2010年07月22日11時28分掲載  無料記事
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アジア

日本の新幹線方式か中国の高速鉄道か? 板ばさみのベトナム、背後に「中越戦争」の影 

  ベトナムの議会で6月、日本の新幹線方式による高速鉄道計画が否決され、結論が先送りとなった。一方、中国は、自国で開発した高速鉄道をベトナムに敷設しようという動きを始めた。それは中国を中心とするユーラシア大陸全体への経済および政治的な影響力を強めようという戦略の一環だ。その構想は、中央アジアを通じてヨーロッパにまで達するルートにおよび、東南アジアへはベトナムを通してシンガポールまで達する。 
 しかし、中国とベトナムとの間には1970年代に始まった国境紛争「中越戦争」という歴史が横たわり、議会が新幹線計画を否決したとはいえ、中国式高速鉄道の採用には躊躇がある。「亜洲週刊」記事の後半では、香港で出版された『十年中越戦争』の著者、倪創輝氏へのインタビューを通し、小平が政権奪回のために発動した中越戦争の負の側面について語っている。(納村公子) 
 
 中国とベトナムはどちらも共産党政権の国であり、陸続きの隣国である。2010年の今年は中越国交樹立60周年であり、60年来初めての「中越友好年」でもある。31年前の2月に始まった中越戦争から10年、対立が続き、中国は100万近い軍と民兵をこの戦争につぎ込んだ。これは中越関係の上で血を伴う重い歴史である。現在、中国とベトナム双方とも深い部分におよぶこの戦争を振り返ろうとはしないが、その影はいまも存在している。 
 
 「活力ある民主革新大会であり、多くの重要な議題を終えた」と称される、ベトナムの第12会国会第7回会議で、閉幕の前日、6月19日に代表者〔国会議員〕は、政府が提示した「ハノイ―ホーチミン高速鉄道プロジェクト」を、計画を見直し、価格を下げることを条件に否決した。 
 
 ベトナム世論は「人民が国家の将来に影響する政策に対して意思を表明した」ものだとしている。ベトナムでは国家的なプロジェクトが国会で否決されることは非常にまれだ。国際世論はベトナムが民主的政治への進歩だと評価したが、高速鉄道プロジェクトの背後にある外交交渉と冷戦思考は、関心を集めている。 
 
 ベトナム高速鉄道は、2035年の全線開通を目指す全長1570キロ、総工費560ドルの計画で、首都ハノイと、商業の中心である南部のホーチミン市とを結ぶもので、日本の新幹線技術を全面採用したものだ。資金は日本銀行による借款を用い、日本の企業によって建設された鉄道設備をベトナムが買い入れるもの。 
 
 ベトナム議会がこのプロジェクトを否決した理由は、「わが国はまだ貧しい」というものだ。2009年GDPの六割にもなる投入資金は、国家を深刻な借款の泥沼に引き込むものだ。そこまでの投資をするなら、民間の医療や電力供給に資金を向けてほしい、産業では鉄道貨物運送や港の建設を推進してほしいと。高速鉄道が目標とする消費グループは漠然としていて社会的利益も予想しがたいという理由だ。 
 
 ベトナム高速鉄道計画は、中国で現在建設中の京滬線と共通するところが多い。全長1300キロで時速350キロの設計で、総工費は2200億元(約320億ドル)と、新幹線方式の高速鉄道の半分近い。工費や工期でも中国高速鉄道のほうが勝っている。中国の高速鉄道は2000年からスタートし、当初は時速200キロだったが、現在では時速350キロを記録し、技術的にも「世界一」を数多くつくりだした。 
 
 近年、中国は高速鉄道外交を推し進め、外国との協議によって高速鉄道の国際的ネットワークを建設し、中国を中心とする17か国のアジア鉄道網を計画している。それは2025年以前に実現しようという計画で、新疆ウイグル自治区から、カザフスタン、ウズベギスタン、トルクメニスタン、イラン、トルコなどをつないで、終点をドイツにするもの。黒竜江省から西シベリア鉄道に入り、ヨーロッパにいたるもの。雲南省と東南アジア諸国とをつなぐもの。遼寧省から北朝鮮と韓国とをつなぐものである。 
 
 東南アジアおよび中央アジアの隣国に鉄道網を建設することは中国の外交の重要課題となっている。中国が高速鉄道網を建設する目的は、各国のエネルギー資源の輸入と、政治的影響力の拡大である。5月、広西チワン族自治区の南寧を起点として工事が始まり、将来はASEAN諸国とつなげる。2012年竣工の計画で総工費が100億元〔約1280億円〕、区間の時速が250キロ、完成すれば南寧からベトナム国境の憑祥までわずか1時間となる。将来は中国とASEAN諸国とをつなぐ「南寧―シンガポール経済ロード」となるだろう。 
 
 雲南省の時事評論家、荘聞氏によれば、日本にとってベトナムとの経済的つながりは、中国とのそれとくらべると大きくない。中国の高速鉄道が各地の経済を統合しビジネスチャンスが増えていけば、こうした状況がベトナムの経済発展という考え方に影響しないはずはないという。 
 
 もともと中国から鉄道技術を導入する計画は、反対派が中越戦争になれば中国軍が南北縦断高速鉄道を使って妨害してくることを憂慮していた。そこで、条件の幅を広げて日本に高速鉄道導入の商談をもちかけた。それがいま否決されたということは、ベトナムで中国の高速鉄道を求める声が起きたからだ。 
 
 ベトナム議会で日本の高速鉄道案が否決された後、北京の国家発展および改革委員会、外交省、鉄道省は「内心の喜び」を隠せず、通達した関係文書の中で「中国は傍観者であってはならない」「中国とASEANとの関係は密接になってきており、経済共同体のひな形はすでにできている。関係部門は高速鉄道プロジェクトの目的を積極的に広め、‘南下’を展開する機会を放棄してはならない」と表現している。6月29日から7月2日まで北京で行われた中国・ベトナム協力指導委員会第4回会議に、ベトナム副総理兼外相のファム・ザー・キエム氏が出席し、中国国務院委員の戴秉国氏、楊潔■[竹かんむり+がんだれ+虎]外相と会見したおり、中国側は高速鉄道の発展的状況について語った。 
 
▽歴史を振り返りたくない中越 
 
 調和と信頼が国際関係を築き協力するための前提である。だが、10年続いた中越戦争の影は簡単には消すことができない。31年前に激しく戦火を交え、いま笑顔をつくって積年の恩讐を払拭することができるだろうか。 
 
 1347キロにわたって国境を接する中国とベトナムは、1999年末に「中越陸地境界条約」を結び、両国で12の連合境界画定グループを組織し、2000近い国境の道標を建てた。2009年11月には陸地境界の調印式が北京で行われ227平方キロの係争地のうち114平方キロが中国とされ、残りがベトナム側に属することが決まった。 
 
 陸地の国境は定まったが、海の境界はいまだ係争中である。双方とも12海里を主張しているので、係争は主に経済開発区と大陸棚の境界に集中している。 
 
 2009年は中越戦争30周年だったが、双方ともこの歴史は振り返ろうとはしなかった。それは紛争が複雑で謎が多数あるからだ。 
 
 1979年2月6日、小平指導者は、アメリカ訪問の帰途で東京に立ち寄り、当時の田中角栄総理と会見した際に、こう述べている。「侵略者に懲罰を加えなければ、連鎖反応の危険性が発生する。……懲罰のためにある種の危険を冒しても行動をとらなければならないと考えている」 
 
 小平が侵略者としたのはベトナムである。北京当局によれば、1978年末、ソ連の支援でベトナムがカンボジアに侵攻し、ベトナムの華僑を追い出したことが中越国境での火種になった。この「侵略行為」について、小平は「教訓を与えなければ、ほかの方法では効果を得ることはできないだろう」と言った。外交上ではまれな強い表現に、日本の外務省は驚いた。 
 実は、ベトナムに教訓を与える準備は、小平の訪米以前から始まっていた。小平の訪米後、中越が開戦するかどうか国際メディア注目の焦点となった。メディアの質問に、小平はことばを濁すことなく「必要な軍事措置はできている」「我々はようすを見ている」「中国人はハッタリを言わない」と述べた。そして、2月17日、新華社は「ベトナム当局が中国の領土を侵した」と譴責し、「中国国防部隊は反撃する」と宣言する発表を行った。 
 
 国際問題の専門家で、外交学院副院長でもある曲星教授は、1970年代末の「ベトナムに対する自衛反撃戦」には二つの背景があるとした。一つは中越の領土の境界に関する紛争があったこと。二つには中国の外交戦略としてソ連の覇権主義に対する「一貫した戦略」があった。ベトナムは当時ソ連の世界的覇権戦略の一部とされ、防衛戦はソ連覇権主義に反対する「一貫した戦略」の反映だった。 
 
▽小平は戦争によって地位をかためた 
 
 香港の天行健出版社から先ごろ出版された『十年中越戦争』(上下巻)の著者、倪創輝氏は、当時、対ベトナム作戦にかかわった人物である。倪創輝氏によれば、中越戦争は、当時の中国国内の政治を見なければならないという。 
 
 1977年、中国共産党は第10回三中全会を開き、小平を共産党中央の副主席、国務院副総理、中央軍事委員会副主席および荘参謀長の指導に復帰させ、翌年、全国政治協商会議の主席にも選出された。文革後、小平は思想路線の修正を推進し、全国の工作の重点を経済建設に向けようとした。しかし、党の内外、民衆の考えはなお「左」に傾いていた。とくに当時の華国鋒を中心とする党中央は文革の理論と実践を堅持していた。小平はこの局面を打ち破って改革開放をしようとしたが、当時の地位ではそれができず、別の方法で極左勢力の一掃をはかる必要があった。 
 
 倪創輝氏によれば、当時はまだ毛沢東への歴史的評価を行うにも、華国鋒の「二つのすべて」〔毛沢東が下した決定と指示を守り抜くこと〕を否定するにも時期尚早だった。そこで使われたのが昔からの「政権は銃から生まれる」だった。小平は軍の長老の信任を利用して軍から突破口を開こうとした。「侵略者に打撃を与える」戦争を発動し、国内の政治闘争から目をそらさせ、国民に民族的一体感をつくり、戦後に軍隊の人事の入れ替えを行った。結果的に、小平は権力と軍事の両方をその手につかんだ。 
 
 倪創輝氏はこう述べている。この戦争で領土は奪回できず、レ・ズアン〔ベトナム共産党党首〕の統治グループを倒すこともできなかった。戦略目標の現実と結果は非常に限られたものだったという。戦争の結果、ベトナムは一部カンボジアから撤退し、ソ連の対中国戦略の包囲を打破し、中国は米ソの戦略的切り札をさぐることができ、改革開放への発展時期に入り、戦争によって軍隊は鍛えられた。 
 中央軍事委員会の予定していた目的はほぼ達成したが、国家の全体的利益から言えば、利益より弊害のほうが大きかった。アメリカをリーダーとする西側諸国はこれを口実に中国の孤立化をはかり、中国の軍がベトナムに入ったことで東南アジアに脅威を与え、第三世界と決裂して孤立し、国の信頼が失墜し、中越両国の経済に大きな損失を招いた。 
 
 戦争から31年、一つの民族として、一つの国家として、また軍隊として、その成長と成熟はこの戦争から冷静な反省を行わなければならないと倪創輝氏は言う。 
 
 戦争のプロセスについて、倪創輝氏は、戦争には必ず法的プロセスを経なければならないと述べた。これこそ当然あるべき慎重な姿勢であると。かつて中国人は法の観念が薄く、それは戦争という重大な事件においても現れているとした。朝鮮戦争は主として毛沢東一人の決定により、対ベトナムの戦争も小平一人によって決定された。一人、あるいは数人が軽々に開戦を決定すれば、どうしても個人的な主観で感情的な色あいが強くなり、歴史のうえで過ちを犯す可能性がある。その結果は恐ろしい。 
 
 倪創輝氏はこう述べた。 
「10年の中越戦争は、数多くの命と引き替えに、われわれと若い世代に経験と教訓を残してくれた。私のこの本は読者にこの戦争を知ってもらい、別の角度から警鐘を鳴らし、啓発とするためのものだ」 
 
原文=「亜洲週刊」2010/7/18 江迅記者 
翻訳(抄訳)=納村公子 
〔〕は訳注 


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