2012年07月14日17時19分掲載  無料記事
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検証・メディア

経済記者が想う「小沢新党」の発足 反消費増税、脱原発の姿勢を評価 安原和雄

  大手メディアの社説にみる論評では「小沢新党」の評判はすこぶる悪い。まるで仲間から嫌われている非行少年団の旅立ちのような印象を受ける。果たしてそうだろうか。 
 小沢新党のめざす政策の二本柱は、反消費増税であり、脱原発である。この政策目標のどこが不可解なのか。この目標をどこまで貫くかどうかという課題は残されているとしても、目標そのものは正当である。長い間、経済記者の一人として、政治、経済を観察してきた体験からして、私はそのように新党発足を評価したい。感情を交えた好き嫌いの判断で採点するのは避けたい。 
 
▽ 新聞社説は小沢新党をどう論じたか 
 
 小沢新党に関する主要4紙の社説の見出しとその大意を紹介し、私(安原)の感想を述べる。 
*朝日新聞社説(7月12日付)=小沢新党 ―「人気取り」がにおう 
*毎日新聞社説(同上)=小沢新党結成 スローガンだけでは 
*読売新聞社説(同上)=小沢新党 大衆迎合の色濃い「生活第一」 
*日本経済新聞社説(同上)=有権者と信頼関係を築けるか 
 なお東京新聞社説は12〜14日付では取り上げていない。 
 
(1)朝日新聞社説は<小沢新党 ―「人気取り」がにおう>という見出しで、次のように指摘している。 
 
 民主党を除名された小沢一郎氏のグループが、新党「国民の生活が第一」を旗揚げした。 
 代表に選ばれた小沢氏は、結党大会で「反消費増税」「脱原発」などを訴えた。 
 結局、「反消費増税」にしても「脱原発」にしても、まじめな政策論ではなく、単なる人気取りではないのか。 
 
<安原の感想> 政治は「人気取り」ではないのか 
 朝日の社説は<「反消費増税」にしても「脱原発」にしても、まじめな政策論ではなく、単なる人気取りではないのか>としているが、これには違和感を抱くほかない。 
 なぜ「まじめな政策論ではない」と言いきれるのか。現下の最大の政策テーマであり、消費増税や原発推進に国民の大多数が賛成しているわけでは決してない。 
 しかも「単なる人気取り」という指摘も不思議である。政治はしょせん「人気取り」だろう。それは有権者、国民大衆の希望、願い、期待に応えるという意味である。それが民主政治ではないのか。それとも朝日社説は日本国民を責任感の欠落した「愚民」と認識しているのか。 
 
(2)毎日新聞社説は<小沢新党結成 スローガンだけでは>という見出しで、以下のように論じている。 
 
 小沢氏が言う通り、「国民の生活が第一」は政治の要諦だ。「増税前にすべきことがある」との主張も間違っていないし、「自立と共生」を理念とし、国民、地域、国家の主権を確立するとした新党の綱領も妥当な内容だろう。ただし、「反増税と脱原発」のスローガンだけで納得するほど有権者は単純ではない。 
 
<安原の感想> たしかに「有権者は単純ではない」 
 小沢氏には多くの点で共感を覚えながらもなお、どこかに欠点がないかとあえて探しているという印象が残る社説である。「有権者は単純ではない」はその通りである。「単純」はしばしば「馬鹿」を暗示する。いうまでもなく有権者はそれとは異質であってほしい。 
 しかし政治の主張、スローガンは、大学研究者に多い意味不明の論文ではないのだから、単純、明快でなければならない。「反増税と脱原発」はその典型である。しかしこの単純、明快なスローガンに込められている含意は、地球規模の広がりと新時代の創生を示唆している。だからその価値は限りなく大きい。 
 
(3)読売新聞社説は<小沢新党 大衆迎合の色濃い「生活第一」>と題して、次のように指摘している。 
 
 新党の発足に高揚感は乏しい。何しろ「壊し屋」と称される小沢氏の4度目の新党であり、新鮮味に欠ける。 
 国民の生活本位と言うのなら、具体的かつ丁寧に説明してもらいたい。有権者へのアピールを意識して、大衆迎合的なスローガンを唱えるだけでは無責任である。 
 
<安原の感想> 大衆迎合はむしろ歓迎できる 
 「新鮮味に欠ける」という指摘は、正しいだろうか。経済記者としての私などは「4度目の新党」という、その「しぶとさ」にむしろ感心する。たしかに「壊し屋」なのだろう。しかし新しく創りもするのだから、同時に「建設家」でもあるのではないか。 
 「大衆迎合的なスローガンは無責任」という表現にも違和感が残る。「迎合」とは本来、弱者としての大衆が強者である権力に「気に入るように迎合」するという意味であり、逆に権力が大衆に迎合するのではない。それを承知で、小沢新党が政治を一新して、大衆に「生活第一」で「迎合」するのであれば、それはこれからの民主政治の一つのあり方となるかも知れない。無責任どころか、むしろ歓迎できるのではないか。 
 
(4)日本経済新聞社説は<有権者と信頼関係を築けるか>という見出しで、以下のように論じている。 
 
政党にとって重要なのは政策である。同時に有権者との間に絆がなければならない。新党はそれだけの信頼を築けるだろうか。 
 次期衆院選に向けて新党は反増税と反原発を旗印に据える方針だ。 
 民主党は抵抗勢力がいなくなり、野田佳彦首相が党内をまとめやすくなった。社会保障と税の一体改革を巡る3党合意で構築した自民、公明両党との枠組みも活用し、「決める政治」を推し進める絶好の機会だ。 
 
<安原の感想> 「決める政治」はそれほど価値があるのか 
 この日経社説の主眼は後段の「民主党は抵抗勢力がいなくなり、野田首相が党内をまとめやすくなった」にある。だから<「決める政治」を推し進める絶好の機会だ>が社説の言いたいところだ。各紙社説ともに小沢嫌いに満ちているが、この社説は特に露骨である。 
 しかし「決める政治」それ自体は、それほど価値のあることだろうか。問題は何を決めるかである。間違ったことを決めて、それをごり押しされては迷惑するのは国民である。反増税と反原発の小沢抵抗勢力がいなくなった後の民主党のめざすところは、増税と原発の推進である。「決める政治」の中身はこれである。これを歓迎する国民は決して多くはない。これでは民主党の命運も事実上尽きたというほかないだろう。 
 
▽ 新聞にみる「読者の声」が示唆すること 
 
 まず<読者も「民主党は終わった」>と題する東京新聞7月12日付「応答室だより」を紹介しよう。これは読者の声を収録したもので、その大意は以下の通り。 
 
 消費増税法案をめぐり民主党が分裂後、同党に失望してさじを投げる読者の投稿が目立っている。埼玉県越谷市の70代男性は「三年前の政権交代の期待は見事に裏切られた。民主党は事実上終わった。一日も早く『主権在民』の政府誕生を望む」と総括している。 
 批判はもっぱら、次の選挙までは上げないと公約したはずの消費増税に、自民、公明両党と組んで政治生命を懸けるという野田首相らに集中。これに反対して新党を結成した小沢元代表グループには期待する意見も届いた。 
 一方、民主党分裂を機に政界再編成を求める横浜市の80代男性は、「官僚の振り付けで動く民主、自民、公明党で構成する『官僚翼賛会』と、この党と対極線上に位置する『国益第一義党』に再編すればいい。とりあえずは前者が多数党だが、後者も小沢新党を軸に勢力を増大し政権党に成長してほしい」と記している。 
 
 これに東京新聞読者の「発言」(7月14日付)をつけ加えておきたい。「小沢新党は国会に必要」と題して、次のように指摘している。 
 
 新党を結党した小沢代表の動きに多くのメディアは否定的である。だが、現下の重要課題である消費増税と原発について、国民の声が国政の場に届かない状況にある。そう考えると、反増税、反原発を主張する勢力が国会の場に必要であることは明らかである。その意味でも小沢新党には期待してやまない。 
 
 もう一つ、「国民をだまして消費増税とは」(7月13日付朝日新聞の読者「声」)を届けたい。その要旨は次の通り。 
 
 民主党を除名された小沢一郎元代表が11日、新党「国民の生活が第一」を旗揚げし、民主党は分裂した。「国民との約束を守ろう」と主張した人たちが党を離れ、「今は消費増税だ」と主張する人たちが党に残る。何とも不思議だ。税制という国民にも国家にも最重要な政策で政権公約が守られない。これでは何のための選挙だったのかと思う。 
 民自公の3党合意は「社会保障は後回しにして、まずは増税を」ということのようだ。増税だけでは国民の反発を招くので、社会保障という隠れみのを使っていたのだ。これでは国民をだまして増税をしたと言わざるをえない。 
 小沢新党の旗揚げで参院での消費税法案の行方はどうなるか。現状のままでは「増税成りて信義滅ぶ」という事態となる。 
 
<安原の感想> メディアは健全な批判精神を取り戻すとき 
 紹介した「読者の声」は、きわめて健全であると評価したい。これに比べれば上述の各紙社説の質はいささか見劣りするのではないか。一昔前には社説を一読者として読んでみたとき、「なるほど勉強になった。こちらの気づかないことを見事に指摘している」という読後感が残ったものだ。 
 ところが現状はどうか。社説執筆者は「勉強不足」、あるいは「偏見、思いこみ」に囚われているのではないか、という印象が消えない。なぜなのか。それは社説執筆者の姿勢、いいかえれば国家権力を含む権力者を批判するのか、それとも読者一般に向かってお説教を垂れるのか、にかかわってくる。有り体にいえば、後者のお説教が多すぎるのだ。 
 これではメディアの健全な批判精神の衰微というほかない。今ここで踏みとどまって、健全な批判精神を取り戻さなければ、新聞メディアの存在価値そのものが問われるだろう。 


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