2011年04月20日23時59分掲載  無料記事
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アフリカ

地球の裏側から   西サハラ難民亡命政府全権大使来日  文:平田伊都子 写真:川名生十

  「福島原発事故の作業員に東電側は、時給20万円も出すそうだ。が、いくら積まれてもあんな危険な所に社員を派遣できない」 と、原発施設などの点検をするA社のK部長は語った。 K部長が指揮する点検作業チーム10名は、福島第一原子力発電所第4号機の定期点検を、3月11日から始めようとしていた。 その日の午後2時46分、狂ったように警報機が鳴り建屋が大波のように揺れた。 10名は外に飛び出し、他の作業チームと共に近くにあった車に分乗し飯舘村に向かった。 そして身一つで車とJRを乗り継ぎ、横浜の本社に戻ってきた。 定期点検作業員と関係者の約1500人は無事に脱出できたそうだ。 
 
  2011年3月末、約400人の事故処理作業員が福島原発事故現場にいたという。 朝は30枚程度のビスケットと野菜ジュースの小箱一個、夜はレトルトご飯と缶詰一個、一日2食で毛布に包まっての雑魚寝生活。 線量計を持たされていない作業員がどれくらいの放射線を浴びていたのか、発表されていない。 タコ部屋や蟹工船同様の虫けら扱いのうえに、癌死という悲惨な運命が作業員を待っているのだ。 その一方で原子力安全委員会の6人は、一ヶ月以上も経った4月21日にやっと原発事故現場を見学した。 彼らは週一回の会議(10分〜90分)をやるだけで、1650万円の年収がある。 
 
◆海外からの見舞い 
 
  「できるだけ早く日本を脱出しろ!福島原発事故のきのこ雲が、東京にも来るぞ!!日本の原発関係者は何も知らないし、何も出来ない。外国人の殆んどは帰国するか、他の国に逃げた。覚悟を決めろ。幸運を祈る」と、パリのアレックスとイザベルが緊急メールをよこした。 フランス本国は早々と在日フランス人に退避命令を出していた。 
  「日本にある原発の大部分は30年も40年も経っていて古い。廃炉にすべきだ。が、問題は放射性廃棄物の後始末だ。これまで、その殆どをフランスに運び再処理をしてプルトニウムに再生してもらっていた。2007年3月にフランスが放射性廃棄物を日本に返還し、この悪魔の廃棄物は青森県六ヶ所村に集められている。土に埋めようが海に捨てようが放射能汚染は避けられない」と、前出のK部長は放射能の恐ろしさ強調する。 
  2011年3月31日、フランスからサルコジ大統領が放射能汚染処理技術を売り込みに訪日した。 イタリアのベルルスコーニ首相を尊敬し、ブッシュ前大統領が大好きで、たこ焼きと相撲が大嫌いなユダヤ系ハンガリー移民二世仏大統領は、抜け目のない商売人だ。 
  3月11日、大震災直後に西サハラ難民キャンプの友人たちからお見舞いのメールがきた。 
  3月12日、西サハラ難民亡命政府国連代表のブハリから安否を気遣う便りが届いた。 
  4月11日にきた西サハラ難民キャンプのジャーナリスト.モハンマドのメールを紹介する。 
「震災で、あの美しい日本が傷ついているのかと思うと胸が痛む。しかし、意志の強い日本の人々は必ずこの危機を乗り越えていくと信じている。第二次大戦の敗戦を克服した歴史が日本人の力を証明している。確かに西サハラは日本から遠い、、しかし、私たち全ての西サハラ人は、日本の人々と共に苦しみ、共に大災害の終息を願っている」 
 
◆海外からの援助 
 
  東日本の大天災と大人災に対して、日本のみならず世界中から義捐金と援助の手が差しのべられた。 不思議なことに、欧米先進諸国は援助の見返りをあからさまに要求しているのに反し、発展途上国の援助は素直な善意に満ちている。 
*確かにアメリカは160億円以上の義捐金と、原子力空母ロナルド.レーガンやジョージ.ワシントンを導引し2万人の米兵を展開して、派手な「トモダチ作戦」を見せつけた。 しかし、4月17日、日本に短時間のトランジット訪問をしたクリントン米国務長官は、援助の代償として沖縄基地問題の早期決着を急かせたのだ。 
* アメリカの「トモダチ」イスラエルは3月27日から4月12日まで53名の医療チームを送りこみ、医療器材の一部5000万円分を寄贈した。 
* 2002年、国連住民投票で独立した東チモールは、3月25日に50万$を寄付した。 
* 戦火のアフガニスタンは3月29日に100万$を寄付した。 
* イランは3月13日に、原発事故に対応できるチームの派遣を提案し、缶詰5万個を贈り、イラン料理の炊き出しをした。 
* ポーランドは消防士派遣を申し出た。 
* パレスチナのハマスは3月13日に、哀悼の意を表明し、負傷者の回復を神に祈った。 
* バチカンの法王べネディクト16世は3月13日に、犠牲者とその遺族のために祈った。 
* チベットでは寺院や尼寺で、般若心経を10万回読経する法会を一日かけて行った。 
* 在日アフリカ外交団は恒例のアフリカデーを中止し、その準備金120万円を寄付した。 
 
◆アルジェリアの援助 
 
  2011年4月1日、シド.アリ.ケトランジ駐日アルジェリア大使が10,000,000$の義捐金を渡した。 他のアラブ諸国に比べ高額なので、筆者はアルジェリアに駐在する友人の商社マン.吉田正彦さんにアルジェリアの思惑や現地の反応を聞いてみた。 その答えは、「アルジェリアも地震国で、2003年のブーメルデス地震の際、日本が援助したことが背景にあると思う。あまり政治的な背景はなく、単に困っている人に対して協力したいというアルジェリア人一般の考えがベースにあるのでは、、当方も数えきれない友人からお見舞いの電話やメールを受け取り、アルジェリア事務所のスタッフからは個人的に義捐金を貰い、当方から日赤に振込んだ。基本的には<アルジェリア人はいい奴>ということだと思う。 
  アルジェリア現地では、皆、自分のことのように東日本大震災を心配している。アルジェリア政府義捐金のことは、メディアでもあまり取り上げられていない」 
  吉田さんと働くジャミーラさんとマハディさん、ご協力ありがとう!! 
 
  本当に「アルジェリア人はいい奴」だ。 その義侠心は、1975年に西サハラ難民を受け入れ、今日まで面倒を見てきたことにも現れている。 西サハラ難民キャンプはアルジェリア最西端にあるチンドゥ―フ軍事基地の外れにある。 35年前、約5万人の西サハラ難民を迎えたブーテフリカ外務大臣(当時)は現在アルジェリア大統領として、西サハラ難民が目指す「国連西サハラ住民投票」実現のため、惜しみない支援を続けている。 
  西サハラ難民は現在約20万人に膨れ上がっている。 国連難民高等弁務官や世界食糧計画や國際NGOの支援食料を頼りに、西サハラ難民は細々と命を繋いできたが、たびたび食料危機に襲われてきた。 そんな時、アルジェリアがいつも緊急援助をしてくれるのだ。 
 
◆国連西サハラ住民投票 
 
  西サハラ難民亡命政府ポリサリオ戦線は1975年から難民キャンプを拠点にして、祖国西サハラの解放と独立を目指し占領軍と戦ってきた。 現在、西サハラの大部分をモロッコが占領し植民支配をしている。 国連は紛争解決のため「西サハラ住民が直接投票して、西サハラ独立かモロッコ帰属か、どちらかを選ぶ」という和平提案をした。 国連のこの提案を呑んで、西サハラ.ポリサリオ戦線とモロッコの両当事者は1991年4月に停戦した。 
  16年間の砂漠戦争に両当事者とも疲れていたが、とりわけモロッコは大義なき戦闘に疲労困憊していた。 
   1992年の住民投票に向け、1991年9月に国連はMINURSO(国連西サハラ住民投票監視団)を立ち上げる。 そして投票人となる西サハラ住民を、国連は1975年のスペインによる住民調査に基づいて設定した。 しかしモロッコ先王ハッサン鏡い蓮△海療衂軸霆爐任蓮礇皀蹈奪概属>を勝ち取れないと判断した。 そこで南モロッコ人の投票権を請求し、その一方で西サハラ.モロッコ占領地にモロッコ人入植者とモロッコ兵を、続続と送り込んだ。 国連はモロッコの主張も考慮して、1999年に投票人名簿を仕上げた。 しかし、モロッコはこの投票人名簿でも勝てないとし、「国連投票など古臭い」と国連和平仲介を切り捨てた。 そして、「西サハラはモロッコの地方州」という論を展開し始める。 
  モロッコが西サハラに固執するのは経済的理由からで、天然資源に乏しいモロッコは外貨獲得をモロッコ植民地.西サハラのリン鉱石と魚に頼っているのだ。 さらに1990年 
後半に石油とウランの埋蔵が確認されると、モロッコはますます西サハラ植民地を手放すわけにいかなくなった。 
 
  かくして国連安保理は4月15日から西サハラ問題を取り上げ、4月30日に西サハラ安保理決議を採択するという年中行事をやることになる。 「アラブ世界に政情不安が続く中で、<忘れられた>西サハラ紛争の決着が急がれる」と、国連事務総長は4月15日に2010年度の国連による西サハラ紛争解決努力を総括する報告書を国連安保理に提出した。 
  2011年4月30日に出される<西サハラ紛争決議案>に進展はみられるのだろうか? 
 
◆地球の裏側からくる西サハラ難民大使 
 
  <アフリカ最期の植民地解放>とか<国連西サハラ住民投票の実現>とか<民族自決権を西サハラ人に>とか、、もっともらしい言葉を並べたてても、日本の庶民は振り向かない。 
<未開発鉱物資源の宝庫><クロマグロがうようよの処女海>などと売り込んでも、日本の裏側にある西サハラは遠すぎる。しかも、日本には西サハラ人が一人もいないのだ。 
  ここは是非とも西サハラ人を日本に招待して、西サハラの事を自ら語ってもらうしかないと、SJJA(サハラ.ジャパン.ジャーナリスト.アソシエーション)とアルジェリア大使は考えた。 かくして、ベイサット西サハラ難民亡命政府全権大使を日本に招待することになった。 
 
―ベイサット西サハラ難民亡命政府全権大使の紹介− 
1968年、西サハラのラユーンに生まれる。 
1975年、難民となりアルジェリアに逃げる。以後、西サハラ難民キャンプで生活。 
1985年、ポリサリオ戦線に参加。学生運動の指導者、大統領補佐官、青年同盟指導者、アルジェリア大使、アフリカ連合大使を歴任。 
現在、大統領特別顧問兼ヨーロッパ連合代表。4人の子供や夫人と難民キャンプに在住。 
−ベイサット西サハラ難民亡命政府全権大使の訪日予定表− 
4/11 15:00 外国人特派員クラブ.記者会見。19:30 朝日ニュースター出演。 
4/12 外務省訪問、民主党西サハラ問題を考える議員連盟訪問。國際平和研究所で講演。 
4/13 みんなの党、共産党、自民党などを訪問。 
4/14 14:00 京都大学講演。 
4/15 仙台の被災地お見舞い。 
4/16 アフリカ諸国の大使を表敬。18:00 東洋英和大学院ミニ.セミナー 
 
−ベイサット西サハラ難民亡命政府全権大使からのメッセージ− 
「大惨事下にある日本を今、訪問するのは適切でないような気がしました。が、こんな危機的状況だからこそ痛みを分かち合えると思い、日本の人々にお会いしたいと思いました。 
辛く哀しい時を乗り切ろうとしている日本の人々に心から敬意を表します」−ベイサット 
 
文:平田伊都子 ジャーナリスト 
写真:川名生十 カメラマン 


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