2010年04月03日04時24分掲載  無料記事
http://www.nikkanberita.com/print.cgi?id=201004030424036

みる・よむ・きく

仏教小説『暴風地帯』(中村敦夫著) 風力発電派と原発派の抗争の果てに 安原和雄

  サスペンス・ミステリーでありながら、その実、読み応えのある仏教小説として描かれている作品が登場した。中村敦夫著『暴風地帯』である。原子力発電廃棄物処分場の誘致派と、再生可能な自然エネルギーの一つ、風力発電の推進派との抗争が作品の筋立てとなっており、突如発生した猟奇殺人事件の謎に主役の僧侶が挑んでいく。 
 少欲知足などの仏教説法も随所に織り込まれており、これまでの多くのサスペンスものとは異質の作品に仕上がっているだけではない。最新の葬式スタイルである自然葬にも触れているところは、葬式仏教で不評を買う仏教界そのものへの警鐘ともなっている。 
 
 中村敦夫(注)著『暴風地帯』(角川書店・2010年3月25日初版発行)の筋書きを紹介すると ― 。 
 房総の港町で、発電用風車に吊された女性の全裸死体が発見された。同時に被害者が所属する風車住民組織の理事長が行方不明になった。その背後に自然エネルギー開発と原発廃棄物処分場誘致をめぐる争いがひそんでいる。前代未聞の猟奇殺人事件の闇に僧侶で、元警視庁捜査一課長の法舟が迫る。 
 この筋書きからすれば、明らかにサスペンス・ミステリーであるが、主役として登場するのは僧侶であり、ミステリーに深みを添えた仏教小説ともなっている。以下では僧侶が説く仏の教えのいくつかを紹介する。 
 
(注)著者は1940年東京生まれ。東京外国語大学中退後、劇団俳優座へ。72年、主演テレビドラマ「木枯らし紋次郎」がブームを呼ぶ。その後、参議院議員に当選、「みどりの会議」代表として環境問題に取り組む。2004年政界を引退し、現在日本ペンクラブ環境委員長。 
 
▽ 温かいお粥をいただく幸せ 
 
 まず僧侶(僧と略す。以下同じ)の法舟と寺男(てらおとこ)とのやりとりを中心に紹介する。 
 
 土鍋の粥が炊き上がると、法舟は茶筒に入れてあったカタクチイワシのイリコを振りかけた。あとは常備食の梅干しとたくあんだけである。両方とも、法舟自身がつけたものだった。梅は寺の老木から摘んだもの、大根は契約農家からくる有機野菜である。 
 
僧「これが本当のぜいたくというものだ。そう思わんか? 世界一の健康食品。栄養もカロリーも充分で、しかも味わい深い。見かけは質素だが、内容は豪華だ。分かるか?」 
 「和尚、たまには焼き肉を喰いたいとか思わんのですか」 
僧「肉は要らん。特に牛肉は喰いたくない」 
 「どうしてです?」 
僧「牛肉を1キロ作るのに、牛は7キロの穀物を食べるそうだ。人口がどんどん増え、経済大国の人間が不健康な食文化に染まり、メタボがどんどん増えていく。メタボに喰わせる食用牛がもっと必要になれば、飼料用穀物の需要も増える。穀物を作るため土地開発をやる。アマゾンの森林などはどんどん減っているそうじゃ。そればかりじゃない。穀物は家畜の餌として貿易用商品となり、地元の農民には高すぎて口にも入らなくなっとる。今や、飢えに瀕している人が9億人にものぼるそうだ」 
 「そんなにひどいんですか。そう考えると、こうして温かいお粥をいただけるなんて、ずいぶん幸せなことなんですねえ」 
僧「その通りじゃ。少欲知足 ― 少ない欲望を充(み)たして、足るを知る。釈迦の教えは、ますます重みを増してくる」 
 
▽ 人生は、なかなか思い通りにはならぬ 
 
僧と被害者の母親、夏子との対話を紹介する。 
 
 「和尚さんと私、昨日まで見ず知らずの他人でした。それが、この時間にこんな場所で一緒にいる。おかしいですね。何で、こうなるんでしょう」 
僧「仏教では〈因縁〉と呼びましてな。それぞれの過去の行為、つまり〈業〉の結果、様々な関係ができるということです」 
 「でしょうね。私の行いはろくなものじゃなかったから」 
僧「そんな風に、自分だけを悪く思わんほうがよろしい。お釈迦さまは、人間は生まれたときから苦を背負っている。四苦八苦という言葉がありますな。人生は、なかなか思い通りにはならぬと説いておられる、皆、似たり寄ったりだ」 
 「すると、人間はだれも幸せになれないんですか」 
僧「少欲知足。生きていく上での小さな欲望を充たすだけで、足るを知る。そうすれば、肩の重荷がおりる。貪欲にしがみついている限り、苦痛や悩みは絶えない」 
 
 「いつまで経っても、わたしってダメ人間なんですねえ」 
僧「そんなことはありませんよ。同じところに留まっている人間なんておりません。〈諸行無常〉といいましてな。人間でも動物でも岩でも、あるいはさまざまな事象も、すべては刻々と変化し続け、同じところに留まることはない。だから、あれしかない、これしかないというようなこともないのです」 
 「諸行無常ですか・・・」 
 夏子は、ポツンと呟いた。 
 
▽ 犯罪、戦争、環境破壊は煩悩から起こる 
 
ここでは主役の僧、法舟の「煩悩と犯罪、戦争、環境破壊」論を紹介する。 
 
 坐ること(坐禅)の最大の目的は、無我無心になることである。しかしこれがなかなか難しく、年季の入った法舟といえども、いつもうまくゆくとは限らない。 
 法舟の方程式からすれば、すべての犯罪は煩悩から起こる。煩悩とは、各種の欲望と執着である。金銭欲、物質欲、名誉欲、性欲、食欲などだが、それが度を越えると、個人的には犯罪へ、社会的には戦争や環境破壊にまで至る。釈迦は2500年も前にそのことを指摘し、〈少欲知足〉を説いた。 
 
以下は、僧と寺男との対話である。 
 
僧「拙僧は、まだ修行が足りなくてな。信長に焼き殺された恵林(えりん)寺の快川(かいせん)国師のように、〈心頭滅却すれば火もまた涼し〉とはゆかん」 
「和尚さんでも、地球温暖化には勝てませんか 」 
僧「なかなか・・・・・」 
 法舟は、首を横に振った。 
 
▽ 巨大な利権の構図 ― 貪欲 
 
 自然エネルギー専門家と僧との対話である。 
 
 自然エネルギーの専門家「〈ピークオイル〉という言葉がありましてね。つまり世界の石油の生産量が右肩上がりから、減少に転じる年です。発掘可能な石油は、現在の速度で消費すれば、あと40年分くらいしかありません。当然、いつかは生産量が減ってゆきます、そのピークオイルはあと数年と言われています。世界は代替エネルギーを開発せざるを得ません。世界の趨勢(すうせい)は、自然エネルギーに向かっています。それを一番恐れているのは、日本の電力マフィアです。つまり原発中心主義で暴走してきた政府、省庁、大手電力企業です。原発は、こんな小さな国土に世界第3位の55基、さらに4基を建設中です。しかも日本の企業は原子炉の生産を独占し、海外からの受注作戦を展開しています。巨大な利権の構図ができ上がり、原発主義者達は、一歩たりとも後退したくない。自然エネルギー構想は、彼らの恐怖の的なんですよ。聞くだけで、アレルギーが起きるようです」 
僧「またしても利権ですか。貪欲(どんよく)の煩悩とはいえ、原発はこんな地震の多い国では危険きわまりない。ある雑誌で知ったのですが、大小の事故が毎週のように起きている。それをひた隠しにして、世論の批判を避けているそうですな」 
 
▽ 執着が強いと、欲望も増幅する 
 
 ここに登場する青次郎が殺人事件の犯人である。 
 
 やがて、声も嗄(か)れ、涙もつきたのか、青次郎は静かになった。 
 「和尚さん、教えてくれませんか。オレはなんでこう運が悪いんでしょう。がんばっても、がんばっても負けてばかり・・・」 
 青次郎が、天井を見つめながら、力の抜けた声でポツリと言った。 
僧「そう思い込むのは、自分への執着が強すぎるからでしょう。執着が強いと、欲望も増幅する。しかし、現実はその欲望を充たすようには動かない。そこで不満が溜まり、人生が息苦しいものになる。反対に、自分を取るに足らぬ存在だと認めれば、急に気持ちが楽になる。謙虚であることの良さが分かる。自分とは、あるようでないような存在。それが本当のところかも知れませんでな」 
 「それが、色即是空、空即是色ですか・・・・・?」 
僧「いやいや、そんな大げさな話ではありません」 
 「下らねえ!」 
 
 青次郎が、いきなり立ち上がった。 
 「あんたのきれいごとなんて、オレにはまるで当てはまらねえんだよ。オレは生まれてこの方、ずっと呪われてるんだ。(中略)誰も彼も、よってたかってオレの足を引っ張ろうとする。オレには、人殺しでもするしか生き甲斐はない。なんでもっと早く気がつかなかった! 真面目に努力しようなんて、なぜ考えたんだ。自衛隊にでも入って、戦争に行きゃよかった。何人殺しても無罪だからな。戦争をやらないなら、機関銃で町の奴らを皆殺しにすりゃよかったんだ。そうだろ、和尚」 
 青次郎は、興奮の極致に突入していた。 
(犯人であるこの男、青次郎は、やがて近くの断崖から身を投げて自らのいのちを絶った) 
 
▽ 自然葬 ― 檀家制度の壊滅へ 
 
 自然葬とそれがもたらすだろう檀家制度の壊滅にも触れているエピローグを紹介しよう。次のように指摘している。 
 
 極力儀式的な段取りを省き、遺灰を海や山野に撒布する。自然から誕生した生命を、その終焉(しゅうえん)に際して自然へ戻すという考えは、本来仏教的な発想である。 
 ところが日本では、江戸時代に檀家制度が確立され、民衆が先祖代々の墓を護(まも)ることが慣習となった。安定収入を確保した寺院は、次第に布教という本来の使命を放棄し、儀式や墓地売買などの利権に執着するようになった。こうした傾向から生まれる僧侶たちの道徳的腐敗は、人々の大きな反感を呼んできた。 
 加えて、核家族化による〈家〉の崩壊は、人々の〈寺離れ〉を加速している。その新しい表現の一つが、自然葬という形式である。(中略) 
 仏教界がこのままで推移すれば、長期的にみて、檀家制度は壊滅するだろう。 
 
 人間の欲望には限りがなく、それを追求することが生き甲斐であるという哲学が、社会を狂気に導いている。それは、人間に暴力と異常行為を引き起こさせ、本来備わっているはずの仏性を追放する。 
 釈迦は、2500年も前にそれを見抜き、〈少欲知足〉を説いた。だが文明の発達と逆比例して、人間社会の貪欲はますます肥大化し、その行動は醜悪になってゆく ― と。 
 
▽ 〈安原の感想〉 ― 繰り返し説かれている「少欲知足」 
 
 この作品はサスペンスものでありながら、仏教の「少欲知足」が繰り返し説かれているところがユニークといえる。「少欲知足」を説くことによって、逆に人間の貪欲(どんよく)に基づく行動がいかに醜悪であるかが浮き上がってくる仕掛けになっているともいえよう。 
 
 釈迦は少欲知足をどう説いたのか。 
 少欲は、「多欲の人は多く利を求めるため、苦悩もまた多い。少欲の人は求めることなく、欲もないため、患(わずら)いはない」である。 
 もう一つ、「少欲の人は、諂曲(てんごく)して人の意を求めることもない」、つまり権力などに諂(へつら)わず、自分を曲げないで毅然とした生き方ができる、とも説く。 
一方、知足については「不知足の者は富んでいるようにみえても、実際は貧しい。知足の人は貧しいといえども、富む」と。知足は貧乏のすすめではない。「これで十分」と受け止めて、「足るを知ること」は豊かだという意である。 
 
 釈迦の教えに反して少欲知足を忘れ、煩悩、欲望が度を越えると、「個人的には犯罪へ、社会的には戦争や環境破壊にまで至る」と主役の僧は指摘している。だからこそ少欲知足の生き方に徹すれば、犯罪も減るし、環境の汚染・破壊も起こらないし、戦争もなくなる。つまり非暴力=平和をつくっていくこともできると言いたいのである。正論である。 
 
 さてお寺さん達の少欲知足はどうなっているのか。江戸時代から続く檀家制度に甘んじて、個性を競い合う良質の競争意識を失い、法外のお布施に依存する葬式仏教はたしかに「人々の大きな反感」さえ招いている。この貪欲ともいえる葬式仏教のシステムが改革されない限り、反・葬式仏教、そして檀家制度崩壊への流れは、加速されることはあっても、弱まることはない。 
 
*本稿は「安原和雄の仏教経済塾」からの転載です。 
http://kyasuhara.blog14.fc2.com/ 


Copyright (C) Berita unless otherwise noted.
  • 日刊ベリタに掲載された記事を転載される場合は、有料・無料を問わず、編集部にご連絡ください。ただし、見出しとリード文につきましてはその限りでありません。
  • 印刷媒体向けの記事配信も行っておりますので、記事を利用したい場合は事務局までご連絡下さい。