2014年02月03日13時05分掲載  無料記事
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デカルト著「方法序説」 〜近代を考える〜

  西欧近代哲学の始祖としてよく引き合いに出されるのがフランスのルネ・デカルト(Rene Descartes 1596-1650)である。そのもっとも知られた本が「方法序説」だ。批評家の小林秀雄が確か<「方法序説」という訳はいかめしい。本来は「方法について」くらいの平易なタイトルだ>と言った意味合いのことをどこかで書いていたように思う。 
 
  確かに元のタイトルは'Discours de la methode'であり、直訳すると「方法についての論」。全然いかめしくない。あえて「序説」とものものしくしたのはその方が権威を感じるからではなかろうか。この傾向はデカルト的ではない気がするのだが、昔の日本の哲学研究者たちには難しいものをありがたがる習慣があったらしいのだ。 
 
  デカルトが「方法序説」で示したその方法とは簡単に言えば以下の4つ。 
 
1)疑いの余地もないほどはっきりしたものでなければ判断の中に取り入れないこと。 
2)複雑な問題は小さく分けて1つ1つ考えること 
3)一番単純でわかりやすい問題からはじめて、階段を上るように最も複雑な問題に進んでいくこと。 
4)もれなく対象を考えたかどうか列挙してみて、漏れがなかったかどうか見直しを怠らないこと 
 
  デカルトの方法を要約するとこのようなことになる。疑いのないほどはっきりした事だけをもとに、少しずつ小さなことから組立てて大きな問題に迫っていく、というのが彼の方法だった。 
 
  そして彼が疑いえないと考えたものは「ものを考える自分自身」ということに思い至った。物質も、世界も、月も星も実在しているのかどうかわからない。自分の肉体ですらそうだ。何者かに幻を見せられているだけかもしれない。夢かもしれない。妄想かもしれない。蜃気楼かもしれない。しかし、少なくともものを思ったり、考えたりしている自分を疑うことはできない。懐疑する存在。だから、「我思う、ゆえに我あり」(Je pense ,donc je suis)ということを一番確実なこととして、そこを出発点にして彼は世界への認識を積み上げていこうと考えた。 
 
  「私はいかなる身体も持たず、私がいかなる場所もないと仮定できるとしても、だからといって私が存在しないとは仮定できないこと。逆に、私が他の事物の真理性を疑おうとしているまさにそのことから、私が存在することがきわめて明証的にきわめて確実に帰結すること」(山田弘明訳「方法序説」ちくま学芸文庫) 
 
  私の体が存在するのかどうかも確かではないが、世界を疑っている私自身という意識があること自体は疑いえない。このような考え方のデカルトは懐疑主義者と言われる。そこが近代哲学の始祖とみられる理由である。世界は神によって創られた、という大きな物語とは違った方法を掲げたからだ。 
 
  今日ではデカルトの方法に様々な批判も出ているようである。たとえば世界は細かく分けて分析することで本当に世界全体を認識できるのか?つまり分けて考えることは本当に正しい方法なのか?といった批判。意識と肉体は分けられるのか、という批判。頭がぼけたらは人はどの程度確かに存在するのか、とも・・。さらにデカルトには動物機械説もあり、動物には精神がなく、時計のようにぜんまいで動いている物に過ぎないとする説。これは「方法序説」の後ろの方に書かれている。動物愛護家に評判がよくないところである。 
 
  それでもデカルトの懐疑精神のおかげで、それまでのキリスト教的世界観に風穴が開くことになった。宗教と異なる自由な思想や科学の時代が開けてきた。今日では科学技術が進みすぎて、自然破壊も進み、人間自身の原料化も始まっており、そのすべてはデカルトのおかげだとまで責任を負わされている。それでもデカルトが近代の入り口で記した一歩を人類は否定することはできないのだ。 
 
  デカルトは「方法序説」の冒頭、こう書き起こしている。 
 
  'Le bon sens est la chose du monde la mieux partagee' 
 
  「良識(bon sense)はこの世で最も公平に配分されたものである」と。良識=ボンサンスなるものは辞書を引くと「良識」とか「分別」と書かれている。分別はごみの分別(ぶんべつ)の分別でなく、分別(ふんべつ)である。広辞苑によると、「考えること」、「思案をめぐらせること」といった意味と同時に「世間的な経験・識見などから出る考え・判断。思慮。」ともある。ごく普通に人間が生きていく上で生まれ持っている思考力あるいは理性ととらえておこう。 
 
  デカルトは人間は誰しも思考力(理性)を平等に与えられている、と冒頭で書き起こしている。翻訳者の山田弘明氏は訳注で'mieux partagee'は「最もよく配分された」という意味だが、「方法序説」をラテン語に翻訳した時の訳語であるaequabiliusの語義から、この場合の「よく」とは「等しく」という意味であると同定している。つまり、良識はみんなに平等に与えられたものである、と。しかし、その平等に生まれ持った思考力・理性を人は正しく使いこなせていないとデカルトは書く。冒頭で「方法序説」を書くに至った問題提起をしているのである。 
 
  「したがって、われわれの意見がどうして多種多様になってくるのかといえば、ある人が他の人よりもより理性的であるからではなく、ただわれわれがさまざまな道によって考えを導き、同じことがらを考えているのではないからである。というのも、よい精神を持っているだけでは十分でなく、大切なことは、それをよく用いることだからである。最も大きな心の持ち主は、最も大きな徳をなしうるのと同じく、最も大きな悪徳をもなしうる。」 
 
  理性が平等に人に与えられていたとしても、それを悪用すれば悪徳になるし、その使い方一つでなんにでもなりうる危ないものだ、と言っているのである。だから、その正しい考え方、理性の正しい使い方を発見して学ぶことが大切で、その方法を私なりに考えついたと言うのである。 
 
  その後、「方法序説」の中でデカルトはドイツの部屋でどうしたこうした・・・と自分の思考遍歴について語り始める。デカルトは自分が方法を見つけるまで、あるいは世界の真理をものにできるまでは暫定的に国の法律や道徳に従い、常識に基いて暮らすという温和な常識人の考えも示している。片足を生活に置き、片足を思考の極限に置くというのである。家を建てるときはその期間は暫定的に、仮家に住まないといけない、という興味深い比喩を書いているのである。体が実在するかどうかわからないからと言って、自分で手足を切り落としたりはしない、ということである。ものを考えない(とデカルトが考える)動物が懐疑思考上は機械だとしても、しかし、動物をむやみに傷つけることはすまいということではあるまいか。デカルトはもしかしたら、生涯、家は建設中で自分は仮家生活と考えていたのかもしれない。 
 
  筆者はデカルトの「良識は平等に配分されている」という彼の前提が年々、脅かされている気がしている。若いエリートからこんな言葉を最近聞いたこともそう思った原因である。 
 
  「大衆は選挙で誰が政治家として優れているかを判断する能力がないので、衆愚政治になってしまう。だからアメリカでも大衆は選挙権を持つべきではなくて一定の有識者だけで選挙をした方がいいと考える人が出てきているんです」 
 
  そもそも選挙を行うのはなぜか。国民全員に主権があるからである。つまり国民全員で法律を作るのが本来の理想なのだが物理的に一堂に会することはできないし、様々な仕事もしないといけないから、政治的見識のある政治の専門家に政治や国会業務を託そうということで選挙制度にしたはずである。ところが主権者が選挙で人を選ぶ能力すらないとすると、そもそもの国民主権というものが脅かされている気がしたのである。つまり、そんなに大衆が愚かなら、(概念上ではあるが)個々人が国を作る社会契約を結ぶこともできないはずなのである。そうなるといずれは国を作るにおいて合意して結んだはずの社会契約が無効になり、各人の各人に対する戦いの時代を迎え、国は解体に向かうだろう。 
 
  ところが、デカルトは良識はみんなに平等に配分されていると「方法序説」の第一行目でうたっているのである。近代の入り口にその言葉が刻まれているのだ。よい政治家を選ぶのも良識の範疇だろうと思われるのである。だから、逆に言えば良識は本当にみんなに分配されているのか、と考える人々が静かにこの世界に増えつつある、ということが、そしてそんな世界になりつつあることが恐ろしいと思えるのである。選挙で政治家を選ぶ能力すら国民にないのなら、9年におよぶ義務教育の意味はどこにあるのだろうか。 
 
 
■「方法序説」(山田弘明訳 ちくま学芸文庫)を参照した。この本は山田氏による訳注が非常に充実していて、訳注自体も読みごたえがある。 
 
  デカルトの同時代人が近代国家を考えた思想家トマス・ホッブズ(Thomas Hobbes 1588-1679)である。ホッブズは英国人だが、ラテン語の達人で、フランスに何度か旅行をしておりデカルトの哲学にも触れている。ホッブズは社会契約論の先駆者となった。 
 
■トマス・ホッブズ著 「リヴァイアサン (国家論)」 〜人殺しはいけないのか?〜 
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