2012年04月05日17時58分掲載  無料記事
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行き詰まった資本主義の変革へ 『資本主義以後の世界』を読んで 安原和雄

 著作『資本主義以後の世界』が話題を呼んでいる。行き詰まった資本主義の変革は不可避と問いかけているからである。資本主義の行方をめぐる論議は日本に限らない。欧米でも資本主義そのものへの不信が広がりつつあり、資本主義をどう変革するかに関心が寄せられている。 
「資本主義以後」はどういうイメージなのか。大きな柱は、脱原発であり、脱経済成長である。この脱原発と脱経済成長は内外を問わず共通認識となりつつある。問題は「資本主義以後」のあり方として、この2本柱で果たして十分なのかである。論議の活性化を望みたい。 
 
 中谷巌著『資本主義以後の世界 日本は「文明の転換」を主導できるか』(徳間書店・2012年2月刊)を読んだ。その主張を紹介し、さらに私の感想を述べたい。 
 
 まず本書の主張(要点)を紹介する。 
(1)グローバル資本主義の危機と「文明の転換」は不可避 
 今や文明の転換、すなわち資本主義思想そのものの転換が問われている。「資本主義以後の世界」は不可避であり、問題はそれがいつなのか、すぐそこに迫っているのか、50年も先のことなのか、である。 
 
 本書はグローバル資本主義の危機を克服するには、究極的には「文明の転換」が不可避だという立場をとっている。 
 たとえば、絶え間ない金融危機を生むグローバル資本の「投機的性格」を是正しない限り、恒常的に発生する国際金融危機を抑えることはできない。しかし、投機的取引を制限するという考え方は、あくなき利潤追求と自己増殖を目指す資本主義思想と根源的なところで抵触する。この状況を打破するには、自己増殖を目指す資本主義思想そのものの修正もしくは転換が不可避となる。 
 
 また、グローバルな競争激化が不可避的に生み出す所得や富の偏在を是正するには、市場取引から実現する資源配分のみを「正義」と見なす「交換の思想」を改め、人類が昔から持っていた「贈与の思想」への転換が必要になるだろう。人間はいつ、利己的な欲求追求の手段としての市場至上主義を修正し、利他的な「贈与の精神」が組み込まれた社会システムに回帰できるだろうか。 
 もう一つ、「資本主義以後の世界」を構築する上で必要になるのは、「過剰な技術信仰」や「自然は人間が管理すべきもの」という西洋的な自然観を改め、人間が自然の恵みに対し、「敬虔(けいけん)かつ謙虚」な気持ちを持つという意味での「自然観の転換」である。これがない限り、地球環境破壊はとどまるところを知らず、人間が棲(す)む「生態圏」の中では、原子力のような制御不可能な技術に人間が振り回される状況が続く。 
 
 「文明の転換」などは絵空事だという批判は覚悟の上である。それでもなお今日の資本主義世界の閉塞状況を見れば、いずれ「文明の転換」が必要になることは間違いない。問題はそれがいつのことになるのかだ。すぐそこに迫っているのか、50年も先のことなのか。本書で主張したかったのは、いずれ「資本主義以後の世界」が訪れることは確実であること、そのときには否が応でも我々の価値観の転換が不可避になるということである。 
 
(2)「文明の転換」の具体的な提案 
 日本は「文明の転換」を主導できるだろうか。脱原発、小規模分散型電力供給、農業の復活、シンボルとしての里山 ― の四つを軸に考える。 
 
*日本の首相は世界に向かって「脱原発」宣言を 
 首相が行うべき提案は、たとえば「20年ないし30年の猶予期間を置いた後、すべての原発を廃炉にし、再生エネルギーに転換する」と。日本は原子爆弾による唯一の「被爆国」であり、現在も原発事故によって放射性物質の脅威にさらされている「被曝国」である。日本からの「脱原発」宣言は多くの国際的共感を得られるに違いない。 
 首相は国連、G20など国際会議の場で「人類は『生態圏』になじまない原子力に頼るのはもうやめよう」と提案することが必要だ。 
 
*小規模分散型の電力供給モデルへ 
 原発は典型的な大規模集中型の電力供給システムであった。これは設置されている地域で消費されることのない電力システムである。ここにも資本主義世界で共通の構造、すなわち「中央による周辺地域の搾取」という構造がある。再生エネルギーへの転換が実現すれば、小規模分散型・地域循環型の電力供給が可能になり、「中央による周辺地域の搾取」という歪んだ構造も解消することが期待できる。 
 脱原発を基本にして、再生エネルギー、すなわち太陽光、風力、地熱、バイオマス発電などに惜しまず税金を注ぎ込み、日本を世界トップの「再生エネルギー大国」にする。それが「文明の転換」の基本となる。 
 
*「農業の復活」に賭けるとき 
 「競争力のない農業」からは撤退して、なんでも輸入品でまかなえばよいとする無批判な自由化論には反対せざるをえない。 
 私が農業の復活を提唱する背景には、 崟侈をできる限り使わないかたち」で農業の競争力を強化し、食料自給率を上昇させる、美しい国土、美しい農村共同体をつくる、というふたつの狙いがある。 
 農村には豊かな自然環境、地域独自の文化、多様な動植物など、さまざまな「地域資源」があり、農村という「場」も総体的に捉えて、農業全体を復活させなければならない。 
 
*「里山」こそ日本のシンボル 
 日本には「里山」の思想があった。里山とは、集落や人里に接するこんもりとした森を持った山を指す。私たちの祖先は稲作を行うとき、必ず里山をつくって保水能力を高めるとともに、そこに土地の神さまを祀(まつ)ってきた。 
 こうした日本的自然観に基づいて「環境立国」を進めていけば、日本は世界的に見ても環境破壊の少ない、美しい農村を保全している貴重な国として認知されるようになるのではないか。地方は穏やかな農村と「里山」、京都や奈良は「古都」、東京は「森の都」といわれるようになれば、日本のプレゼンス(存在感)は一気に高まるだろう。 
 
<安原の感想>(1)新自由主義(=市場原理主義)からの転換 
 上述のような中谷著『資本主義以後の世界』の主張にはほぼ全面的に賛同できる。むしろ私(安原)などが従来、主張してきた「農業、農村の重要性と田園価値の尊重」という視点も含まれており、積極的に支持したい。 
 とはいえここでどうしても指摘しておきたいことがある。それは彼がかつて新自由主義の信奉者であったという事実である。その「反省の弁」を紹介したことがある。その趣旨は以下のようである(「相次ぐ新自由主義者たちの変節 新しい時代への転換を察知して」と題して「安原和雄の仏教経済塾」=08年11月12日付=に掲載)。 
 
 信じていた新自由主義は果たして正しかったのかという反省がある。新自由主義の結果、貧困、格差が広がってきた。例えば相対的貧困率(中位の所得水準の半分以下にランクされる低所得者の割合を指す)をみると、先進国の中で何と米国が第1位、日本が第2位となっている、と。 
 
 このご本人の反省の弁に続いて、以下のような私(安原)の感想を書いた。 
 新自由主義破綻後の新しい時代への転換を察知したうえでの変節であるなら、意味のないことではない。(中略)これからも周囲の状況変化を見て、都合良く立ち回る風見鶏(かざみどり)よろしく「前・元・新自由主義者」と名乗る輩(やから)が続出するにちがいない。新自由主義を暴走させた、その悪しき産物として日本列島上に広がる眼前の無惨な現実、そして今後長期間続くであろうその後遺症を彼らはどう眺めるのか、その心底を問うてみたい、と。 
要するに悪しき思想、新自由主義からの転換は、必然であり、問題は新自由主義後の資本主義のあり方をどう構想するかであるだろう。 
 
<安原の感想>(2)資本主義以後をめぐる論議の活性化を 
 破綻状態ともいえる資本主義は果たしてどこへ行くのか。その論議をすすめる時である。 
 私事にかかわることで恐縮だが、大学ゼミナールではマルクス著『資本論』にねじり鉢巻きで取り組み、卒業論文のテーマは「金融資本の研究 ― ヒルファーディング理論の批判的検討」であった。マルクスの「資本論」を踏まえ、ヒルファーディング著『金融資本論』を批判的に読みながら、資本主義とその行方を私なりに構想してみようという、いささか振りかぶった発想であった。 
 それから半世紀を経た今、「資本主義以後の世界」が切実なテーマとして浮上してきたことに感慨を抑えきれない。遅すぎるというのではない。むしろ歴史的変革の機会が来るべくしてきたという感慨である。英紙フィナンシャル・タイムズが「資本主義の危機」というテーマで1月に連載記事を掲載したことは、資本主義そのものの行方をめぐる関心が欧米各国にも広がっていることを示している。 
 
 さて「資本主義以後の世界」とは、どういうイメージなのか。アイデア、発想は多様であり、その一つが中谷氏の『資本主義以後の世界』であり、日本の脱原発、再生エネルギー大国、農業の復活などを柱とする「文明の転換」である。 
 
<壊れゆく「資本主義宗教」>という見解(3月24日付毎日新聞)もある。イタリアの哲学者、ジョルジョ・アガンベン氏の説で、次のように述べている。 
 資本主義は経済思想というよりも、一つの宗教だ。ただの宗教ではなく、より強く、冷たく、非合理で、息の詰まる宗教だ。(中略)要は、経済成長か、それによって失われる可能性のある人間性か、どちらを選ぶかだ。資本主義が見ているのは世界の変容ではなく、破壊だ。というのも、資本主義は「無限の成長」という考え方で指揮を執るが、これは合理的に見てあり得ないし、愚かなことだからだ。 
 ヒロシマ、ナガサキを経験した後で、日本が50基以上もの原子炉を設置していたとは思いもよらなかった。 
 そして(明るみに出たのは)資本主義を率いてきた人々の思慮のなさだ。そこにもまさに資本主義宗教の非合理性が見える。国土が大きくない国に50基もの原子炉を築く行為は、国を壊す危険を冒しているのだから、と。 
 
 国を壊すほどの大量の原発を設置し、「無限の成長」を追求する愚かな日本資本主義への痛烈な批判となっている。このような批判からイメージできる「資本主義宗教」後は、いうまでもなく脱原発と脱経済成長の二本柱である。 
 
 全国の地方議員や自治体首長ら有志の政治組織「みどりの未来」は、2012年7月に「緑の党」を旗揚げし、翌2013年7月の参院選挙に「緑の党」として初の議員を国会に送り込む方針である。この新政党の基本スローガンがやはり脱原発と脱経済成長である。 
 脱原発と脱経済成長は必要不可欠であり、政策目標としても正しい。ただ脱原発と脱経済成長は「資本主義以後」の戦略目標として十分なのか、「資本主義以後」ではなく、「資本主義内」での斬新な政策にとどまるのではないか、という主張も当然あり得るだろう。「資本主義以後」も視野に収めた論議の活性化を期待したい。 
 
*本稿は「安原和雄の仏教経済塾」からの転載です 
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