2013年04月24日10時05分掲載  無料記事
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反戦・平和

「ドレスデン空襲の意味、国境と世代を超え継承を」訪日のノイツナーさんが対話を強調<上>

  ドイツからドレスデン空襲の記憶継承活動を行っている「1945年2月13日」協会のマティアス・ノイツナーさんが来日・講演してから1ヶ月が過ぎた。1987年から空襲の継承活動を続けてきたノイツナーさんの「空襲体験をどう継承するか」という講演の熟考された内容は、130人を超える参加者に深いメッセージを残した。3月16日に行われた東京大空襲・戦災資料センターでの講演を振り返ってみる。(加藤〈karibu〉宣子) 
 
 ノイツナーさんの講演は、日本での1週間の滞在の話から始まった。東京・大阪・京都で体験したことを振り返るスライドを見せながら、歴史とは、私たちの過去に関する考え方・イメージとは、決して固定されたものではなく、常に今日にある主義主張や問題点、問いに影響を受けるものだということ。過去を共に眺めて、ともに位置づけることが重要であると話した。 
 
 また、この集会のテーマである「高齢の体験者と若い世代がいかに過去について交流できるのか」という話に関し、「世代間の対話が重要」だと話す。体験者世代が戦争体験を聞かせるだけでなく、若い人の意見も聞くという平等なふれあいによってともに社会参加することができると話した。大阪での「戦争や暴力の話を聞くと無力感を感じる」という学生との対話を紹介し、無力感は年配の世代でも感じており、それを共通点として新たなチャレンジへの出発点になるという。 
 
▽ ドレスデンという都市の意味 
 
 ドレスデンはヨーロッパにとっても重要な意味を持つ記憶の場である。ドレスデン空襲のあった2月13日には、毎年多くの人がドレスデンを訪問し、その悲劇を思い起こすための様々な催しが行われる。しかし、事態は非常に政治的で、対立的であり、その暴力行為を防ぐために約3000人の警官を必要とした。なぜかといえば、1945年のドレスデンというのはドイツ人、ヨーロッパ人にとっての歴史的なシンボル、象徴となっているからである。 
 
 ドレスデンは、ザクセン王国の首都であり、文化的・経済的に重要な土地であった。ヨーロッパ的に見ても重要な都市であり、19世紀に入って政治的な意味を失っても、文化都市として傑出した建築物や文化的所蔵品などの遺産は、都市の名声を特徴づけていた。美しき文化都市というイメージのドレスデンである。1930年代の広告映像では、中心部をエルベ川が流れ、聖母教会があったり、バロック様式で建てられた居城や建物が並んでいる。 
 
 しかし政治的な変化は都市の生活やその意義を変えていく。1871年ドイツ帝国が建国され、第一次世界大戦が勃発し、ワイマール共和国となったドイツは世界恐慌などの危機的状況を迎え、1933年ヒトラー率いるナチ党が政権獲得した。ドレスデンはナチ党時代にも重要な都市であり、広大な軍事施設が作られ、ハイテク産業で知られるドレスデンの工業は軍事兵器を製造することになったのである。 
 
 ナチスドイツが侵略的外交政策を拡張させて、第二次世界大戦を開始した時にドレスデンから送られる軍隊は重要な役割を果たしたにもかかわらず、文化都市ドレスデンの陰で、その事実は隠ぺいされていた。人種主義的な排除や強制輸送など、ドイツの諸都市と同様に政府への抵抗運動を抑圧し、敵とみなされたグループをドレスデンから締め出した。1933年以降ユダヤ系の人々は様々な迫害をうけている、つまり都市としてのドレスデンもホロコーストに関与したということを意味している。 
 
 1942年以降、ドイツ軍が敗北し始めると、男性労働力が不足するようになり、東ヨーロッパのドイツが占領していた地域から強制的に送られ、働かせた。その後、戦争捕虜や強制収容所の囚人が送られてきた。住民の負担も増え、生活必需品の配給が減らされ、多くのドレスデン市民が補助業務に従事させられるようになっていった。 
 
▽ ドレスデン空襲の実態 
 
 ドレスデンは戦争が始まって5年間空爆を受けることがなかった。英米軍はドイツの北部や西部の都市を爆撃していたが、爆撃機にとってザクセン州は距離が遠くて危険を伴うものだった。しかし1945年1月、最初の爆撃が行われた。米軍はドイツ中の燃料製造工場を破壊しようとしていたが、それができない場合に予定地以外に爆弾を投下した。そのうちの2回がドレスデンへの爆撃だった。 
 それがドレスデン市民に、ドレスデンという都市も安全でないと悟らせた。多くの会社や設備では防空の準備がなされていたが、材料や人員の不足していた。また死者の埋葬ができる墓地の整備をしていたが、2月に破局が訪れたときには墓地の数は不足した。 
 
 1944年から1945年にかけて、連合軍の軍隊がドイツ帝国の国境に、部分的には国境を突破する状態の中、ドイツの指導部は負け戦をどんな犠牲者を払っても継続することを決定していた。ソ連はドレスデンに100キロ足らずの場所にまで迫っていた。さらに中部ドイツの諸都市は東部戦線の後背地となり、物資輸送に使われ、そこに救援機能や連絡機能といったものが設置された。これによってドレスデンなどの都市も英米軍の標的となった。すでに何百万人の人間を死に追いやった6年にも及ぶ野蛮な戦争の後では、誰も倫理的な考えを持たず、軍事的優位を達成するために民間人を殺すことにためらいはなかった。 
 
 1945年2月13日夜、英空軍の夜間攻撃はほぼ完ぺきに機能した。22時過ぎに目印となる照明弾を落とし、数分後爆撃機235機がドレスデンの歴地地区全体を包囲するように爆撃した。その15分後に炸裂弾による爆撃が行われ、何百もの建物を崩壊させ、道路や広場はその瓦礫で埋まった。至る所に火の手が上がり、火災によって道路の多くが通行不能になった。第2陣の529機の重爆撃機は燃え盛るドレスデン市街の炎を目標に飛んできて、最初の爆弾投下の3時間後に、中心部周辺、中心部を爆撃した。この第2陣が終わった深夜2時ごろ、炎の面積は拡大し、大火災になって、熱風の火炎嵐を生じさせた。 
 
 50万を超える収束型の爆弾は、ドレスデンの消防団など歯が立たなかった。火炎嵐に対しても全くなすすべがなかった。14日の朝、ドレスデンは煙が立ち込めていた。そして12時を過ぎたころ、311機の米軍機による第3波の爆撃が行われた。15キロ平方メートルに及んで破壊され、粉砕され、がれきの山の光景が広がり、25000人が亡くなった。 (つづく) 


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