2009年10月02日17時20分掲載  無料記事
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政治

時代錯誤のダム建設の中止は当然だ 「始めたら止まらぬ」悪弊の一掃を 安原和雄

  「過(あやま)ちては改むるに憚(はばか)ることなかれ」とは、論語の言葉である。しかしこの「過ちをためらわないで改める」ことを実践するのがいかに難しいかを考えさせる具体例が民主党連立政権が打ち出した八ツ場ダム建設中止問題である。 
 ここには「いったん動き出したら止まらない」大型公共事業の悪弊がひそんでいる。こういう悪弊を一掃するためにもダム建設は中止するときである。そのダムが用をなさず時代錯誤と化しているからには建設中止は当然のことである。遅きに失したともいえるが、過ちを続けるよりは評価に値する選択である。 
 
▽ ダム建設中止を新聞社説はどう論じたか 
 
 民主党連立政権が打ち出した八ツ場(やんば)ダム(群馬県)建設中止問題について、新聞社説はどう論じているか。大手新聞社説の見出しと主張の内容を紹介しよう。 
 
*朝日新聞(9月18日付)=八ツ場ダム 新政権の力量を見せよ 
*毎日新聞(9月23日付)=八ッ場ダム中止 時代錯誤正す「象徴」に 
*読売新聞(9月24日付)=八ッ場ダム中止 公約至上主義には無理がある 
 
 朝日社説は、「八ツ場ダムなどの建設中止は、全国で約140の計画中や建設中のダムにも影響を及ぼすだろう。しかし、問題はダムに、さらには公共事業だけにとどまらない。政権が代わったことを国民が実感できるか。矢継ぎ早に新政策を繰り出す鳩山政権の力量が試されている」と論じた。 
 一方、読売社説は見出しの「公約至上主義には無理がある」からも分かるように中止に批判的であり、「周辺1都5県も建設続行を求めている。公約に掲げたからといって、中止を強行できる状況ではない」と主張している。 
 
 毎日社説は、見出しにあるようにダム中止を「時代錯誤正す象徴」としてとらえている。腰の据わった正論というべきであり、以下、要点を少し詳しく紹介したい。 
 
・計画から半世紀以上、住民を翻(ほん)弄(ろう)し苦しめてきたことを謝罪するとともに、中止の理由について意を尽くして説き、不安を取り除くのは政治の責任である。 
・時代にあわない大型公共事業への固執がどんな問題を招くかを広く知ってもらい、こうした時代錯誤を終わりにすることをはっきり示す「象徴」としてほしい。 
 
・治水と利水を兼ねた八ッ場ダム計画は、1947年の台風による利根川決壊で浮上した。吾妻川沿いの温泉街をはじめ340戸の水没が前提で、首都圏住民のための犠牲を強いられる地元に激しい反対運動が続いた。苦渋の末、地元が同意に傾いたのは90年代に入ってからだ。時間がかかったため事業費は当初の2倍以上の4600億円に膨らんだ。 
・この間、首都圏の水需要は減少傾向にあり、洪水対策としてのダムの有効性に疑問が示された。しかし、そもそもの目的が疑わしくなり、悪影響が指摘されながら完成した長良川河口堰(ぜき)、諫早湾干拓、岐阜県の徳山ダムを追うように、ダム湖をまたぐ高架道路、移転住民のための用地造成などが進み、ダム本体の着工を残すだけになった。まさに「いったん動き出したら止まらない」大型公共事業の典型である。 
 
・これ(中止)に対して利水・治水のため建設費を負担してきた1都5県の知事は「何が何でも推進していただきたい」(大澤正明・群馬県知事)などと異論を唱えている。すでに約3200億円を投じており、計画通りならあと約1400億円で完成する。中止の場合は、自治体の負担金約2000億円の返還を迫られ、770億円の生活再建関連事業も必要になるだろう。ダム完成後の維持費(年間10億円弱)を差し引いても数百億円高くつく。単純に考えれば、このまま工事を進めた方が得である。 
 
・だが、八ッ場だけの損得を論じても意味はない。全国で計画・建設中の約140のダムをはじめ、多くの公共事業を洗い直し、そこに組み込まれた利権構造の解体に不可欠な社会的コストと考えるべきなのだ。 
・「ダム完成を前提にしてきた生活を脅かす」という住民の不安に最大限応えるべく多額の補償も必要になるが、それも時代錯誤のツケと言える。 
 
▽ 「動き出したら止まらない」公共事業の利権解体を 
 
 八ツ場ダムの建設中止は、ダムが必要であるにもかかわらず、資金不足などの理由で中止に追い込まれた、などという性質のものではない。もっと大事な視点が含まれている。それは上記の毎日社説も指摘しているように2つある。 
 
 ひとつは建設の目的そのものが疑わしくなり、だから時代に合わなくなり、時代錯誤と化した公共事業は、たとえ巨額の財政資金を投じているとしても、きっぱりと手を引くこと、そういう事例の「象徴」として位置づけられること。 
 中止によって生じる地域住民の生活不安にはもちろん適切な補償によって応えなければならない。それは当然のことである。 
 
 もうひとつは、ダムに限らず、公共事業全体に組み込まれた政治家、官僚、業者の利権構造にメスを入れ、利権構造そのものを解体すること。 
 公共事業の多くは「いったん動き出したら止まらない」ことが、特質となっているが、その裏には自民単独政権時代から自民・公明連立政権時代へと続くいわゆる政官業三者の相互癒着と利権構造がひそんでいる。公共事業の発案と推進者は、ほかならぬ政官業三者であり、そこに癒着と利権がからんでいるため、自己制御は不可能であるだけではない。反対意見を抑えつけながら計画続行に執着するわけだから、「いったん動き出したら止まらない」のも容易に想像できるだろう。そういう悪弊を一掃するときである。 
 
▽ 計画遂行への執着 ― 太平洋戦争時代と平成時代と 
 
 この〈自己制御能力の喪失〉と〈計画遂行への執着〉というメカニズムの作動は日本の現代史上、決して珍しいことではない。一例を挙げれば、中国への軍事侵略に続く、あの太平洋戦争の地獄のような悲惨な結末も、自己制御不能に陥り、しかも戦争続行に執着したためといえる。自慢にもならない「勝ち戦(いくさ)」は、開戦(1941=昭和16年12月)からわずか半年間で、それから終戦(1945年8月)までの3年余は「負け戦」の連続で、310万人が犠牲となっって尊い生命を失った。 
 歴史に「もしも」はあり得ないとしても、早めに講和の手を打てば、東京大空襲など各都市への空襲、沖縄地上戦、広島・長崎への原爆投下などは免れたにもかかわらず、軍部の「本土での徹底抗戦」という馬鹿げた作戦思想のゆえに惨劇を招いた。 
 かつてのそういう軍部に匹敵するのが今日の政官業の癒着と利権構造とはいえないか。 
 
 当時の示唆に富む事実を指摘すれば、終戦直前まで軍国主義下での聖戦遂行という幻想から自由になれなかった多くの人々が、終戦後は、一斉に「自由と民主主義」を唱え始めたことである。私(安原)は、終戦時、小学5年生だったが、やがて明治憲法が捨てられ、新憲法(現在の平和憲法)が公布・施行され、学校の授業風景もがらりと変わった。毎日のように「民主主義とは、人民の、人民による、人民のための政治」と説明もないまま、繰り返す教師の姿を昨日のことのように記憶している。 
 
 こういう変わり身の速さは、昔も今も変わらないのではないか。ダム中止に関連づけていえば、テレビでみる限り、推進派の県知事などが「建設続行」を声高に叫んでいるが、中止が既成事実となれば、「中止も当然」などに変化するだろう。これが信条よりも利害に左右される群像の正体である。 
 
▽ ひとつの投書から学ぶこと ― 自然と地域経済の再生を 
 
 朝日新聞(9月30日付)「声」欄に掲載された「ダム巡る多様な声を報じて」と題する投書を紹介したい。投書の主は、東京都小金井市在住の大学院生(25歳)である。 
 
 ダム建設中止をめぐり水没予定地住民と国土交通相との対立が報道されている。そこでの住民は一様に「長年翻弄(ほんろう)されてきた。ダム建設中止を望まない」と訴える。その事実に胸を痛めつつも、そうしてつくられる「地元住民」像に違和感を覚えてもいる。 
 ここ5年ほど川辺川ダム(熊本県)などの水没予定地で、長期化するダム計画と住民の生活をテーマに住民のお話を伺い、手記を読んできた。私が見聞きしたのは報道されているような地元住民ばかりではない。 
 生活再建のため中止を求めたいが、公言できないという人も多い。声高の有力者の主張ばかりが報道され、そのイメージが定着することを嘆く住民の言葉が印象的だった。 
 長年ダム計画と向き合ってきた地域社会では多様な声があった。そうした地元のリアルな姿を伝えない限り、メディアに取り上げられない多数の住民が困ると思う。 
 
  この投書を一読して、大学院生という若い研究者の公正な観察が綴られているような印象を得た。つぎの諸点を訴えている。 
・「ダム建設中止を望まない」という「地元住民」像はメディアによって作られたイメージで、違和感を覚えること 
・生活再建のため建設中止を求めたいが、公言できない地元の人も多いこと 
・声高の有力者の主張ばかりが報道され、それを嘆く住民もいること 
 
 この投書は、ダム建設のため水没予定地となっている地域を足で歩いてみて、自分なりに地元の声を調査した結果では、〈中止を明言する国土交通相〉と〈中止を望まない地元住民〉との〈対立〉というメディアのとらえ方は単純すぎるという苦言である。その通りであろう。八ツ場ダムの場合、当初から反対派が多かった。今も反対のための裁判も行われている。 
 
 計画中あるいは建設中のダムは全国で約140もある。政権が変わったのだから、これらすべてのダムについて、その是非を検討するときである。同時に新自由主義路線=市場原理主義路線とグローバル化の大きな流れの中で埋没し、疲弊している地域をどう建て直していくかが大きな課題として浮かび上がってきた。 
 その柱となるべきものは地域の豊かな自然を生かすこと、農林水産業、観光など地域経済を再生させること ― である。この二つを車の両輪として地域の立て直しを図るときである。多様ないのちが息づいている自然を壊しながら巨大なコンクリートや鉄骨を打ち込む時代はとっくに終わっている。 
 
*本稿は「安原和雄の仏教経済塾」からの転載です。 
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