2011年11月19日13時47分掲載  無料記事
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貝塚茂樹訳注 「論語」(中公文庫)

  中国の古典「論語」については日本でも多数の翻訳書や解説書が出ている。しかし、一般に「論語」を手にする機会はそれほどないと思われる。特に若い世代にとっては小難しい説教集に思えて、わざわざそれを手に取って読んでやろうという気になるのは難しいのではないだろうか。筆者もそもそも漢文に興味がなかったこともあって、「論語」は遠い書物でしかなかった。 
 
  しかし、その一方、今日でも在日コリアンの方々と話をする機会があると、「コリアンには儒教思想の影響が強い」としばしば耳にする。先輩や両親を敬うとか、長幼の序を重んずるとか夫を重んずるとかを意味するようである。儒教思想の影響はコリアンの方が日本人より強く残っているようである。では日本人は儒教思想の影響は比較的薄いのだろうか。 
 
  80年代以後、規制緩和が日本でも韓国でも、さらには中国でも盛んになり、儒教思想と対立する利益最大化をよしとするアメリカ型合理主義が東アジアを席巻していった。日本でも80年代までは日本型官僚統治や護送船団方式などが日本の成功の秘訣としてアメリカの論客からも盛んに讃えられていた。年功序列制度、終身雇用制度、家族主義的経営などもそうである。ところが、バブル崩壊後は一変して日本型のやり方がさんざん叩かれることになった。グローバルスタンダードと異なる保守的な文化としてである。こんな風にアメリカンスタンダードと儒教思想はふりこのように東アジア人を揺さぶり続けている。 
 
  しかし「儒教思想」とよく口にはしながらも、儒教とは何なのか、その根っこのところはよくわからない。根っこは古代中国の春秋時代の思想家、孔子(B.C.551年-B.C.479年)の言動や弟子たちの言動をまとめた「論語」である。一度は「論語」を読まないといけないな、と思っていた時、自分にあった本を見つけることができた。貝塚茂樹氏が翻訳と解説をしている中公文庫版の「論語」である。人によってどの「論語」訳を好むかはさまざまだろう。筆者は「論語」を3〜4冊買って持っていたが、ほとんど書棚に積まれているだけだった。今思えば自分にフィットしていなかったからだろうと思える。ところが、書店でいささか厚みのある貝塚版を手にして立ち読みを始めたところ、ぐいぐい引き込まれるのを感じた。今までにない面白さを感じたのである。一期一会と思い、すぐにレジに向かった。 
 
  岩波文庫の金谷治訳・注の「論語」も丁寧で素晴らしいのだろうが、何かものたりないものがあった。貝塚茂樹版に筆者がはまったのはそこに貝塚氏の解釈や考えが何行か必ず付されていたことにある。そこが貝塚版の味と思えた。貝塚氏は京都大学人文科学研究所の所長だった人だが、京大では仏文の桑原武夫氏も「論語」の訳をちくま文庫から出している。桑原氏はルソーの専門家だから、意外な味わいがある。ただし、桑原版は「論語」の抜粋であり、全貌を俯瞰することはできない。 
  「論語」の翻訳本では翻訳者の解釈の違いはもとより、原文、訳、注釈、さらにコラム的な文章の構成次第で無数の変化がある。貝塚版は以下のような構成である。「論語」の一部を抜粋してみた。最初は漢文を日本文に書き下した文章である。 
 
  「孔子曰く、君子に九思あり。視ることは明を思い、聴くことは聰を思い、色は温を思い、貌は恭を思い、言は忠を思い、事は敬を思い、疑わしきは問いを思い、忿りには難を思い、得るを見ては義を思う。」 
 
  次に原文を付している。 
 
  「孔子曰、君子有九思、視思明、聴思聰、色思温、貌思恭、言思忠、事思敬、疑思問、忿思難、見得思義」 
 
  その次は和訳である。 
 
 「孔先生がいわれた。 
  「君子には九通りの考え方がある。見るときははっきり見たいと考える。聞くときははっきり聞き取りたいと考える。顔つきは温和でありたいと考える。態度はうやうやしくありたいと考える。ことばは誠実でありたいと考える。仕事は慎重にやりたいと考える。疑わしいことは問いただしたいと考える。怒ったときはやっかいができないかと考える。利益を前にしては取るべき筋合いかどうかと考える。」」 
 
  最後に、貝塚氏のコメントがつけられている。 
 
  「<思>  日本の「思う」は漠然としていて、たんなる欲望も含まれる。中国古典語の「思」は、「考える」「反省する」「思索する」に限定して用いられる。ここでは生活の経験に即して考慮することで、行動の前に、行動しつつ、また行動のあとで「どうだかな」と考えてみることをさす」 
 
  同じ漢字を日中ともに使っていても、そこに意味のずれがあるという。初心者にはこのコメントが入るだけで「論語」の面白さが随分違って感じられる。そして、貝塚版も、桑原版も、加地伸行版もそれぞれ少しずつ解釈が異なっている。孔子が何を言いたかったのか、その解釈が1つではないところが面白さでもある。 
 
 またこんな話もある 
 
  「子曰わく、君子は器ならず。」 
 
  原文 
  「子曰、君子不器」 
 
  訳 
  「先生がいわれた。 
  「りっぱな人間は、決してたんなる専門家ではいけないものだ。」 
 
  解説 
  「<器ならず>  「器」はある特定の用途に応じる道具である。人間はそんな、1つのはたらきをしかしない機械であってはならない。たんなる専門家ではいけない。」 
 
  貝塚茂樹訳を読み進むうちに、今まで「漢文」とか「論語」に対して抱いていた強張った先入観が消えていくようだった。それは決して出来上がった形ではないのだ。人間のコミュニケーションをめぐる普遍的な物語である。 
 
  ところで今日、中国人にとって「論語」という書物はいかなる存在なのであろうか。 
 
■中国と儒教  (ウィキペディアより) 
 
  「20世紀、文化大革命においては毛沢東とその部下達は批林批孔運動という孔子と林彪を結びつけて批判する運動を展開。孔子は封建主義を広めた中国史の悪人とされ、林彪はその教えを現代に復古させようと言う現代の悪人であるとされた。近年、中国共産党は新儒教主義また儒教社会主義を提唱しはじめている」 
 
■貝塚茂樹(1904-1987) 
 
  東京に生まれ、4歳の時京都に移る。6歳の年、祖父より「論語」を教わった。1928年、京都帝国大学文学部史学科卒業。中国古代史を専攻。1949年、京都大学教授、のちに京都大学人文科学研究所所長となる。「貝塚茂樹著作集」(全10巻)がある。 
 
  貝塚氏は「論語」のあとがきでこう記している。 
 
  「孔子の「論語」を古代の聖人賢者である釈迦やソクラテスなどとくらべて、いちばんに感ぜられるのは、その言葉が一見非常に平凡で、ちっとも非凡なところがないことである。このすこしも非凡でなく、一見平凡きわまる孔子の言葉が、どうしてこんなに世に伝わり、不朽となったのだろうか・・・・秀才の子貢に、「君子とはどういう人のことですか」とたずねられた孔子は、「先ずその言を行う、而して後にこれに従う」と答えた。主張したいことは、まずそれを実行してから後に主張することだというのである。まず実行してから主張するのであるから、その発言はどうしても慎重にならざるをえないであろう。 
  「論語」のなかにあらわれる孔子のこの控えめな言動、それは一見平凡きわまりないように見えるが、こういうことを考え合わせると、この平凡きわまることこそ、じつは非凡、最高の非凡さなのである。」 
 
  貝塚氏は自分の訳に於いては孔子のこのような平凡であるが故の非凡さを出来る限り重視したとしている。 


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