2014年12月20日23時04分掲載  無料記事
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メドヴェジェフ著「チェルノブイリの遺産」(みすず書房)

  チェルノブイリ原発事故を調査検証したメドヴェジェフ著「チェルノブイリの遺産」は1990年に出版された古い本だが、今読むと身近な話に思えてくる。当時はチェルノブイリ原発事故は遠い他人事に思えていたのだったが。チェルノブイリ原発事故では炉心溶融の後、爆発し、放射性降下物がウクライナ、白ロシア、ロシアなどを汚染した。 
 
  チェルノブイリ原発事故が起きたのは1986年4月26日。周辺の農民たちにとっては春の作業の季節だった。今、福島第一原発事故を知った上でチェルノブイリの記録をひもとくと、数字の一致に意外な驚きを感じた。30キロ圏とか、80キロ圏という避難エリアの数字である。この一致はなんだろうか。以下は同書「農業への影響」から。 
 
  「1986年5月2日、チェルノブイリを中心に30キロ圏が設定されたが、それまでこの地域では線量計による精密測定が一度もなされなかった。二度目のメルトダウンの結果、原子炉から大量の放射線核種の放出が始まったが、30キロ圏が設定された時点では、半径が30キロもあれば安全のためには十分だろうと思われていた。この地域では、農作業はすべて中止になり、避難命令を受けた農民は家畜とともに避難するよう指示された。5月5日から6日にかけて完了した第一波の避難では、73ヵ村の住民が避難させられた。避難民の大部分は、それぞれ出身の共和国内(ウクライナか白ロシア)で、30キロ圏に近い村に再定住させられた。そうした村落を管轄する農業行政機関は、避難世帯を受け入れる任務を与えられた。避難した農民は、自宅で飼っていたペットは置き去りにしたものの、牛、豚、羊や馬は連れて避難していた。したがって、30キロ圏内にあった畑、牧草地、菜園や果樹園(約7万ヘクタール)は、いうまでもなく失ってしまったことになる。」 
 
  日刊ベリタ編集長の大野は被災地の農民達の様子を取材するために福島に行った。福島の農民たちは県の指示で田んぼも畑も耕せない状態が続いているという(*この原稿は2011年に書かれた)。ロシアの場合、農民達は家畜を連れて30キロ圏外まで最初は移住したと書かれている。 
 
  メドヴェージェフの文章はさらに続く。テレビでは安全を強調する番組が放映されたが、真相は30キロ圏外でも安全ではなかったことがわかってくる。 
 
  「30キロ圏外やその周辺地域では、集団、国営両農場の農民とも、春の耕作と種蒔きを例年どおり実施するよう指示されていた。そして、牧草地ではまるでなにもなかったかのように作業が進められていた。ソ連のテレビは、30キロ圏外の地域では、すべてが安全で農作業が平常どおり行われていることを、一般大衆に納得させるため、ホイニキとブラーギン地区(30キロ圏の北と北西方向)での農作業を特別番組で放映していた。番組では、このニ地区でのミルクの生産は支障を来たしていないと報じられていた。このニ地区の中心の町であるホイニキとブラーギンでは、大規模な汚染除去作業が行われているというのに、これらの町とその周辺の村の農場では、ふだんと変わりなく農作業が行われていたのである。」 
 
  しかしその後、さらに避難区域が拡大し、方角によっては80キロ圏まで拡大される。この原発から80キロ圏は東日本大震災の後にアメリカ政府が自国民に対して避難勧告を出したエリアである。 
 
  「6月になると、30キロ圏外での地表面での汚染が正確に測定されるようになった。これらの測定値に基づいて予想される放射線量が算定され、チェルノブイリ原発の西、北そして北西方向にそれぞれ80キロも離れた、白ロシア、ウクライナ両共和国に位置するさらに13ヵ村から住民を避難させることが決まった。その結果、住民が避難した居住地の数は合計186(2つの町と184ヵ村)となった。これによって、総農地面積で合計10−15万ヘクタールの農地が放棄されたことになる。」 
 
  チェルノブイリ事故の場合、経済的損失をもろに受けたのは農業だったと書かれている。 
 
  「放射性ヨウ素と放射性セシウムによって汚染されたポーランド、ハンガリー、オーストリアそしてスウェーデンでは、大量のミルクが廃棄処分にされた。4月末と5月には、葉菜類も大量にギリシア、イタリアそしてフランスといったように、ソ連から遠く離れた国でも廃棄処分にされた。それに欧州共同体も東欧からの農産物の輸入を数ヶ月にわたって禁止し、東欧のすべての国に深刻な財政的打撃を与えた。チェルノブイリ事故によりもっとも長期にわたる放射性降下物の影響を受けたのは、スウェーデンのトナカイの肉と英国、スウェーデン、西独、東欧諸国の数地域の子羊の肉であった。」 
 
■ジョレス・メドヴェジェフ(Zhores A.Medvedev 1925−) 
 
  「チェルノブイリの遺産」の巻末の「著者略歴」のよると、ソ連のトビリシ生まれの科学者である。ソ連科学アカデミー植物生理学研究所を卒業した後、オブニンスク放射線医学研究所分子放射線研究室長などをつとめ、1973年に講演のために訪英中、ソ連の市民権を剥奪されている。その後、英国に留まり、英国国立医学研究所で研究員を勤めた。チェルノブイリ事故の後、英国のBBCからインタビューを受けている。「ウラルの核惨事」や「ソ連における科学と政治」など多数の著書がある。 


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