2009年12月16日13時40分掲載  無料記事
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沖縄/日米安保

<日米安保体制>という問題(中)  冷戦が終わり、なんでもありの安保へ  武藤一羊

  しかし、そのあとにもう一度日本の進路を決定できる、いやすべきであった時が来ます。90年代です。ソ連が崩壊し冷戦が終わる。本当は、この時期が非常に重要な時期だったのです。どこの国でも冷戦のなかで形成されてきたそれまでの政策をどうするかをめぐる大論争が起こる。当時の『ニューヨーク・タイムズ』などを読むと、ペンタゴンで今までソ連をターゲットにしていたミサイルの標的を今度はどこに付け替えるか、大騒ぎしている状況などが報じられていました。ソ連を標的にすべての核軍備を組み立てていたのに、その敵がなくなってしまったのですね。そこで混乱状況に陥る。 
 
◆冷戦の終わり 
 
  これが、日本が52年に選んだ進路を大きく変える好機だったのですね。90年代は前年のベルリンの壁の崩壊から始まり、91年が湾岸戦争、92年がソ連の崩壊。しかし、日本はこの機会を52年以来のコースの根本的再検討と転換のために生かすことに完全に失敗します。チャンスをみすみす見送ってしまうのです。 
  逆に日本ではこのころPKO参加問題が起こった。この時は、日本が湾岸戦争で自衛隊をPKOに参加させるかどうかが大問題になり、われわれも毎日国会に行った。1回は阻止した。でも次に通ってしまう。このときの政府のキャッチフレーズは国際貢献でした。 
  国際貢献とは冷戦後のアメリカの秩序つくりにどう貢献すれば、アメリカに気にいってもらえるかの話です。湾岸戦争の時に、130億ドルでしたかお金を出したけれど、ありがとうとも言ってもらえなかった。これではいけない。自衛隊を海外派兵できるようにしなければ、日本は国際的に孤立する(じつはアメリカに見放される)というのが冷戦後の日本の対応でした。本来なされるべき日米安保の再検討どころではなく、逆にそのころから海外派兵、改憲論が高まっていくのです。 
 
  細川内閣のときに、アサヒビールの会長の樋口さんが主宰する防衛問題懇談会という首相の私的諮問機関が冷戦後の日本の安保政策について報告書を出し、そのなかで多角的安全保障という考えを打ち出します。これは日米安保を止める話ではなく、これまでのような受け身の安全保障でなく、地域的安全保障を含めた能動的な姿勢が必要とする微温的な提案で下が、それでもこれにアメリカは過剰反応して、冷戦後の日本との関係を引き締めにかかります。 
 
◆ナイ・イニシアティブ 
 
  冷戦後アメリカのアジア戦略は不確定でした。アジアからの軍事的撤退論も強かったのです。それが新しい形をとるのは95年ごろです。この年ジョセフ・ナイ国防次官がナイ・イニシアティブと言われる提案を出し、その線で「東アジア太平洋地域におけるアメリカの安全保障政策」が打ち出されます。その基本は米軍はアジアから撤退しない、韓国、沖縄、日本に居座るという点にあります。そこで、日米安保はアジアにおけるアメリカの安全保障の要、リンチピンであるという位置づけがなされます。リンチピンとは、引っこ抜くと仕組みが全部ばらばらになるようなカナメのことですね。ほかならぬその95年に、沖縄での少女に対する米兵の暴漢事件が起こり、太田知事を先頭に立てた全島の反基地運動の盛り上がりが起こった。 
 
  ここで、「国際貢献」で冷戦後の重要なチャンスを見送った日本=ヤマトが目覚めて、日米安保条約を見直そうという動きが起こるべきでした。しかしそうはできなかった。非常に残念だと思います。ヤマトの運動も沖縄を支援するというスタンスだった。支援は必要なことですけれど、一番大事なことは、この条件の中で、ヤマトの運動の方が、自分たちの問題として、日米安保をどうするかを自身の運動課題としてはっきりと立てることだったと思うのです。そうしてはじめて、沖縄の運動との支援関係を越えた、連帯関係に立つことができたでしょう。日本全体の運動として安保にたいするはっきりしたスタンスを取って、そして日本政府を動かしていくことが大事だったと思う。それができなかった。そしてその状態がずっと続いている。沖縄は闘わざるを得なくて闘っている。そしてヤマトのわれわれはそれを支援する、そういう関係がずっと続いている。私は今それを変える時だと思います。われわれ自身の問題としてこの安保体制をどうするかと問題を立てていかない限りは、沖縄の人たちとの対等な共闘関係は成り立たないと思うのです。 
 
  95年、沖縄の反基地運動によってアメリカは土俵際に追いつめられました。そして、土俵際で沖縄にうっちゃりをかけたのです。レイプされたのは沖縄の少女で、しかも北京女性会議のさなかだった。非常にまずい状況だった。だからクリントンが謝罪した。アメリカ大統領が謝罪するなんてことは滅多にないのに、そうせざるをえなかった。相当の危機感を持っていたのですね。つまり土俵際に追いつめられたのです。そこでうっちゃりをかけた。相手の力を利用して土俵の外に放り出す技をかけたんですね。それがSACO合意というものでした。圧倒的な沖縄の反基地の圧力にたいして、沖縄の負担を軽減する、普天間基地を廃止するという譲歩の見せかけで、この圧力を新しい基地を造るという方向にそらせていった。昔から新基地建設の計画を温めていた辺野古に基地を造る話にすり替えた。そうした上で、クリントン・橋本共同宣言で安保再定義というもうひとつ大きいすり替えをやってのけた。 
 
  再定義ということは今までの定義では日米安保は成り立たなくなったことの自認なんですね。冷戦は終わった。そうすれば冷戦のために存在していた安保条約の意味は当然無くなったわけです。意味を失った条約ならやめるのが当然なのに、やめたくはない。やめれば基地も失う。それは失いたくない。ならば他の目的に転用しよう。だから安保の目的の方を変えよう、再定義しようとなったわけです。 
  それはなにか。世界の中の安保同盟ということばで、アメリカの世界支配に役立つ日米同盟ということになった。そのなかで日本は役割を果たします、アメリカの世界一人支配に日本が無条件に協力します、というのが1996年の安保再定義なのです。これは60年安保条約と違うじゃないですか。安保条約は米軍の役割を厳密に日本と極東に限定していたのです。ところが対象は世界になり、目的も変わった、それなら安保条約をどうするかという根本問題が当然出てしかるべきなのに、国会でも議論はしないし日本政府はこの根本的性格変更について何も説明しなかった。60年安保をめぐるいわゆる安保国会では条約解釈をめぐって厳密な議論が闘わされ、それを通じて安保に枠をはめた。安保三羽ガラスといわれた社会党の有能な議員たちが藤原外相を問い詰め、安保条約の適用範囲なども、極東の定義を求めて、緻密な議論で枠をはめた。こうした積み重ねた安保解釈などは、安保再定義でどこかへ吹っ飛ばされてしまった。 
安保条約は変わらないのに、中身は議論抜きにすり替えられた。 
 
  新しい中身はアメリカの覇権という考え方です。「東アジア・太平洋戦略」という新戦略では、アメリカの「全領域にわたる支配」という戦略目標がかかげられます。そしてこの支配に挑戦するどんなパワーの出現も許さない。そういうことを露骨に言ってのける、つまり世界はアメリカが仕切る権利があるという宣言です。それを言い始めたのではジョージ・ブッシュではない。ビル・クリントンの政権なのです。 
 
◆日米軍事ガイドライン 
 
  それを東アジアで実現するために日本はカナメ、リンチピンだというのです。この戦略の下でつくられたのが改定ガイドライン「新日米防衛協力のための指針」です。これは本当にどぎつくすごいものだった。日本のすべての能力、軍事基地だけではなくて、港湾から空港、自治体のサービスまでをいざという時にはアメリカが使えるよう日本が協力する。米日の軍隊が「調整センター」をつくって一体的に作戦を展開する。そういうことをガイドラインという形にした。 
  ガイドラインというのは、どういう法律的効力があるのかあいまいな取り決め方です。これには誰も署名していないのですよ。外務大臣も署名していない。誰が決めたか分からない。実際は、両国の軍と外務省の実務レベルで作成して、それがガイドラインということになった。国会にもかからない。成文が日本語か英語かも分からない。条約ではないから国会にかける必要がない、批准が必要ではない。既にその段階で、60年安保というのは、形式的には存在するけれど、実質的には棚上げされた存在になったのです。 
 
  このガイドライン安保はまた米日共同軍事の守備範囲を「周辺事態」という言葉を使って拡大しました。「事態」という妙な言葉が使われていますが、これは「有事」と言われていたものと同じでしょうね。「周辺事態」が起こると、日本はアメリカに軍事協力をする。周辺事態は日本の安全にとって脅威になると説明されましたが、周辺事態の定義というものはガイドラインの中にはないのです。その上、「周辺」とは地理的概念ではなくて「状況的概念」であるまで書いてあります。何でもアリです。こういういいかげんな、条約でもない下級のとりきめで、軍事をめぐるものごとが勝手に進められていきました。 
 
  この新ガイドラインができたのは1997年、今から12年前です。 
 
◆ブッシュのクーデター 
 
  さてアメリカでは、湾岸戦争のブッシュの息子であるブッシュが2000年に権力を握り、911事件の後、反テロ戦争を開始します。これはグローバル政治におけるクーデターみたいなもので、ブッシュ政権は、アメリカは国際法の上に立つと公然と宣言した。国連は無用という議論が米政府から出るようになります。アメリカにつくか、テロリストにつくか、すべての国はどちらかを選べ、とか、アメリカは国連も国際法も無視して「ならずもの国家」に先制攻撃をかける権利があるとかいうべらぼうなことを主張し、主張するだけでなく実行し始めます。イラク侵略です。 
 
  これにたいしてはヨーロッパもロシアも反発した。しかし小泉政権は、最初からそのアメリカを支持しました。そのなかで、1997年にガイドラインというあいまいな文書に盛り込まれていた戦時措置が、強制力のある法律として次々に制定されて行きました。99年には周辺事態法がつくられていましたが、911後には、2003年には武力攻撃事態法、04年に国民保護法、テロ特措法、イラク特措法ができる、自衛隊法を変えて防衛庁を防衛省にする、と言う風なことがどんどん進んできて、そして2007年の米軍再編に辿りつく。 
(続く) 
 
(むとう・いちよう、ピープルズ・プラン研究所) 


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