2013年12月05日13時17分掲載  無料記事
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地域

【安房海より】国策を拒んだ村長が信州にいた   田中洋一

 1930年代から敗戦直前まで、信州は全国で最も多い満蒙開拓団員を送り出した。開拓という美名の下に3万3千人余りが海を越えて満州国に渡った。しかし傀儡国を操る日本政府、端的に言えば陸軍関東軍は、ソ連との戦いに備える防波堤としての満州の強化に国民を巻き込んだのだ。満蒙開拓は36年に国策に位置づけられた。その国策を拒んだ村長が信州にいた。伊那谷南部の大下條村(現在の阿南町)の佐々木忠綱(1898−1989)だ。(本文から) 
 
  安倍政権が遮二無二(しゃにむに)今国会での成立をめざす特定秘密保護法。首相は「各国の情報機関との情報の交換……を行っていく上では、秘密を厳守することが大前提」(衆院予算委員会)と強調する。だが世論の反発は根強い。福島市での公聴会では、自民党推薦を含むすべての意見陳述者が法案に反対した。 
 
  問題の肝は、国家主権の伸長と市民社会の自由のどちらを優先するかにある、と私は受け止めている。私自身は、かつて敗戦に至った反省の下に市民社会の自由を最大限尊重し、国策の遂行は憲法の許す範囲に留めるべきだと考えている。 
 
  本業の中でも取り上げたい課題だが、苦慮している。館山は戦前は海軍航空隊の基地で、現在も自衛隊最大のヘリコプター基地がある。秘密漏洩と疑われた事例を探しているが、見当たらない。その中で信州(長野県)伊那谷で取材したある人物を思い起こす。 
  1930年代から敗戦直前まで、信州は全国で最も多い満蒙開拓団員を送り出した。開拓という美名の下に3万3千人余りが海を越えて満州国に渡った。しかし傀儡国を操る日本政府、端的に言えば陸軍関東軍は、ソ連との戦いに備える防波堤としての満州の強化に国民を巻き込んだのだ。満蒙開拓は36年に国策に位置づけられた。 
 
  その国策を拒んだ村長が信州にいた。伊那谷南部の大下條村(現在の阿南町)の佐々木忠綱(1898−1989)だ。佐々木は郡内の他の村長ら指導者と合同で満州農業移民地視察に参加する。そこで見聞きしたことが、彼の満州開拓像を形作る。「日本人が非常に威張っている……満人の土地を略奪してどんどんやっていくというようなやり方をしている」と後に振り返っている。 
 
  40人近い村長らが参加した視察で、佐々木ひとりが否定的に受け止めた。妻とだけ相談し、その信念を曲げない行動を貫いた。 
 
  少し説明がいる。満蒙開拓には様々あった。佐々木が頑として応じなかったのは、村(母村)の責任で住民を送り出す分村移民。住民の半ばを新天地の満州に送り出し、残る母村は耕地を広げて農道を拡幅する。国県が補助を優遇する、いわば村おこしだった。 
 
  満州移民は大きな犠牲を招いた。分村ではないが、移民の募集に応じようとした村役場の用務員は、佐々木に止められた。「あの時、行かないでよかった。村長に助けてもらった」と述懐する。 
 
  翼賛壮年団の若者らが国策遂行を叫んで役場に度々押し掛けたが、佐々木の決心は揺るがない。若き日に参加した社会教育運動の伊那自由大学が心の支えになり、ここで学んだ自由主義の精神が根付いていたからだ。講師陣には「山宣一人孤塁を守る」と治安維持法に反対し、右翼に刺し殺された代議士の山本宣治もいた。 
 
  特定秘密保護法案の先行きが不透明な今、信念に基づき、孤立を恐れない。そんな精神力と行動力を、佐々木から学びたい。 


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