2012年01月05日15時24分掲載  無料記事
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「コルタサル短篇集」 (木村榮一訳 岩波文庫) 

  アルゼンチン出身で長くパリで暮らした作家フリオ・コルタサル(Julio Cortazar,1914-1984)には「石蹴り遊び」という何通りもの読み方を選択できる独創的な長編小説があるが、短編小説の名手でもある。 
 
  アントニオーニが監督した映画「欲望」の原作となった短編が「悪魔の涎(よだれ)」である。アマチュア写真家が週末に偶然写した一枚は悪魔が少年を誘惑している情景だった。その写真は主人公の家の中で動きだし、その瞬間の続きを始める。驚いて少年を救おうとシャッターを切った「あの一瞬」に介入した主人公は、やがて写真の中にとらわれてしまう。 
 
  「夜、あおむけにされて」は現代の町でオートバイ事故にあい、病院に運ばれる青年が不思議な夢を見る。夢の中で古代アステカ文明の時代にいるのだ。彼は森を懸命に走っている。青年は生贄狩りから逃げているところだ。つかまったら、ナイフで心臓をえぐられてしまう。病院のベッドで眠りに入る度に、アステカ時代の悪夢の続きが始まってしまう。眠りたくないと思う。やがて手術が始まり医師がメスを持って近づいてくる・・・。そこで意識が失われ、再びアステカ時代に戻り・・・・ナイフが振り下ろされる。実は青年はアステカ時代に生きており、現実と思っていた現代が彼の夢想した夢だったという落ちである。オートバイは不思議な未来の鉄の乗り物だったのだ。 
 
  コルタサルは現実と幻想が交錯する話をいくつも書いている。遠く離れた時代が交錯したり、夢と現実が交錯したり、静止しているはずの写真が動き出したりする。こうした小説は映画と親和性が高い。モンタージュによって異なる2つの世界の交錯は容易に実現できるからだ。特異な手法によって、今我々が生きている現実は本当に我々が考えているほど確かなのか、と問いかける。たとえば人間は毎晩眠るが、眠っている間に誰か別人と入れ替わっているのではないか、といった不安を持つ人が存在するように。コルタサルはそのような執筆活動は命を懸けた遊びである、と語っている。だからだろう、コルタサルの小説にはモダンで若々しい味わいがいつもつきまとう。その延長線上に短編「南部高速道路」がある。この話はまさに東日本大震災=3・11以後の日本を描いた作品のように読める。 
 
  「南部高速道路」の舞台はフランスである。日曜の午後、パリに戻ろうとする数千人の人々が突然大渋滞に見舞われる。南部高速道路は片道6車線の計12車線である。その道がストップしてしまうのだ。最初は理由もわからない。ドライバーとその家族たちは最初は戸惑うばかりである。一晩経っても100メートルも動いていない。彼らは互いに水や食糧を分け合い、病人のケアも行う。つい先ほどまで見知らぬ人々だったが渋滞に巻き込まれたのが縁で、苦難をともにし、助け合う仲間になる。 
 
  「百姓夫婦のアリアーヌがグループの食料貯蔵庫で、尼僧の2HPが補助の倉庫になっていた。タウナスは自分が直接出向いて、まわりの4つか5つのグループのリーダーと会って交渉した。そのあと、兵隊と203の男に手伝ってもらって食糧を向こうのグループに届け、引き換えに食糧を上まわる水とブドウ酒を少々もち帰った。シムカの若者の空気マットレスはIDの老婦人とボリューの夫人が使うことになったが、それを見てドーフィーヌの若い娘は二人の婦人にスコッチ織りの毛布を二枚届けてやった。技師は自分の車を冗談半分に寝台車と呼んでいたが、この車をお使いになりたいという方がおられたらどうぞ、と申し出た。すると、意外なことにドーフィーヌの若い娘が使わせてほしいと言い出して、その夜は尼僧の一人と仲良くクッションを分け合って眠った。もう一人の尼僧は203に移って少女とその母親といっしょに眠り、父親のほうは毛布にくるまって路上で夜を明かすことになった。技師は眠くなかったので、タウナスとその友人を相手にダイスをしたが、しばらくするとアリアーヌの百姓も遊びに加わった。彼らは百姓がその日の朝にタウナスに渡した安ブランデーを飲みながら今後のことを話し合った。気温が下がったので夜は思いのほか過ごしやすかったし、雲間には星がのぞいていた。」 
 
  ここで203とかIDとか、シムカといった単語が出ているがこれらは車の名前である。普段、高速で走り抜ける道路が止まり、そこに非日常の世界が始まる。コルタサルが描いているのは高速の世界と速度がゼロになった世界の交錯である。やがて、道路も事故車の撤収が終わり、車が再び流れ始める。すると突然、寂しさとむなしさが登場人物たちを襲う。 
 
  「車はいま時速80キロで、少しずつ明るさを増して行く光に向かってひた走っている。なぜこんなに飛ばさなければならないのか、なぜこんな夜更けに他人のことにはまったく無関心な、見知らぬ車に取り囲まれて走らなければならないのか、その理由は誰にも分からなかったが、人々は前方を、ひたすら前方を見つめて走り続けた。」 
 
  車の速度の変化を物語の核にしたところが現代的で面白い。映画に脚色することも可能だろう。実際、スピルバーグ作品だったと思うが、よく似たコンセプトの映画を見た記憶がある。現代は車にせよ、飛行機にせよ、通信にせよ、高速の流れに従っている。しかし、災害や事故が起きると突如、その流れが暴力的にストップさせられる。速度が停止したためにそれまで見えなかった構造が垣間見えてくる。けれども、「南部高速道路」と似て、「事故は終息した」と宣言し、再びこの国は高速で走りだしている。「今参加しなかったら、間に合わない」を合言葉にするかのように。 
 
 
 
■「コルタサル短編集〜悪魔の涎・追い求める男〜(他八篇)」(木村榮一訳 岩波文庫) 
 
 
 
 
■「危険を冒して書く〜異色作家たちへのパリ・インタビュー」(J・ワイス著 浅野敏夫訳 法政大学出版局)よりコルタサルのインタビュー(一部抜粋)。 
 
  「短編でも長編でも私はどこからでも書き始めることができます。・・・どこからでも書き始めると私が言うのは、始まりも終わりも私が知っていないということなのです。書き始めればそれが始まりというわけです。しかしそのストーリーがそのように始まるべきだと決めてあったわけではない。ストーリーがそこで始まり、そして続いていく。結末がどうなるかわからない場合は非常に多い。何が起こるかさえ私にもわからないのです。事態が明瞭になってくるのは、ストーリーが進むかたわらまさに徐々にでしかなく、あるところで突如結末が見えてくるのです。」 
 
  コルタサルはこのような書き方をジャズの即興演奏に似ていると語っている。実際に短篇集の中に「追い求める男」と題するジャズマンの物語が出てくる。 
 
  「南部高速道路」にこのことをはてはめて考えてみると、コルタサルは高速道路が突然渋滞を始めることから物語を始めるが、その先がどうなるかは彼自身にもわかっていない。そこに人々の連帯が生まれ、しかし、渋滞の原因が除去されると再び、人々は自分の車に戻り、高速で走り始める。コルタサルの選択肢には芽生えた連帯がどう進展するか、という展開の様々な可能性があっただろう。もしかすると、そこに新しいコミュニティが生まれたかもしれない。しかし、コルタサルはそう物語を展開しなかった。コルタサルが描いているのは人間は速度を変えるとその思考や行動が変わる、ということである。 
  速度を絶対的な長所と考える人が少なくないが、思考の方向が間違っていたら速度が速い分だけ破滅は早く来る。 


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