2011年03月01日15時06分掲載  無料記事
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中東

カダフィVSイスラエル  どこまでやるのか欧米によるアラブ資産凍結  文:平田伊都子 写真:川名生十 

  「狙われるぞ!」と予測していたら、やっぱり、欧米はEUや国連を通じてカダフィたちの資産凍結をしてきた。 カダフィに反旗を翻したリビアの前駐米大使アリ.アウジャリは、「英国にある3兆3870億円のカダフィ資産や彼の子供たちの資産を早急に凍結せよ」と、欧米を焚きつけた。 既にフランスとドイツは、スイスに働きかけてカダフィ一党の資産を凍結している。 チュニジアのベンアリやエジプトのムバラクの資産には、本人たちが失脚してから手をつけたのに、カダフィの場合は曲がりなりにも在職中だ。 長期独裁者の資産を狙う國際金融シンジケートのやり方は、ますますえげつなくなってきている。 
 
  残る金持ちアラブのカタール首長、クウェート首長、アラブ首長国連邦首長、オマーン国王、サウジアラビア国王の方々、、ご用心ご用心。 
  「我々(ユダヤの民)は、古いアラブの友と袂を別ち、新たな友と握手する」と、ユダヤのイスラエル首相ネタニアフは2月23日にイスラエル国会クネセトでうそぶいている。 
  アラブの友人を変える度に国際金融を牛耳るユダヤ資産は、ますます肥っていくようだ。 
 
◆カダフィVSイスラエル 
 
  「パレスチナ人もエジプト革命に学んでデモをやれ!」と、カダフィが檄をとばしたのは2011年2月11日、エジプト革命が成功した日だった。 この時、カダフィ.リビアの運命が決まった。  ユダヤ人国家イスラエルがこの発言を見逃すわけがない。 まもなくリビア第二の都市ベンガジに火が点けられ、2月17日にはベンガジが反カダフィ勢力の手に落ちた。 ベンガジはカダフィが41年前に倒したイドリス王の拠点だった。 ベンガジには今もイドリス王朝残党が残っていると言われ、カダフィ一族が独占する石油の利権を奪還したい族長たちが、しぶとく機会を窺っていた。 
  「自由をよこせ!」「カダフィ退陣!」と、チュニジアやエジプトのデモを真似たスローガンを叫ぶ若者達の手には、イドリス王朝の旗が握られていた。 
 
  「<イスラエルのいない中東を!>とカダフィは叫んだが、ここで私は<カダフィのいないリビアを!!>とお返しをする」と、2月22日にイスラエル大統領ペレスは、スペインの首都マドリッドにあるユダヤ人協会で、カダフィに最後通牒をつきつけた。 
  カダフィがどんなに憎まれ口をきいてもイスラエルの扇動工作には叶わない。 「國際世論はパレスチナとイスラエル紛争が中東紛争の根源だと言うが、アラブ諸国は勝手に内紛をしてくれている。 この騒乱は数年続く。 望みはアラブとイランの民主化だ」と、ネタニアフ.イスラエル首相は自身満々でクネセトの演説をしめた。 
 
◆カダフィ.インタヴュー 
 
  筆者は、1988年に初めてカダフィ大佐をインタヴューした。 場所はリビアの首都トリポリのアジジア兵舎内にある常設テントだった。 <1969年に革命を起こした素敵な青年将校さん>というカダフィ像に魅せられていた筆者は、着物の襟をただして待っていた。 
  緊張感が張り詰めたテントに、世界のスーパースターはイタリアの木製サンダルをカラコロいわせながら「ヨッ!」てな感じで入ってきたのである。 そして一時間程、土産の扇子をバタバタあおぎながら、カダフィは筆者のへたなアラビア語をからかい、爆笑のうちに初対面は終わった。 
   狂犬とか暴君などといった面影はまったくなく、無邪気に笑う革命家に惹かれた筆者は、彼の伝記を書こうと決心する。 ただ短気そうだし、嘘やでっち上げを書くとひどく怒りそうなので、カダフィ本人の情報を元に周辺取材をしようと、リビアに足しげく通った。 
  <カダフィ正伝>出版後も、度々カダフィに会い、その時節の彼の世界感や考えを学ばせてもらった。 少なくとも1990年代のカダフィは、超大国アメリカの横暴を怒り、パレスチナ人民を支持し、貧しい第三世界の支援者的立場をとっていた。 
 
◆カダフィ絶頂 
 
  1999年9月9日、生まれ故郷シルトでのカダフィは、得意の絶頂にあった。 約50人のアフリカ首脳陣を前に、「ワーヒダ.アフリキーヤ!(アフリカは一つ)」と拳を振り上げ連呼した。   首都トリポリでの軍事行進では、「リビア軍はアフリカ人民のためにある!」と、檄を飛ばした。 行進にはリビア兵に混じってアフリカ傭兵の姿もあった。 
  カダフィはアラブの盟主になろうとしてアラブ連盟からそっぽを向かれ、北アフリカ.マグレブの盟主になろうとして北アフリカ諸国から馬鹿にされ、やっと、資金援助の代償でブラック.アフリカ諸国の喝采にありつけたのだった。 
  その頃、「フセインは愚かだ。豊かなイラクを潰し、イラク人民の命を犠牲にすることになる」と、カダフィは筆者に語ったことがある。 その後、アメリカによるフセイン包囲網は刻々と狭められ、世界のメディアはフセイン一色になっていく。 カダフィが記者会見をやっても集まりが悪い。 脚光を浴びていたいカダフィは面白くなかったようだ。 
  しかし、欧米はそんなカダフィをさし置いて、当時イギリスにいたカダフィの次男セイフに接触し、リビア制裁解除と石油を巡る裏取引をしていた。 
 
◆カダフィ黙す 
 
  2003年4月、フセイン政権がアメリカの圧倒的大量破壊兵器であっけなく倒されると、カダフィの大口は固く閉じてしまう。  次男セイフの暗躍で、2003年9月にリビアは国連経済制裁を解除してもらう。 その代償としてアメリカとイギリスは、1988年のパンナム機爆破事件に対する高額な賠償金をリビア政府から巻き上げ、リビア石油の利権を獲得した。 「リビアの石油をアメリカやイギリスなどの外国人から取り戻す」というカダフィ革命の目標は元の木阿弥に帰してしまった。 カダフィは革命の理想と現実世界のギャップに呆然とし、リビア人民はそんなカダフィにうんざりし始めた。 
  2006年12月、カダフィのライバル.フセインは米軍製絞首台で縛り首にされ、アラブの英雄になった。 最後まで自説を曲げず、超大国アメリカに逆らい続けたからだ。 
  2009年9月1日の革命40周年祭に、カダフィは大金をかけて大花火を打上げた。 ブラック.アフリカの族長を集めて<アフリカ諸王の中の王>と自称し、カメラに収まった。 が、世界はアメリカに出現した黒人大統領オバマに夢中で、カダフィのパフォーマンスには目もくれなかった。 
 
◆カダフィVSカダフィ革命 
 
  北アフリカに<チェンジ>の狼煙が上がった。 チュニジア、エジプトと革命の火が燃え、リビアにも火の粉が飛んできた。 
  やっと念願のスポットライトを浴びれるようになったカダフィは、2011年2月22日、世界中のメディアに登場した。 「リビア人民よ、お前たちは仲間を殺した敵アメリカ側にいるんだぞ!1986年にベンガジとトリポリを空爆されたのを忘れたのか!!」と、カダフィは怒った。 
  翌2月23日の電話インタヴューでは、「俺は、大統領でも首相でもない。俺は革命の指導者だ。言ってみれば、英国女王の様な象徴的存在だ」と、のたもうた。 
  「かってイドリス王を倒した革命家が王様とは、何いってんだ?」と、リビアの若者たちはカダフィにうんざりしている。 反カダフィ.デモに参加した若者たちはイドリス国王旗を振りながら「カダフィはウザッタイ!」と叫んでいた。 2月24日、そんな若者の声を満載した<2月17日革命>という名の新聞がベンガジで新発売された。 
 
◆カダフィ大佐殿、今からでも遅くない。 
 
  「俺はお前たちの蜂起を待っていた」とカダフィは、立ち上がった人民を誉めるべきだ。 
  自己主張をするリビア人民はカダフィの成果で、誇りであるはずだ。 そして、デモに対する弾圧を謝り、殺した人民やその家族に賠償をする。 さらに石油のあがりや自分たちの貯えを、世界金融シンジケートではなくリビア人民に手渡して欲しい。 
 
  「黒人が世界を率いる」と、カダフィは30年以上前の1979年に、オバマ黒人米大統領の出現を予測した。 そのオバマ黒人米大統領は「自分の権力を維持するために人民に暴力を振るう指導者は即刻、退陣すべきだ」と2月26日、メルケル.ドイツ首相に語った。 
  オバマ黒人米大統領を作り上げたのはユダヤ資本とユダヤ人協会であることを、カダフィが知らないわけはない。 
 
文:平田伊都子 ジャーナリスト  写真:川名生十 カメラマン 


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