2012年03月17日22時56分掲載  無料記事
http://www.nikkanberita.com/print.cgi?id=201203172256046

核・原子力

足尾銅山鉱毒事件と田中正造〜〜東電原発事故との関連で(その2)足尾、水俣そして福島  池住義憲 

 1901年10月に田中正造は、議員を辞職する。同年12月、東京市日比谷において帝国議会開院式から帰る途中の明治天皇に、足尾鉱毒事件について直訴を行う。途中で警備の警官に取り押さえられ直訴そのものは失敗するが、東京市中は大騒ぎになり、直訴状の内容が広く知れ渡る。直訴をきっかけに鉱毒問題に世論の関心が集まり、政府は1903年に第二次鉱毒調査委員会を設置する。ところが委員会は、古河鉱業に鉱毒予防工事命令や渡良瀬川下流域の栃木県谷中村に洪水防止を名目とした遊水地設置などの解決策を政府に答申する。いや、政府が委員会にそのようにさせた、というべきか。 
 
4、渡良瀬遊水地と原発再稼動施策 
 
 鉱毒問題を解決するには、その根源を断つ以外にない。鉱業停止しかない。しかし委員会は、鉱業停止を鉱毒予防命令と遊水地設置にすり替えた。鉱毒問題を「治水問題」にすり替えた。 
 
 今日の東電・福島第一原発事故による放射能汚染問題に対する政府の対応は、どうか。原発再稼動のためのストレステスト実施、原発立地近辺に防潮堤・防波壁を設置する津波対策工事、非常用電源の高台移転設置工事など…。 
 
 これらはいずれも原発再稼動を前提としたもの。政官財学癒着構造(“原子力村”)は温存され、事故の原因究明・検証(責任所在の明確化など)は棚上げにされる。足尾鉱毒事件への当時の明治政府の対応と似ている。 
 
 谷中村は1906年に強制廃村となり、藤岡町へ吸収合併される。法律上、谷中村は消滅させられる。正造は残留民とともにその後も谷中村に住み続けて抵抗するが、鉱毒沈殿用の渡良瀬遊水地は造られていく。鉱毒問題は根本的解決を見ることなく、遊水地に埋められ、埋葬された。 
 
5、田中正造の鉱毒問題理解と放射能汚染問題 
 
 正造は、古河鉱業による鉱毒を環境破壊の問題として捉えた。そして、この問題を放置すれば人類の滅亡につながる、と警告した。鉱毒の害というのは他の損害と違い、いのちの基盤が亡くなる。地面が亡くなる。よって人類も亡くなる。正造はこう捉えた。 
 
 正造の問題の捉え方で、特筆すべき点はもう一つある。足尾銅山からの鉱毒を環境破壊の原因であることの指摘だけに止まらない。国家権力と企業(古河鉱業)との癒着が、鉱毒問題の根本原因であると見ていたことだ。 
 
 1897〜98年の帝国議会で行った正造の演説のなかに、「官憲(政府)が加害者(銅山)と合体して、被害民をひどい目に逢わせてこの大被害地を製造した」とある。鉱毒によって広大な土地の自然力を破壊し、不毛の地を“製造”したのは加害企業(古河鉱業)に合体した政府だ、と指摘した。 
 
 東電原発事故による放射能汚染問題の場合は、どうか。陸に海に降下した放射性物質の害は他の損害とは大きく異なる。鉱毒よりも時間的・地域的にその範囲と領域が計り知れないほど、広く、大きく、長い。放射能汚染は、いのちの基盤を亡くす。地面を亡くす。コミュニテイを亡くす。チェルノブイリは事故から26年経った今も、原発周辺30キロ圏内に立ち入ることはできていない。 
 
 今の政府は放射能汚染問題をどのように捉えているか。国家権力(政府〜歴代政権を含めて)と企業(東京電力)の癒着、政官財学の癒着構造を、その根本原因であると見ているだろうか。1955年以来半世紀以上にわたって、自民党政権・自公政権・現民主党政権が進めてきた「国策」としての原子力政策と癒着構造そのものを、放射能汚染の根本原因として見ているだろうか。 
 
 放射能汚染への対処を優先することは、論をまたない。だが、東電の原発事故問題が当面の安全施策・安全基準問題に止まり、それにすり替えられてはいけない。原発再稼動のための要件引き上げをどこまでにするか、原発事故が“想定外”とならないように今後の想定レベルをどこまで引き上げるかなどのレベルと問題の捉え方・対応に止まってはいけない。 
 
 公害は、足尾から水俣を経て、福島へ引き継がれた。古河から日本窒素肥料(日窒)を経て、東電に引き継がれた。起こっている問題の捉え方・見方によって、対処・対応が決まる。立法府・行政府に関わる人は、公害の原点である足尾銅山鉱毒事件からまた田中正造から、あらためて学ぶ必要がある。 
 
6.今も続く鉱毒 
 
 古河鉱業は、1973年2月、鉱山資源の枯渇を理由に銅の採掘を止めた。しかし、閉山後も銅精錬所は、輸入鉱石による精錬を1989年まで続ける。足尾の山に残された膨大な量の銅鉱石の選鉱で生ずるカス(ズリ)や銅精錬残渣(カラミ)は、14の堆積場に野積みされたままになっている。 
 
 堆積場から今も有害物質が流出し、1,200キロにおよぶ廃坑の坑道から鉱毒の流出が完全に止まることはない。流出した鉱毒は渡良瀬川の泥に混じり堆積し、大雨や洪水の度に鉱毒が田畑に流出する。 
 
 1958年には源五郎沢堆積場が決壊し、鉱毒水が流出して下流域一帯に大きな被害をもたらした。昨年3月11日の東日本大震災の地震の余波とみられる地滑りで源五郎沢堆積場が崩れ、鉱毒汚染物質が渡良瀬川に流出した。下流の農業用水取水地点では、基準値を2倍上回る鉛が検出された。足尾銅山の公害は、終わっていない。続いている。 
 
 現在、対策が必要な鉱毒被害農地(群馬県指定農地土壌汚染対策地域)は53ha以上に及んでいる。鉱毒の爪痕は残り、太田市毛里田地区では鉱毒土を除去する作業が行われ、煙害を受けた足尾山地の治山事業は今も続けられている。公害が発生して一世紀以上過ぎた現在、足尾の山々では毎年40億円近くの税金が注がれ、砂防工事と植林が行われている。 
 
7.田中正造の言葉 
 
 後年の正造は、鉱毒被害を災害とは言わない。災害ではなく、「加害」と表現している。洪水や地震は天災だが、鉱毒被害は「人災」である(正造はのちに洪水も『人造加害』であると認識した)。鉱毒被害は天災と人災が複合した「合成加害」と捉えていた。 
 
 東電の福島第一原発事故が史上最大規模の「人災」であるとの認識は広まっている。もう一歩進めて、福島第一原発事故は東電と政府による「人造加害」「合成加害」行為である、と認識レベルを高める必要があるのでないか。 
 
 正造は、亡くなる一年ほど前の1912年6月の日記に、次のように記している。 
   “真の文明は 
    山を荒さず 
    川を荒さず 
    村を破らず 
    人を殺さざるべし“ 
 
 進歩・発展とは何か。文明とは何か。国のなすべきことは何か。平和とは何か。正造が残したこの言葉は、こうした問いに対して闘いの実践から端的に応えている。次世代に語り継いでいきたいと私は思う。 
 
<学習会のためのビデオ・DVD教材> 
●教材ビデオ1『足尾鉱毒事件はいま〜〜田中正造の精神を現代に生かすには』 
 (25分、足尾鉱毒事件田中正造記念館、Tel/Fax:0276-75-8000、2004年) 
●教材ビデオ2『田中正造に学ぶ〜〜日本で初めて公害と闘った人』 
 (32分、足尾鉱毒事件田中正造記念館、Tel/Fax:0276-75-8000、2007年) 
●DVD『記録映画:足尾74夏〜〜そしてフクシマ原発事故の2011秋』 
 (102分、山口豊寧撮影・構成、ヤマプランニング、t-yama@w4.dion.ne.jp 2011年) 
●DVD『赤貧洗うがごとき〜〜田中正造と野に叫ぶ人々』 
 (97分、池田博穂監督、共同企画ヴォーロ、Fax:03-5803-9530、2006年) 
●映画『襤褸(らんる)の旗』 
 (115分、吉村公三郎監督、三国連太郎主演、パラマウントビデオ、1974年) 


Copyright (C) Berita unless otherwise noted.
  • 日刊ベリタに掲載された記事を転載される場合は、有料・無料を問わず、編集部にご連絡ください。ただし、見出しとリード文につきましてはその限りでありません。
  • 印刷媒体向けの記事配信も行っておりますので、記事を利用したい場合は事務局までご連絡下さい。