この言葉が要求するものは、合理的な秩序にすぎない。その秩序は個人にとって有利とは言えないが、無害ではある。 
 
▽投獄されるためにがんばる 
 
――「秩序の破壊者」だった昔のあなたと、今のあなたはまるで違うようですが 
 たしかに私はもっとも秩序からかけ離れた人間だし、もともとはアナーキストで自由主義者で個人主義者だ。秩序に反抗し覆そうとする人間だ。でも今の私は非常に具体的で細かい問題に慎重に取り組んでいる。思うに、効果的に秩序を壊す人間は、秩序そのものを一番理解していなくてはならない。そうでなくては意味がない。人は若さゆえの正義感で憤りを覚えることが多いが、これはまだ物事をしっかりと理解していないのだと思う。 
 私は少し違う。さまざまな環境で生きてきた。全体主義のもと、20年ものあいだ家族で新疆送りになった経験もある。その後、まったく英語がわからない状態でアメリカに渡り、12年間その文化の中に身を置いた。その後中国に戻り、経済発展の中で国の利益集団がいとも簡単に、資源を個人の権力を守る道具にしてしまうのを目撃したし、その過程で個人が犠牲になっていく様子も目の当たりにした。 
 
――見張られ、捕まり、殴られて、恐怖を感じませんか? 
 それは感じない。93年に中国へ戻ってきた時に心構えはできていた。でも81年に中国を離れた時は、二度と戻らないと決意したほど絶望していた。81年の「星星画展」(訳注:1979年に北京で結成された前衛アート集団「星星画会」による展覧会)で、我々の友人である魏京生が有罪にされた事件があった。20歳そこそこで、国に対して思い入れのある若者がスパイ罪で捕まったんだ。私はその時、この国に希望はないと思った。 
 93年に再び戻って来るにあたり「もし帰国して捕まったらどうする?」と自分に問いかけた。なにしろ私は国外で多くの運動に参加していたからね。だけど、せいぜい刑務所に送られるぐらいだろうと考えた。そもそも私が唯一父親に対して嫉妬を覚えるのは、彼には投獄の経験があるのに、私にはまだないということ。そろそろだけど、まだがんばらないとね。 
 
――中国の統制システムを初めて目の当たりにした感想は? 
 彼らは強大な機関のもとで、どんな犠牲を払ってでも事を行う。1匹の蚊を殺すのに家をたたき壊す勢いで、どんどんエスカレートする。譚氏のささいな行動も大騒ぎされ、あらゆるシステムが総動員されている。今の政権はこういった基礎の上に成り立っていて、人の目や耳をふさいで殴り、口をふさいでさらっていく。 
 こんな国が将来良くなっていくとはとても思えない。私は社会が良くなっていくことを望んでいる。それは個人が罪を犯す余地が与えられる社会であり、間違っても政治権力だけが罪を犯すことを許される社会ではない。 
 
原文=亜洲週刊09/8/30 張潔平記者 
翻訳=本多由希 


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