2012年08月06日14時31分掲載  無料記事
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スポーツ

モロッコ.オリンピック団長に逮捕状 フランス判事がロンドン.オリンピックに乗り込む 文:平田伊都子 写真:川名生十

 ロンドン.オリンピックたけなわの8月3日、英国BBC.TVが流した速報はオリンピック競技ではなかった。「ラマエル.フランス判事がイギリス警察に、暗殺容疑のベン.スリマネ.モロッコ.オリンピック団長を逮捕するよう要求した」とのビックリ.ニュ―スだ。 
 
*モロッコ.オリンピック団長ベン.スリマネ 
 
 モロッコ.オリンピック団長は誰を暗殺したのか? どうしてフランスの判事がロンドンまで追っかけてきたのか? 華やかなロンドン.オリンピックを舞台に映画のような追跡劇が繰り広げられている。 この惨劇には容疑者と追跡者の二人の他に、犠牲者やモロッコ王や、フランスのドゴール将軍やイスラエルのモサドまで登場してくる。 
 
 まずモロッコ.オリンピック団長ホスニ.ベン.スリマネを洗ってみる。 ベン.スリマネは1935年12月14日にモロッコの海岸都市エル.ジャデイーダで生まれた。 1958年から1961年まで、ラバトFARサッカーチームのゴールキーパーをやったスター選手だった。 1957年、モロッコ国軍に入隊し、イフニ戦争、アルジェリア戦争、西サハラ戦争(西サハラ民族の独立戦争)と軍歴を重ね、2009年まではFRMF(モロッコ王国サッカー協会)会長を務め、現在はCNOMモロッコ王国オリンピック会長の要職にある。 
 そのモロッコ.スポーツ界の長老が、1965年にパリで起きた反王政派指導者ベン.バルカ誘拐暗殺事件の実行犯としてラマエル.フランス判事から追跡されているのだ。 この事件はいったんモロッコ側が、マフィアによる誘拐殺害として謎のまま葬ろうとした。 死体も証拠もあがってこなかった。 ところが2001年に元モロッコ秘密情報員アハマド.ブハリが 「ベン.バルカを誘拐し拷問し暗殺したのはウフキル内務大臣(当時)の命を受けた4人の軍人だ」と、新聞に情報を流した。 ブハリはモロッコ当局から同年8月に逮捕された。 が何故か同年12月には釈放されている。 
 いったん時効になっていたベン.バルカ暗殺事件を、フランス警察は再び追跡し始めた。 
 
*ドゴール大統領とフランス秘密情報局 
 
モロッコ王に消されたベン.バルカが今生きていたら、<モロッコの春>を導くリーダーとして欧米から祭り上げられていたに違いない。 
算数の先生をやっていたマハデイ.ベン.バルカは、民主的運動体をモロッコに根付かせようと、1959年にUNFP(人民諸勢力全国同盟)を設立した。 彼は未来のモロッコ共和国大統領と嘱望されていた。 1963年にモロッコとアルジェリアの戦争が始まり、アルジェリアを支持したベン.バルカはモロッコを追われパリに亡命した。 そして亡命先のパリで反王政運動を指導していた。 
 1965年10月29日に白昼堂々とベン.バルカを誘拐した実行犯が誰であろうと、刺客を送った主犯がハッサン二世モロッコ国王なのは明らかだった。 
 ベン.バルカの亡命を容認していたドゴール.フランス大統領は、モロッコ王の身勝手な粛清騒動とフランス国権侵犯に激怒した。 そのうえモロッコ王が 「犯人たちを手引きしたのはフランス情報員とフランス警察」との噂を撒いたため、ドゴールはモロッコとの国交を一時断絶した。 
 フランスにはモサドもCIAも一目おくフランス対外治安総局という名の情報局がある。 
 1940年第二次大戦中にドゴールが亡命先のロンドンで創った<自由フランス>の傘下にあり、1942年からドゴールの命を受けて活動を開始した。 この情報局には、戦略部、情報部、作戦部、管理部、技術部などがある。 フランス対外治安総局はイギリスのMI6と同様に、善玉になったり時に悪玉になったりしてフランス映画にたびたび登場している。 
 
*故ハッサン二世と腹心ウフキル 
 
イスラエル紙ハーレツが1999年7月25日に故ハッサン二世モロッコ王(在位1961〜1999)と彼の腹心ウフキルのことを書いている。 この記事はハッサン二世が1999年7月23日に死んだ直後に発表された。 厳しい報道統制が敷かれているモロッコ国内でこの種の国王スキャンダル.ニュースを流したら、即、不敬罪で監獄に送られる。 
イスラエル紙ハーレツによると、アラブ諸国の中でイスラエルを受け入れたのは、ヨルダンに次いでモロッコが二番目だそうだ。 イスラエル対外情報局モサドのモロッコ基地を作ったのはハッサン二世で、モロッコとイスラエルのパイプ役を当時のウフキル内務大臣が務めた。 基地提供の代償としてイスラエルはモロッコに軍事面や情報面での技術援助と物資援助を行った。 1960年代にモロッコ反王政勢力の情報を流したのはモサドだとされている。 ベン.バルカ暗殺を手引きしたのはモサドだったのかもしれない? 
1971年7月10日、ハッサン二世42才の誕生パーテイが首都ラバトから24キロ離れたスヒッラ王宮で始まった。 国王御成りを待つ着飾った招待客の前に、突然なだれ込んできたのは、機関銃を乱射する十数人の反乱軍兵士だった。 華やか宴会場は血の修羅場となり、92人が倒されていった。 ハッサン二世は脱出し、駆けつけた近衛兵は指揮者のメドブーウ将軍を殺し反乱軍を抑えた。 将軍はハッサン二世の右腕だった。 
1972年8月16日、フランスでバカンスを過ごしたハッサン二世がボーイング727機でラバト上空に帰って来た時、突然モロッコ空軍ノースロプF5アメリカ製戦闘機が襲ってきた。 ハッサン二世は自らマイクをつかむと「王逝去」の誤報を管制塔に伝え、危機を脱出。 王暗殺の首謀者は左腕のウフキル内務大臣とされた。 ウフキルは処刑された。 
1980年代に入って、モロッコ占領地.西サハラを縦断する2500KMの地雷防御壁をモロッコが7年がかりで完成できたのも、イスラエル軍高官の指導があったからだ。 
 
*故ハッサン二世と西サハラ 
 
腹心の二人に裏切られたハッサン二世は、1999年に死去するまで独裁政権を強化し、反体制の人々を暗殺し拘束した。 2004年1月に匿名のモロッコ市民13名が、IER という名の<モロッコ王による犠牲者調査組織>を立ち上げた。 IERはハッサン二世の治世下で592人が暗殺されたと報告している。 一方、モロッコ占領地.西サハラでは1000人以上が殺され、651人が行方不明になったままだ。 
ハッサン二世は国民の不満を外に向けようと、モロッコの南に位置する西サハラの征服を企んだ。 <大モロッコ構想>と名を打ち、「南端はセネガル川に始まり北は大西洋岸まで北アフリカを統一するのはモロッコ王に神が下された義務だ」と宣託した。 西サハラ征服は<大モロッコ構想>の事始めだそうだ。 モロッコはモーリタニアを誘って国際司法裁判所に西サハラに対する両国の領有権を認めるように迫った。 が、1975年10月16日にはっきり断られた。 
 当時はスペインが西サハラを植民地支配していた。 が、独裁者フランコが危篤になり国内情勢が不安定になったスペインは西サハラからうまく撤退するチャンスを狙っていた。 
1975年11月6日、ハッサン二世はタンタン周辺に民間人35万人を集め、スペイン領西サハラへの越境デモをし、西サハラを征服したと大博打をした。 が、<緑の行進>と称された官制デモの数は10万人足らずで、民間人の後部から多数の軍人が入れ代わり、西サハラに軍事侵略をしたというのが実状だった。。 
ちなみに、そのタンタン地方で2012年4月11日にMV-22オスプレイが墜落した。 
 1975年11月14日、スペインは西サハラ北部をモロッコに、南部をモーリタニアに秘密分譲し、西サハラからスペイン軍を撤退させた。 それを機に、北からはモロッコ軍が南からはモーリタニア軍が侵攻し、西サハラ住民は挟み撃ちになってしまった。 逃げ場を失った西サハラ住民の大部分はアルジェリアに逃げ込んだ。 1975年末、こうして西サハラ難民が発生し、以来アルジェリアにある難民キャンプでの苦しい生活が続いている。 
 
*どこにいるのか?モロッコ.オリンピック団長 
 
ハッサン二世はわが身の保全をイスラエルや欧米に委ねた。 その代償は<アラブとイスラエルの仲介者>という名のスパイ活動である。 まだイスラエルがアラブの敵国であった1976年、イスラエルのイツハク.ラビンはかつらをつけ変装してハッサン二世に会いに行った。 アレンジしたのはモサドのモロッコ支局だ。(イスラエル紙ハーレツ) 
現在のモロッコはイスラエルのモサドだけでなくアメリカのCIAやAFRICOMアメリカ.アフリカ軍にも基地を提供している。 モロッコの安全はイスラエルやアメリカが保障してくれるということなのか?? 
 
さて、ラマエル.フランス判事はベン.スリマネ.モロッコ.オリンピック団長を逮捕できたのだろうか? 2007年からベン.スリマネを追跡してきたラマエルだが、AFPフランス通信社によると証拠不足でフランス警察やインターポール国際刑事警察機構の権威をもってしても、強制逮捕に踏み切るのは難しいそうだ。 そこでラマエルはロンドン.オリンピックの対日本サッカー戦に容疑者が姿を現わす瞬間を狙った。 が、予想は外れた。 
モロッコ大使館に問い合わせたら「ベン.スリマネ団長は7月28日までロンドン市内にいたが、現在はいない」と、つれない返事、、だが、フランス判事は諦めていない。 
 
モロッコ.オリンピック団長はモロッコ選手団をほったらかしにしてどこに逃げたのだろうか? そんな無責任なことをしてるからモロッコ.サッカーは日本サッカーに負けてしまったんだよ! モロッコの選手団が可哀そうです。 
 
文:平田伊都子 ジャーナリスト 写真:川名生十 カメラマン 


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