2011年06月17日00時37分掲載  無料記事
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検証・メディア

6・11メディア報道について  デモを見ないで警察をみるマスメディア体質  小倉利丸

【福島原発情報共同デスク】6.11全世界100万人行動について、マスメディアは極力デモの参加人数を控えめに報道することに腐心したようだ。たとえば、東京のデモは、大きな会場だけでも三ヶ所あり、主催者発表を合計すれば優に1万人を越える規模になる。更に、国立や小平など、多摩地区でも独自のデモが行われている。この日のデモについては、脱原発100万人アクションのウエッブがあり、各地で多くのデモが実施されたことをメディアも把握していたはずだが、主催者にたいする丁寧な取材もなく、警察発表の数字を鵜呑みにする報道が少なくとも首都圏のデモ報道では際立った。 
 
  また、福島でも11日には「6・11 from 福島、お母さんたちの『私たちの主張』」、「6・11脱原発100万人アクション*福島」「6.11原発いらね!郡山パレード」「A-day『愛と祈りのなたね粘土団子』原発被災地プロジェクト」「東京に福島の声を届けよう、バスツアー」などのイベントがあったが、これらの報道がそもそも地元のメディアには見当たらない。福島現地のほうが、脱原発、反原発の報道管制が厳しいことを伺わせる。大変深刻な問題だ。 
 
  数字をめぐるメディア報道でもっとも大きな問題のひとつは、警察発表の数字を警察発表とすら明記しない報道が増えているという点だ。たとえばNHKは、芝公園のデモのみの数字を2400人と報じているが、警察発表とは明記していない。共同通信は、芝公園を主催者発表6000人と報じていることから2400人は警察発表かNHKの独自数字ということになる。NHKへの私の問い合わせにNHKは独自の数字ではないと回答しており、警察発表だと明記しなかった理由については「わからない」という返答である。(問い合わせ窓口担当者) 
 
  デモは人数だけが問題なのではないのだが、路上に出て意思表示することの意味のひとつに、「数」の意義は確実にある。100人なのか1000人なのか、1万人なのかの違いは大きい。警察発表と主催者発表の差があまりにも大きすぎること、大半のマスメディアが主催者主催者と警察の発表を併記すらしておらず、警察発表を優先させてるること、あるいは、メディアによっては数字すら報じていない。マスメディアのこうした報道の体質は目に余るものがあるのだが、逆に、こうした過小評価や無視を続ければ続けるほど、マスメディア離れが起きざるを得ないのではないか。 
 
  デモという「文化」は、たぶん40歳代以下のジャーナリストにとっては、自分の経験としても実感のない行為なのではないか。政治の問題を、マスメディアは永田町や国会の政治家たちの権力闘争か政府、自治体のトップや関係者の行動として理解し、政治の根底には有権者や住民の行動と意思があるのだ、という根本的な視点がほとんど欠落している。だから、政治や社会の取材は、政府や警察への取材や報道発表で事足りるという発想に縛られているし、そうしたメディアの体質を政府や警察はメディアへの便宜供与(市民には公表せず、メディアだけに情報を提供することだが)を通じて長年の癒着ができてしまった。 
 
  デモをするという、極めてアナログな路上の行進は、投票行動のように民主主義の政治行動として直接その結果が政治の意思決定に反映するわけでもない。マスメディアは、「だからあまり報道する価値がない」と判断しているのだろう。逆に、通行の邪魔、迷惑という警察の発想をそのまま受け入れて、むしろ「迷惑な行為」とすら密かに感じているのではないか。しかし、世界の政治はデモが起点になって動くことは決してまれではない。エジプトの政権が倒れたのもデモであり、ドイツのメルケルが原発推進を自ら覆さざるを得なかったのも25万人のデモであった。古い話になるが、台湾の民主化も韓国の軍事独裁政権打倒も、デモなしにはありえなかったし、中国の天安門、韓国の光州の悲劇が歴史となるのは、それがどうでもいい路上の意思表示以上の意味をもっていたからだし、そのことをマスメディアは否定するのだろうか? 
 
  むしろマスメディアは、なぜ日本ではデモを正当に評価するような報道をしてこなかったのか?と自問し、自らの報道の姿勢のありかたを真摯に反省すべきだろう。警察と政府・行政の記者クラブの体制だけでなく、いまや政府・自治体は公共広告の大切な「お客様」になっているのではないか。こうした状況で公正な報道をメディアに期待する方が能天気だというしかない。マスメディアは、こうした権力との癒着を放置してきたわけで、報道の自由よりも経営の存亡を優先させるような危機的な状況にあるのではないかと僕は推測している。 
 
  警察の路上規制のあり方の問題として、路上には自由がないのではないか?それは言論表現の自由を損なってはいないか?という問いは、マスメディアに期待できる問いではなく、むしろ民衆の自立的な情報発信によって担われるべき問いになっている。少数だが、良識あるジャーナリストは現場で頑張っていることをよく知っているので、メディアが変われるのかどうか、そのことも原発報道では問われているのだと、とりあえずは言っておきたいが。 
 
6月11日の状況については、さまざまなサイトで徐々に報告が出てくると思う。 
 
福島原発情報共同デスク 
http://2011shinsai.info/ 


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