2013年05月19日14時02分掲載  無料記事
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地域

【安房海より】 信州・大日向村満蒙開拓移民の手記「敗戦の記」   田中 洋一

 待ちかねていた文書が今月初め信州佐久の友人から届いた。私が力を注いで取材してきた満蒙開拓についての貴重な記録だった。幻の満州国に内地から30万人近い移民が開拓団として渡った。最も多くを送り出したのが信州・長野県。移民には様々な形態がある中で、村の各層を二分して送り出したのが分村移民だった。そのモデルとされた大日向分村について、移民当事者が敗戦直後に記した手記「敗戦の記」である。 
 
 佐久地方の大日向村(現・佐久穂町)の分村移民はマスコミにもてはやされた。新聞社はグラフ雑誌に特集記事を載せ、作家に本を書かせ、記録映画を制作し、前進座の舞台も登場した。だが満州大日向村(吉林省)は1945年8月8日、ソ連軍の攻撃で幕切れる。 
 
 「終戦の記」はこの日付で始まる。「遠くに弾丸の落下の音らしきものを耳にす。夜明けになりても音は一時間おき位に聞こえる何事かあらんと案じられた」。翌9日に日ソ開戦と知る。 
 15日の詔勅をラジオで聴く。「胸迫る思ひしばらく呆然たるものあり。我々の進むべき道は唯耐え難きに耐へるのみ」。淡々とした記述だが、入植した37年から築いてきた開拓農村での暮らしが一瞬にして崩れ、真っ暗な闇に突き落とされた心情が伝わってくる。 
 
 9月5日付。「五部落に匪襲の報あり。銃器五十、土匪二百名からなる有力なるものにして、激闘二時間餘にして撃退す。……一名の死者を出せり」。激しい襲撃が続き、犠牲者は増える一方だ。 
 
 「土匪」がどんな集団を指すのか明らかではない。だが、土地と家屋を半ば強制的に取り上げた日本人入植者に悪意を抱き、モノ欲しさも加わって襲ったことは間違いあるまい。 
 
 記録の主は95歳の大林作三さんと妻の故ツマ子さん。敗戦の混乱・冬の寒さ・栄養失調・伝染病で乳幼児はじめ開拓団員のほぼ半数が命を落とし、満州から帰国した。だが故郷に居場所はなく、47年に浅間山麓の火山灰地に再入植する。軽井沢町の大日向地区だ。 
 
 私は大林さんを昨年5月に訪ねた。長野県立歴史館が満蒙開拓の企画展を開く意義を認め、報じるためだった。県立の施設が、戦中とはいえ県当局の責任にも触れる展示をするのは画期的だ。 
 車いす姿で現れた大林さんとの意思疎通は不十分だったが、三男を介して大林さんは語った。「必ず勝つと信じていた戦争に負けたのに、国は私たちを構ってくれなかった」。その思いこそ、生活も苦しい混乱期にもかかわらず、手記に取り組ませたに違いない。満州での開拓については「満州の土地は良く(肥え)、作物がたくさん取れた。ここ(軽井沢)は百姓には大変厳しい所」と語った。 
 
 取材当時は「終戦の記」のガリ版刷り原本は見つからず、村職員の写本が展示された。だが私は、原本は必ず見つかると確信のようなものがあった。果たして、今春の転勤直前に原本が出てきた。 


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