2013年12月11日11時50分掲載  無料記事
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検証・メディア

特定秘密保護法案とテレビ 民放とNHK

  特定秘密保護法をマスメディアがどう報じてきたかをめぐってネット上で様々な声が飛び交っていた。初期はマスメディア、とくにテレビは総じてこの法案を無視している、という声が大きかった。しかし、11月の半ばを過ぎてから、あるいは11月の末あたりから、だんだんテレビでも民放がこの問題を熱心に取り上げるようになったらしい(らしい、というのは筆者が外国に滞在していたので)。民放の放送人が集まって特定秘密保護法案に対する反対の声明を記者会見したあたりだろうか。もちろん、そこには「成立したあとのアリバイ作りに過ぎない」という冷ややかな声もあった。本当に法案成立を阻止する気があったのなら、もっと早くから本腰を入れて取り組むべきだったというのである、メディア自らの運命を変える重大な法案なのだから。 
 
  その後、法案の危険性を指摘し始めた民放に対する評価が上がっていく。次第に民放各局はよく報じたが、NHKは「皆様のNHKでなく、安倍政権のNHKになった」という批判的な声が増えていった。NHKのニュースは政府の見解を丁寧に解説するばかりで、批判的な報道が弱かったからである。公共放送は政府の広報機関なのか、という疑問の声が増えてきたのだ。公共放送の政治権力からの独立性という点で、日本の放送法の欠点をつく批評も出た。 
 
  これは安倍総理がNHKの経営委員に思想的に近しい人間4人を送り込んだことが大きく関係している。従来の自民党政権は決してこんな露骨なことはしなかったと言われている。公共放送は選挙の結果で放送内容を変えるべき性質の存在なのか。これはたまたま今自民党が与党だから自民党批判になっているが、将来公明党や共産党が政権を取って同じことをすれば同じ批判を受けるだろう。 
 
  公共放送局は選挙ごとにキャスターやプロデューサーを更迭したり、ニュースの中身や番組企画を修正したりするような存在なのだろうか。NHKがジャーナリズムであるかどうかが問われているのである。与党が自分の考え方に近しい人間をNHK経営委員に送りこんで間接的に放送局を統制するのであればNHKは政府批判がいずれはできなくなるだろう。こうなるとキューバや北朝鮮、中国、ロシアなど、一党独裁国家や権威主義国家の国営放送局に近くなる。 
 
  またこれと同じ時期にNHKの受信料をテレビを持っていなくても徴収する方針になった、という報道がなされた。NHKの特定秘密保護法案をめぐる報道の仕方に憤り、受信料はやっぱり払わない、と拒否する人をあらかじめ封じるように受け取られたのである。NHKは国会前のデモも報じなかったと憤る声をたくさん見受けた。 
 
  特定秘密保護法案によって、今まで「民放はくだらない、唯一NHKぐらいしか見る放送局はない」と言っていた人々の空気がここに来て変化しているようだ。 
 
  NHKがこれだけ批判された背景は国民の関心が高い特定秘密保護法案の国会審議を途中で何度も放送終了したことだ。そして放送終了後に強行採決や重要な審議があったりしたことで、国民は安倍政権の意を組む放送をしているのではないか、と強く疑いを持ったのである。とくに国会中継を終了した後の番組がさして緊急性のないものだったということも国民の不信の背景にあったようだ。 
 
  これらの事情を庶民が知ることになった背景はインターネット放送局が審議を継続して放送し続けたことと、ツイッターで国会議員や周辺の人々が状況を刻々と伝え続けたことからだ。かつてなら、国民にはこうした事情はまったくわからなかっただろう。今回のことでベルリンの壁が崩壊する前夜、旧東ドイツの国民が自国の放送を信用せず、壁の向こうから送られてくる西ドイツの放送に真剣に耳を傾けていたエピソードが思い出された。 
 
  本来なら公共放送であるNHKこそ、国民が深く関心を持つ放送をしなくてどうするのか。そんな思いを多くの国民は抱いたはずである。肝心なところで放送を終了して、国会のあり方の本質に目を閉ざしてしまったことは放送の歴史において汚点を残したことになった。こんな重要なことを報じない放送局って、いったいなんだ?という疑問なのである。 
 
  世界で、国で重要な問題が起きているときは、そのテーマを集中的に見たい、という思いをも持つ人は少なくないだろう。本来、それが放送の重要な存在理由のはずである。30分とか、1時間という枠を決めずに、必要なだけじっくり時間をかけて欲しい・・・これは国会審議だけではないはずだ。メディアもまた国民の知りたい要求にこたえる使命があるのだ。メディアの役割がそこにあるのであり、放送局は単なる娯楽産業ではないはずだ。 
 
  テレビ欄を見ると、朝から夜まで毎日ぎっしり番組予定が詰め込まれている。その一方で、国民が強く関心を持っていて国会前に多くの人々が詰めかけている時に、国会審議の中継が途中で打ち切られる。打ち切られたのはプロ野球や相撲の中継ではない。国の未来というより国民一人一人の命や自由がかかる重要なイシューが議論されていたのだ。だから「肝心なものを放送しないでいったいなんだ」と放送局は存在理由が問われることになったのである。 
 
  もしかすると放送スケジュールをもっと緩くして、1日の5分の1くらいは特番にさしかえられるくらいの放送の隙間を空けておいたほうが自由に対応できるのかもしれない。しかし、歴史的に放送局にとって「黒味」が出るくらい悪夢はないのである。黒味を作らないためにあらゆる無理をし、徹夜を続け、血を吐くまで制作を続けるのが放送人なのである。そして1日の放送スケジュールを隙間なくぎっしり詰め込む。そのまじめさが肝心なところでマイナスに作用している気がした。それが日本の鉄道のように寸分の狂いのないスケジュールなのである。 
  しかし、たとえ完成が間に合わなくて黒味になる時があってもいい。むしろ、これだけは見せて欲しい、肝心なものを落とさんでくれ、というのが観る側の思いかもしれない。それが特定秘密保護法案の連日の審議だったはずだ。もっともそこまで言わなくても既存のニュース枠の中でもっと違った報道もありえただろう。 
 
  NHKをめぐっては右翼の人々から、「NHKは今までから皆様のNHKなんかじゃなかった」という声も出ていた。右翼の人々にとってはNHKの番組は左翼の偏向的な価値観に染められており、自分たちの声は無視されている、と感じていたことがその理由のようだ。安倍氏が以前、NHKの番組に介入して内容を変えさせていた事なども、右翼の人々からすればNHKを正常化するための正当な介入だったと捉えられているのだろう。しかし、今NHKが批判を浴びているのは右翼からではなく、安倍政権に批判的な人々からである。しかも、今の特定秘密保護法案に反対する人々は過半数に上っている。 
 
  こうした事から、「NHKはもう終わった」という声がこのところ出ている。NHKはこれまで通りの高いクオリティとチーム力をもってこれからは愛国精神を称揚する完成度の高い感動的な番組作りに乗り出すのではないか、と見る人もいる。ナチス以前もナチス以後も誰が指揮をしようと、ベルリン・フィルが高いレベルの演奏をしつづけたようにだ。そのピークは2020年の東京オリンピックなのだろうか。 
 
  以前、民放を総じてダメだと総否定したかと思うと、今度はNHKがダメだと言って総否定する。庶民がテレビを見る目は厳しい。しかし、民放はダメだと言われながら、それでも特定秘密保護法案を最後の局面においてであっても何とか報じようとした人々がいたのと同様に、今「ダメだ」と言われているNHKの中にもこの問題を真摯に考えている人々はいるのだろう。だから、批判するのは結構だが民放がダメだとか、NHKがダメだとか一言で否定するのはどうか、と思えるのだ。 


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