2011年10月14日20時29分掲載  無料記事
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アジア

戦場カメラマン・石垣巳佐夫氏 〜内戦下のアンコール・ワットを撮る 1980年 〜 村上良太

  1980年4月、日本電波ニュース社のカメラマン石垣巳佐夫さんにアンコール・ワットの取材許可がおりたとの知らせが届いた。番組は日本テレビ「木曜スペシャル」だ。ポル・ポト政権崩壊後、世界で最初にアンコール・ワットを探査する企画である。当時、政府軍とポル・ポト派の戦闘は続いていたが、ベトナム政府が許可を出したのだ。石垣さんを中心にさっそく取材班が編成された。ディレクター野田耕造、プロデューサー寺元啓二、日本テレビ側は石川一彦である。石川氏とはベトナム戦争終結以前の1973年末から74年正月にかけてラオスを訪ね、米軍の爆撃下で洞窟生活を送っていた人々のその後を探るドキュメンタリー番組を作っていた。 
 
  「アンコール・ワットを日本の取材班が撮影することは、ベトナム政府やカンボジア政府にとっても治安が回復しつつあることを世界にアピールするチャンスだったでしょう。」 
 
  石垣さんにとってアンコール・ワットは大きな憧れだった。1860年にアンコール・ワットを訪ねたフランス人アンリ・ムオの旅行記は石垣さんの愛読書だった。密林の中にそびえ立つ巨大な石造遺跡。謎が多く、神秘で壮麗な東洋のピラミッドである。 
 
  石垣さんは以前アンコール・ワットを見る絶好のチャンスを逃していた。ハノイ支局に派遣された1969年8月のことだ。プノンペンでビエンチャン(ラオス)経由ハノイ行きの国連機を待つ間にアンコール・ワットへ行こう、と思い立ったのだった。しかし、直前に国連機に乗り込む事になり、機会を逃してしまう。 
 
■アンコールワットの謎 
 
  「アンコールの遺跡〜カンボジアの文化と芸術」(霞ヶ関出版)によれば、アンコールの遺跡とはカンボジア王国の首都アンコール周辺に9世紀から13世紀にかけて建造された多数の神殿、僧院、王宮などである。細かく見れば全部で100以上の遺跡がある。最も有名なのがアンコール・ワットだ。12世紀前半にヴィシュヌ神を信仰するヒンドゥ教徒の王スールヤヴァルマン2世(在位1113-1150頃)が死後の幸福を願って建造した寺院である。外郭は南北1300m、東西1500mの広さだ。回廊は南北に180m、東西に200mあり、中心の尖塔は65mにもなる。回廊の壁面にはヒンドゥ教の神々の伝説やスールヤヴァルマン2世の功績をたたえる絵巻物などがびっしり彫り込まれている。この巨大石造建築の石をどこから切り出し、いかに緻密に組み上げたのか、未だ謎は多い。 
 
  一方、アンコール・ワットの1kmほど北にアンコール・トムがある。こちらは仏教を信奉した王ジャヤヴァルマン7世が建造した。アンコール・ワットより敷地面積は広く、1辺3キロ、高さ8メートルの城壁で囲まれ、四面像が多数刻まれたバイヨン寺院や王宮、象のテラスなど様々な建造物がある。回廊には東隣国チャンパと戦った絵巻物などが密に掘り込まれている。ジャヤヴァルマン7世(在位1181-1218頃)はチャンパ軍に占領されていた祖国を奪回し、カンボジア(クメール)王国の最盛期を築いた。王国では毎度王位継承を巡り激しい権力闘争がおき、その都度新たな建造物を作っていた。しかし、後に興隆したタイ族のアユタヤ朝に敗れ、1431年には首都を南に移した。15世紀以後は近隣の国々の宗主権を認めるはめになった。 
 
  なぜカンボジア王国が衰退したかは今も論争の的だ。首都が移転した後、長い間アンコールの遺跡群は熱帯雨林の中に埋もれてしまっていた。 
 
  19世紀、フランス人が密林の中に遺跡を再発見し、その華麗さに息をのむ。壮大な石造建築。エロチックな舞姫や鰐等の動物。蛇や鳥の化身など壁面彫刻は彼らの想像力を刺激した。インド起源のヒンドゥ教神話がカンボジアの土着宗教と合体して生んだ神話世界だ。 
 
  1931年のパリ植民地博では遺跡のミニチュアが建設されたほどの人気を博した。アンドレ・マルローは小説「王道」(1930)に、遺跡の1つバンテアイ・スレイ寺院で自ら起こした盗掘事件(1923年)を書いている。壁面の女神像を削り取って持ち帰ろうとしたところを捕まったのだ。そうした盗掘や自然による倒壊から守るため、フランス人研究者を中心にアンコール遺跡保存委員会が組織され、調査研究と保存活動が進められる。 
 
■案内役に石澤良昭教授 
 
  しかし、1970年のロン・ノルのクーデターから10年におよぶ戦乱と虐殺の時代が続き、遺跡がどうなっているか不明だった。遺跡保存委員会の存続すらわからなかった。そこが番組の肝でもある。石垣さんは言う。 
 
  「とにかくまず行ってみよう。結果がどうであれ、番組を1本作ると決めていました。東洋の神秘、大文明ですよ。」 
 
  取材の案内役に遺跡に詳しい人物が必要だ。何人かリストアップした中、石垣さんが目をつけたのは鹿児島大学の教授をしていた石澤良昭氏(当時、43才)だ。その頃、ベトナム軍とヘン・サムリン軍はポル・ポト派をプノンペンから駆逐したものの、未だ残党と戦闘を続けていた。どんな状況になるかわからない。若くてガッツのある人が必要だった。4月、石垣さんはさっそくプロデューサーの寺元氏と多摩ニュータウンに石澤夫婦を訪ねた。奥さん手製のカレーライスをご馳走になる。「本当に行けるんですか!?」石澤教授はすぐに反応した。取材が実現すれば石澤氏にとって、8年ぶりのアンコール・ワットとなる。内戦とポル・ポト時代の混乱で、現地調査は中断を余儀なくされていた。学者にとって苦しい期間だったろう。石澤教授の部屋にはアンコール・ワットの模型とおびただしい文献資料が積まれていた。 
 
  石澤教授は上智大学でフランス文学を学んだ。在学中ベトナムでフランス語の集中講義を行う機会があり、そのとき隣国カンボジアのアンコール・ワットにも足をのばした。思わず感動でひざまずいてしまったという。この体験が石澤さんの道を変えた。卒業と同時にアンコール保存事務所に入り、カンボジア人に混じって現地作業に携わりながら、フランス人のフィリップ・グロリエ教授から学んだ。 
 
  カンボジア人の仲間のその後の消息は不明だった。知識人を皆殺しにした時代である。石澤教授は思った。「日本政府が承認していないヘン・サムリン政権のカンボジアに入れば国立大学の教授として責任を取らなくてはならないだろう・・・。」それでも覚悟を決めた。 
 
  ディレクターの野田氏は当時を振り返る。「取材まで俺は随分待たされたんだ。その間、座学をして完璧な撮影シナリオを書き上げたよ。」野田氏は4月に取材班に入ったが、石澤教授の体が空く夏休みまで待たなくてはならなかった。資料を読み漁ったが、肝心のアンコール・ワットの現状については情報がない。あとは現地でぶっつけ本番でやるしかなかった。 
 
■ついに見た!アンコール遺跡群 
 
  8月、カンボジア入りした。サイゴンからマイクロバスで1号幹線道路を一路西に向う。プノンペンに入ると、そこから6本の幹線道路が放射状に延びている。まだ戦闘の続いているトンレサップ湖北側の6号道路を避け、湖南の5号道路を西に進む。石澤教授は次第に感情が高まってきているようだ。夕方、アンコール・ワットの南、5キロほどの距離にあるホテルに到着した。 
 
  「窓からアンコール・ワットの尖塔が見えました。ついに来たと思いました。」 
 
  ホテルは当時廃業していたが、取材班のため政府が特別に使用させてくれた。1階に部屋を取ってもらったが、2階は幽霊が出る、という虐殺の場だった。 
 
  その夜、石澤教授を一人のカンボジア人が突然訪ねてきた。ピット・ケオ氏、遺跡保存委員会のメンバーで石澤教授のかつての仲間だ。取材班に石澤氏の名前があることに気付いたのだろう。ケオ氏は農民になりすましてポル・ポト時代を生きのびた。同期の学友25人のうち、生還できたのはわずか3人だった。酒を飲み交わす施設もなく、二人は廊下で話し込んでいた。 
 
  翌朝、アンコール・ワットに向う。マイクロバスの車窓から近づいてくる寺院を手持ち撮影した。「一発勝負でしたが、感動しました。」さらに参道でも手持ちカメラで長回しを続けた。 
 
■ビデオに初挑戦 
 
  今回の撮影は石垣さんにとって新たな挑戦だった。フィルム撮影から初めてビデオカメラ撮影に切り替えたからだ。会社にとっては多額の投資となった。「まだフィルムでいいじゃないか」という声を振り切って編集機材一式とUマチックのビデオカメラ2台を買い揃えた。きっかけとなったのは日本テレビ・石川プロデューサーの一言だった。 
 
「日本電波ニュース社はビデオできるの?」 
 
  テレビ局はフィルムからビデオに移行しつつあった。しかし日本電波ニュース社はまだビデオ化していなかった。さらにこれまではフィルム撮影した映像を放送各局に配信するビジネスモデルだったが将来を考えれば撮影だけでなく、編集を含めたポストプロダクションまで行う必要があると石垣さんは思っていた。アンコール・ワットの取材を機に番組制作に乗り出そうとしたのだ。そのためには編集機など機材を一新しなくてはならなかった。だが、フィルム撮影と違い、ビデオ撮影では色の調整を現場、現場に応じてこなさなくてはならない。ビデオカメラは買ったばかりで、すべてが慣れない作業となる。しかし、これまで100フィート=3分弱しか連続撮影できなかった制約が取れ、20分連続で撮影できるようになったのは大きい。 
 
  「毎晩、その日、撮影した映像をホテルでチェックしました。ある晩見ると肝心の女神像の映像が青くなっていました。しかも、まだ危険地域にあった遺跡で、再度の撮影ができなかったのです。忘れられない失敗です。」 
 
  さらに、ビデオカメラでは同時録音できるのだが、それとは別にナグラという重い録音機材を持って行った。「フィルムのカメラマンはとにかくフィルムを切り詰めて要所要所しか回さないため、現場の音をカメラとは別にひろって置かないといけないと常に考えるのです。そうした意識がまだビデオ撮影を始めても残っていたのです」 
 
■密林の樹木で倒壊する遺跡 
 
  プノムバケンの丘の上で銃を持ったベトナム軍兵士数人が守備しているのが見えた。撮影にもヘン・サムリン軍の兵士が護衛についた。遠くで交戦しているのか、あちこちでパーンパーンと銃声がこだましている。また、遺跡の中の女神の彫刻には狙い撃ちされた跡があった。しかし、もっと深刻な事態は倒壊が随所にあったことだ。熱帯植物が石の間にどんどん生い茂り、やがて石を動かし、最後は倒壊させていくのである。特に、奥地の遺跡群は深刻だった。大自然の猛威である。しかし、当時のカンボジアには資金がなかった。それどころか日々の暮らしで手一杯だったのだ。1000人いた遺跡保存委員会のメンバーは40人しか残っていなかった。 
 
  石澤教授は帰国後、遺跡保存を全世界に呼びかけ、亡き友に替わりカンボジア人後継者の育成につとめた。鹿児島大学を辞職し、上智大学に移った石澤氏は現在学長を勤めている。2001年から翌年にかけて、石澤教授の率いる調査団は274体の廃仏と千体仏石柱を発掘した。これまで伝えられていた歴史を覆す大発見だ。石澤教授にとってこの取材が転機となったと言えるだろう。 
 
■雲間から見たアンコール・ワット 
 
  8月下旬、3週間におよぶ取材の最終日、石垣さんの眼下にアンコール・ワットが見えてきた。白い雲が遺跡の上をベールのように包み、神秘的だ。バイヨン寺院では下降して四面像を撮影する。乗っているのは映画「地獄の黙示録」で登場したあの米軍のヘリだ。南ベトナムに残されたヘリを北ベトナム軍が接収し、戦後も使っていた。命綱をつけた石垣さんは機銃掃射用の窓を開けた。カメラは上から自転車のチューブで吊っている。「これで番組も完成させられる」安堵感が石垣さんに湧いた。失敗もあったが、今では懐かしい記憶だ。番組は「アンコール・ワットの謎をさぐる〜密林に眠る東洋の神秘〜」というタイトルで1980年10月23日に放送され、大きな反響を呼んだ。だが、インドシナの戦乱はまだまだ続く。 
 
■「ポルポト政権崩壊直後に見た光景」 
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■「中国軍が攻めてきた!1979年2月 〜戦場カメラマン石垣巳佐夫氏に聞く〜社会主義国同士の亀裂」 
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201110112114372 
*写真は石垣さん(日本電波ニュース社)提供 
 
村上良太 


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