2012年07月25日16時29分掲載  無料記事
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スポーツ

1948年のオリンピック −戦後の緊縮財政下で開催

 前回、ロンドンが五輪夏季大会を開催したのは1948年であった。1936年のベルリン大会の次の大会で、第2次大戦後初の大会となる。1940年(当初東京で開催予定)、1944年(ロンドンで開催予定)の両大会が大戦前後の国際関係の緊張化により実現しなかった。「緊縮財政の五輪」と呼ばれたが、これは大戦で国の財務状態が悪化し、お金がない状態で開催されたからだ。競技場や関連施設は既に建築されていたものを再利用するか改装は最低限とされ、選手村も設置されなかった。外国の選手は軍用基地や大学の寮などに宿泊するように言われた。メダル獲得の最高は84個の米国で、英国は23個で12位だった。(ロンドン=小林恭子) 
 
ー大会のハイライト 
 
。泳メートル競走 奇妙な走り方をする選手 
 
 31人の選手が走行を開始したとき、チェコスロバキアを代表するエミール・ザトペックに注目した人は多くなかった。 
 
 「人間機関車」との異名を持つザトペックは26歳の陸軍将校で、軍用ブーツを履いて、歩きと走りを交互に行う訓練を続けた。妻を背負いながらの走行も練習したという説もある。400メートルを早く走り、100メートルをゆっくり走るという奇妙な走行を行ったザトペクは次第に聴衆の関心を引き、競技が進むにつれて、「ザトペック」という応援の声が競技場全体に沸き起こった。後半の4000メートルでほかの選手を全て抜き、12秒早い世界新記録を作って、ゴールした。第2位の選手とザトペックはゴールの歓喜に互いを抱き合った。数日後には5000メートルで銅メダルを獲得。 
 
 「戦争の暗い日々の後で、五輪の再開はまるで太陽がまた姿を見せたようだ」とザトペックは語っていたという。 
 
▲好檗璽弔判性たち ―「空を飛ぶ主婦」 
 
 女性選手の比率は全体の10%ほどであったが、本大会のスターとなったのがオランダ代表のフランシナ・ブランカース=クン選手であった。元陸上競技選手ヤン・ブランカース=クンと1940年に結婚し、ロンドン大会では女子200メートル、女子100メートル、女子ハードル、女子リレーで金メダルを獲得した。当時、女性選手が参加できる競技は最大で4つであった。欧州選手権やオランダ選手権でも優れた成績を残し、1955年の引退まで、12回の世界記録を樹立した。金メダルを祝うため、在英のオランダ人学生たちは選手のためにダンスを披露した。当時は女性に対する偏見が濃厚であった。 
 
 妻や母でありながら選手を続けるブランカース=クンに「空飛ぶ主婦」というニックネームがついた。現役引退後はオランダ代表の指導にあたった。2004年、没。 
 
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 個人としては最多のメダルを受賞したのがフィンランドの体操選手ベイッコ・フーテネン。3つの金メダルに加え、銀と銅を1つずつ獲得した。フィンランド選手団が五輪に参加し出したのは、1908年のロンドン大会から。当時はフィンランド大公国と呼ばれ、ロシア皇帝が同君連合の形で支配下に置いていた。 
 
 本大会で圧倒的な強さを見せたのがフィンランド選手で、あんま種目ではトップの3人全員がフィランド人であった。得点数が同点になったため、フーテネンはほかの同国人選手2人と金メダルを分け合った。 
 
 その後、フーテネンは国内競技ではロンドン五輪のような好成績を残せず、1952年のヘルシンキ大会の代表チームに選出されたなかったことを機に引退した。後、体操競技のレフリーとなった。 
 
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 マラソンの最終走行で、聴衆の心を大きく掴んだのが、ベルギー人選手のエティエンヌ・ガイイであった。第2次大戦で落下傘兵であったガイイは、戦前からロンドンの陸上クラブで走るランナーでもあった。 
 
 ロンドン大会はイイにとって初のマラソン競技だった。当初からスピードを上げ、2番手を大きく引き離したガイイは、ウェンブリー・スタジアムにトップで入ってきた。相当の疲労感を見せながら走るガイイに聴衆は歓声を送ったが、アルゼンチン選手に追い越され、倒れてしまったところで、英国代表トム・リチャーズにも抜かれた。極度の疲労とともに3番手でゴールインしたガイイに観客はスタンディング・オベーションで迎えた。スタジアムから病院に運ばれたガイイは、表彰式に出席することができなかった。 
 
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 先の五輪であるベルリン大会(1936年)からロンドン大会開催までの12年間で、サッカーはプロフェッショナルなスポーツとして大きく成長していた。 
 
 1908年のロンドン大会で正式な競技となっていたが、当時の五輪はアマチュア選手だけに参加資格を認めていた。五輪憲章からアマチュア規定が削除されたのは1970年代で、国際オリンピック委員会がプロ参加を容認したのは1980年代である。 
 
 本大会の優勝は、決戦でユーゴスラビアのチームに3対1で勝ったスウェーデンだ。5対3で英国チームを破って銅メダルを獲得したのは、英クラブの1つ、マンチェスター・ユナイテッドを指導していたマット・バズビーが鍛えたデンマーク代表。最多ゴール数を誇ったのはスウェーデンとデンマークの選手だった。 
 
(参考:London Olympics 1908 and 1948 by Janie Hampton、BBC、英新聞各紙。「英国ニュース・ダイジェスト」1360号掲載分に補足。) 


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