2013年04月12日14時14分掲載  無料記事
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地域

【安房海より】老木が語る元禄地震の歴史 海抜10mのまちから  田中洋一

 こんな標識がよく目につく。青地に白抜きの文字で「ここの地盤は海抜○○m」。これまでに出合った○○のほとんどは10に満たない。つまり私は海抜10m以下の海岸沿いで働き、暮らしている。海抜は標高と同じ高さだが、海に近い雰囲気がよく出ている。 
 
 春の転勤で、中央アルプスと南アルプスに挟まれた標高数100mの伊那谷から、房総半島先端の千葉県館山に引っ越して来た。朝の散歩も、昼の役所通いも、海岸に近い海抜数mの世界である。 
 標識は30年前からあるにはあった。だが大多数は、2年前の東日本大震災以降、自治体が設置したものだ。大震災による津波で、この一帯に大きな被害はなかったが、注意を促している。千葉県は昨年、最悪の場合は館山に14.7mの津波が襲うとの試算を公表した。こんな津波に襲われれば、この地の住民のほとんどが呑み込まれてしまう。私だって不安だ。 
 
 この試算の基になるのは元禄地震だ。1703(元禄16)年11月、房総半島の沖合でマグニチユード8級の巨大地震が発生した。多くの犠牲者が出たに違いない。 
 
 穏やかで鏡ケ浦とも呼ばれる館山湾。その湾岸部を航空写真で見ると、面白い地形が浮かぶ。海岸段丘が同心円のように幾重にも広がっていることだ。巨大地震が起きる度に海面が隆起し、段丘を造っているようだ。館山の一帯では、1923年の関東地震で2m、元禄地震では6m隆起したとの研究がある。 
 
 館山湾には海上自衛隊の航空隊基地がせり出している。前身は海軍航空隊だ。せり出した先には二つの島があった。元禄地震以降、島と岸の間に浅瀬が徐々に広がった。関東地震で隆起がさらに進んだので、海軍はその一画を30年に造成し、基地を造る。その結果、一つの島は基地に取り込まれて消えた。残る島も、沿岸流で砂州が発達し、戦後は基地と地続きになった。 
 
 2年前に大震災を招いた東北地方太平洋沖地震で、被災地の海岸はおおむね沈降した。それなのに房総半島の先端が巨大地震の度に隆起するのは何故か。地球科学の最前線の研究テーマらしい。地殻を覆う三つの大きなプレート(岩板)が海底でぶつかり合い、複雑な動きをしていることと関係ありそうだ。 
 
 さて、館山の海抜約6mの住宅地に老木が立っている。幹周り4m、高さ8mのサイカチである。のぞき込むと幹には空洞が広がり、枯れ木のようだ。寸胴の枝先に、遅い新緑が芽吹いているのに気づくまでは、枯死したと見誤っていた。車のすれ違いがやっとの狭い市道に、こんな老大木がはみ出している。 
 
 地味な説明板が由来を物語る。元禄地震で襲来した津波を避けてこの木によじ登った人を救った−−との言い伝えがあるそうだ。この木を市の文化財に指定する手続きが今進んでいる。 
 
  田中 洋一 


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