2011年12月08日06時49分掲載  無料記事
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核・原子力

運動の想像力について---「東京をゴミ捨て場に」再論  小倉利丸

 運動の想像力ということを最近よく考える。想像力は創造力と書き換えてもよい。311以降、この想像/創造力が現実として実感される磁場に引き寄せられて、うまく跳躍できていないような不全感に囚われることがしばしばある。 
 
 原発の事故を何処にいて、どのような立場にあってこの事故と向き合っているのか、という問題が想像/創造力の可能性を押しとどめて、今ある生活の「安全」にだけ向かうとき、他者(とは誰かという根源的な問いを不問に付すべきではないが)への配慮と責任はどこかで後回しにされかねない。そうなってしまったときには、自らの「安全」のために他者を犠牲にする自閉的な「安全」へと退行しかねないのではないか、と思う。 
 
 放射性物質を含んだ農産物や瓦礫、表土、山林の樹木などの処理をどうすべきか、をめぐって、反(脱)原発運動のなかで、明確な合意が得られていないようにみえる。福島の瓦礫は受け入れたくない=拡散反対という主張は、暗黙のうちに汚染物質は福島で処理すべきだ、ということが含意されている。とりわけ、このことは福島から離れれば離れるほど、言い換えれば、汚染地図の汚染の濃度と反比例する形で、汚染の拡散への抵抗と自己防御が大きくなる。これは、一面では「当然」の心情ではあろうが、他面では、「それでは福島や汚染の深刻な地域についてはどう考えるべきなのか?」という問いに対しては、福島第一原発とその周辺が汚染物質の集積場になるのはやむを得ないのではないか、という反応が多分今現在のもっとも多く聞かれる「答え」だろうと思う。だから、原発に反対でなおかつ汚染瓦礫の引き受けも反対と明確に言われる場合、その答えにはある種の躊躇や曖昧さが伴うようにも見える。問題は、自己の「安全」を防御することのなかに、他者への想像力が果たしてどれほど織り込まれてるといえるのか、」だと思う。 
 
 社会的な事件や事故に関して「やむを得ない」や「仕方がない」という答えほど私たちが熟慮し、警戒しなければならない言い回しはない。本当にやむを得ないのか?本当に仕方がないのか?汚染にどのように向き合うのかという問題で、私たちが原則をふまえて「どうあるべきか」という観点を抜きにして、目前のリスクを回避することにしか想像力が向かわない結果として「やむを得ない」「仕方ない」だけが議論の中心に据えられてしまってはいないか。反(脱)原発へむかう大衆的な意識、とりわけ避難が必要な深刻な地域から離れた場所に住む人々が、今ある「安全」を脅かす可能性のあるリスクの受け入れに否定的になる感情を私は否定しないが、しかし、こうした感情を減殺するような「どうあるべきなのか」という事態への理解についての原則を立てられないままになっているように見える。原則論として福島が汚染物質を受け入れるべき(受け入れる責任がある)というのであればいざしらず、そうでないとするならば、誰がその責任を負うべきなのか?責任を負うということは同時に汚染された膨大な物質を自ら受け入れるということを伴うことになるから、どこで受け入れるべきなのか、という問いと切り離せない。 
 
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 「東京をゴミ捨て場に」といういささか挑発的なブログのエッセイを書いたのは、上で述べた原則論を念頭においていた。このエッセイは賛否両論あり、評判は相対的によくないと思う。極論であり暴論だという印象を読者に与えたのだと思う。誰もが東電と政府に責任があることは認めても、東京の住人すべてをリスクに晒すのはおかしいのでは?あるいは、実際に瓦礫とかを運んで東京のどこに捨てるのか?非現実的ではないか?ともかく汚染の拡散は絶対に認められない、などなど、異論は様々だ。私はこれらの異論のすべてをひっくるめたとしても、だからといって福島が汚染を引き受ける「べき」だという結論を導くには、これらの反論だけでは説得力を欠くと思っている。もちろん、「現実」論として議論するとすれば、多くの困難や不可能な事柄が横たわっていることは、私のような妄想に偏る者であっても理解はできる。とりあえずそれほど愚かではないつもりだ。その上で、敢えて東京をゴミ捨て場にすべきだ、と書いたのである。しかも、親族や友人の大半は東京に住んでいる。東京だけでなく東電管内の電力需要者が原発によって生産された電力の受益者であることは間違いない事実であり、利益を得るならリスクも負うべきだ、という当然のことを書いたまでだ。もし、議論すべきであるとすれば、東電管内でどのように主として誰がそのリスクを負うべきなのか、として議論されるべきであって、福島が引き受けるという結論を導くことはありえない、と思う。汚染物の処理については、議論の時間はないともいえるし、十分にあるともいえる。日々の除染の必要を前提にすれば今日、明日を争う問題であるが、廃炉と原発内部と周辺に飛散したプルトニウムのように半減期2万4000年の猛毒核物質の処分を念頭にいれれば、もっと長い議論の時間がありうるかもしれない。 
 
 核の最終処分まで視野に入れれば、十年単位どころか百年、千年単位で原則論を立てるという展望をもつ必要がある。この間に、まったく収益に結びつかないが放射性廃棄物処理の飛躍的な技術革新は必須だろう。50年、100年という単位で、福島を原状に戻すといった時間の尺度で物事を構想することも必要だ。50年で農業や漁業ができるようになるか、廃炉の処分が終わるか、かなり難しいが。それなら100年を視野に入れてもよい。世界中で、土地を追われた人々が100年の単位で闘うことは珍しくないことを思い起こしたい。先住民の植民地主義との闘いは500年に及ぶ。 
 
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 福島からの自主避難も含めて、避難の権利を確立することは重要だが、このことが、福島を瓦礫置き場にすることに結びつけられることを私は危惧している。避難の権利は重要だが、同時に帰還の権利も何百年たとうと保証しなければいけないからだ。 
 
 南相馬の詩人若松丈太郎は「原発難民」という言葉を用いたが、難民のそもそもの定義は「人種、宗教、国籍、政治的意見やまたは特定の社会集団に属するなどの理由で、自国にいると迫害を受けるかあるいは迫害を受ける恐れがあるために他国に逃れた」人々であるが、「紛争などによって住み慣れた家を追われたが、国内にとどまっているかあるいは国境を越えずに避難生活を送っている「国内避難民」」も難民と同様に扱いを受けるべき者というのが国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)の見解だ。1948年国連はパレスチナ難民の帰還の権利と帰還しない難民への補償を決議している。帰還権は基本的人権である。原発事故で故郷を追われた人々を難民と呼ぶのは、大げさかどうか、過大評価かどうか、この点については議論があってもいいが、議論する意味のないこととはいえないのではないか。原発事故はUNHCRの考慮外だっただろうが、今後第三世界に原発に建設が進めば、将来はわからない。原発事故に由来する国内避難民であっても、この決議は参考にすべきではないか。言い換えれば、難民=避難民を生み出した責任ある者たちは、難民の帰還の権利を何年たとうが保障すべき義務を負うと考えなければならない。同時に難民を受け入れることも義務であろう。もちろん、東京がゴミ捨て場になれば膨大な避難民を生み出すかもしれない。そのことも念頭に置いておく必要はあるがそれだけでは済まない。 
 
 今回の汚染の処理問題は、福島第一原発に限らない。今後次々に原発は老朽化し、その経年劣化につれて事故の可能性は大きくなる。今後50年の間に、原発の深刻な事故がこの国で起きないと考えるほうが非現実的だろう。事故の最小化のためには原発の稼働停止が最低条件だが、それで問題が解決するわけではない。廃炉と放射性廃棄物の処分問題は日本全国の過疎地を次々に核のゴミ捨て場にする可能性を秘めている。もし、大消費地がこのリスクを引き受けないならば。福島原発由来の放射性廃棄物を東電管内以外に拡散させることに私は反対だが、いずれ沖縄を除くすべての都道府県は、この全国の過疎地に散財する原発の廃棄物の処理問題に直面する。深刻な事故が起きる可能性もありうるから、この処分問題の深刻度はより大きくなり、リスクはもっと大きくなる。福井県が大阪のために核のゴミ捨て場になる。新潟県も東京のために核のゴミ捨て場になる。すでに敷地内には膨大な使用済み核燃料が溜め込まれているのだが。 
 
 原則論を押しのけて、「仕方がない」という発想だけが一人歩きすると、「日本には処分に適した場所がないから海外で処分するのは仕方がない」という発想に結びつきはしないか?そもそも原発の立地そのものがエネルギー需要を満たすためには過疎地が犠牲になるのは「仕方がない」ものとして推進されてきたのではないだろうか?だからこそ、誰が責任とリスクを負うべきかというある種の規範意識が非常に重要になる。 
 
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 農産物問題では、古くて新しい問題が原発事故でも再燃したようにみえる。6月に福島の南相馬の津波被害に遇った地区を訪れた。そこではすでに地元の農家の人たちが瓦礫を片付け、「来年には絶対に農業を再開する」と語っていた。ほとんどの人が家族のうちの何人かを津波の犠牲で失っている。そうであればあるほどその土地を離れがたいであろうことは痛いほどよくわかった。「県も東電も頑張っている」と強い期待も語ってくれた。彼らがそれから半年たって、今どうしているか。 
 
 農民たちは農業が彼らのアイデンティティであるから、放射能による汚染について非常に重大な関心を抱きながらも、「安全」についての楽観論や政府自治体のお墨付きを「信じたい」気持ちになるだろうということは、理解できる。他方で、都市の消費者は、政府も東電も信用できないなかで、できる限り食べ物のリスクを減らしたいと考えるから、汚染に対しても厳しい判断を支持するだろうということも理解できる。農民たちからは、政府の暫定基準を受け入れず厳しい判断を下す都市の消費者の主張によって「風評被害」を受けていると感じられ、他方で都市の消費者からは、農民たちは汚染を拡散させる者とみなされがちだ。都市の消費者の間でも、福島の農業を支えたいと考える人たちと、福島の農産物をとりあえず避けたいと考える人たちの間に見解の対立があり、ときには感情的な対立すらみられる。 
 
 この問題は原発由来の問題だけではないかなり根深い都市と農村の問題を内包している。農業が地域を越えた全国レベルの市場経済に統合されるなかで(さらにそれがグローバルな市場経済に再統合されようとしてるのだが)、商品化された農産物の使用価値が利潤のために(それも流通や大手小売業や外食産業の販売戦略の影響が大きいと思うが)大きく損なうようになるのは、当然のことであり、そのなかで農民たちの労働もまた農薬や化学肥料による被害を被り、遺伝子組換え作物や食の生産現場の工業化が進んできた。こうした食の商品化の長い歴史的な経緯を見ておくことが必要だろう。今回の原発事故はこの商品化された食の商品化にまつわる問題が端的に突出した形で究極の問題として登場したともいえる。汚染食品の流通は、市場経済が全国的な市場に統合され、安価な農産物を全国から(国境を越えて)調達するような構造になければ、これほどの広がりはなかったのではないか。都市が農産物を需要するために構築してきた都市の食のための全国規模の市場流通そのものが、果たして食の市場として妥当なものなのか、という問いが今回の汚染の拡がりの背景にあることを忘れてはならない。言い換えれば、地域の自給的な市場を解体した大都市と大流通資本中心のメガマーケットそのものが、汚染の拡散を助長したのではないか。その責を生産者である農民に帰すことはできないのではないか、と私は思う。もしこうした観点を踏まえたとき、都市の消費者はそのライフスタイルを再考することもまた問われるのではないか、とも思う。 
 
 汚染された農産物問題の元凶は原発であり、その事後処理のずさんさにあるにもかかわらず、対立軸が農民と都市消費者の間にひかれているように思えてならない。この対立から利益を得ているのは誰だろうか?農民と都市の消費者は本当に利害が対立するのだろうか?実は農民と都市の住民との間の対話が決定的に不足していると思う。多くの都市の消費者にとって食料はスーパーに陳列されている商品としてしか見えない。「農」の具体的な現場とそこでの労働は見えにくい。だからアイデンティティの問題が十分に理解できない。しかし、商品化された食の現実への批判的な視点を持ち、これまでのライフスタイルへの懐疑という観点を持ったとき、そこには、食をめぐる別の視点も獲得できるのではないか。農民たちにとっても、風評被害なのか文字通りの被害なのかという問題は、被曝という問題と密接に関わり、実は、自分たちの労働の場である農地の汚染や家族の被曝に関わる問題でもあるはずなのだ。そうであるなら、農民が直面している問題は、実は都市の消費者以上に深刻なのではないか?そうであるにもかかわらず、なおかつ今この場での農業にこだわることの意味をわたしのような都市の住民は想像力をもって「理解」できなければならないと思う。この理解は、肯定とか否定という問題を越えたところで設定される問題である。 
 
 汚染をめぐる問題について、両者の間で合意を形成することは不可能とは思わない。農民としての生存の権利(職業選択の自由と居住の自由は憲法が保障している)も都市消費者の生存の権利も原発という主要な敵をめぐる生存権の問題として、100年を単位とした両者の対話のなかで必ず合意できる一致点が見出せると思う。この合意点は原発の拒否という観点によって構想できると思う。 
 
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 想像力の問題は、すぐれて他者への想像力の問題である。つまり、自身の身近な者たちや見知った者たちを越えた、今ここで生きている他者への想像力であり、同時に、未だ出会う機会はなかったが、将来出会うかもしれない(世代を越えた)他者への想像力の問題である。こうした想像力が運動の潜勢力となることは決して不可能ではないが、そうした努力を怠れば、人々の不安は、他者を排除する核シェルターもどきの自己保身だけを生みだし、ますます核の文化が支配の力を増すだけだろうと思う。 
 
http://alt-movements.org/no_more_capitalism/modules/no_more_cap_blog/details.php?bid=152 


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