2015年01月02日14時23分掲載  無料記事
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中国

香港、最後の占拠(オキュパイ)の夜、座り込んだ人びと々の思いは

 香港のオキュパイ運動は、香港市民、そこに座り込んだ人たちに何を残したのか、これから何が始まるのか、この運動の意味を問い直す作業が始まっている。多くの人がさまざまな形で自身の思いを伝える作業も始まっている。以下は、香港紙「明報」2014年12月21日の日曜版に掲載された中文大学政治行政学部講師の周保松さんの、金鐘オキュパイ最後の座り込みに参加した体験記である。周保松さんは良識あるリベラリストとしてこの運動に参加した思いをたんたんと綴っていて感動的ですらある。ATTAC−Japanの稲垣豊さんの翻訳で紹介する。(大野和興) 
 
原文および写真はすでに「明報」のウェブ読者のみしか閲覧できなくなっているようですが、文章と写真をそのまま掲載しているブログがあったので、そちらを紹介しておきます。(翻訳者) 
 
http://campoinfo.com/blogs/index.php/archives/303 
 
「上・中・下」の連載のようですが長いので「上」のみ。 
 
以下、翻訳です。 
 
 
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抵抗者の言 
 
 私は2014年12月11日午後5時1分に金鐘(アドミラリティ)夏愨道(ハーコート・ロード)で正式に香港警察に逮捕された。容疑は「違法集会」と「公務執行妨害」であり、これは私が市民的不服従を選択したことで引き受けた刑事罰である。私の人生プランにおいて、こんなことになろうとは考えたこともなかった。このような一歩を踏み出したことで、今後の人生においてどのような影響がでるのかは、いまのところ予測はできない。だが記憶と感覚が残っているうちに、自らの経験と思うところを書き記し、歴史の記録としたい。 
 
 私が、学生連合会の呼びかけに応えて警察の強制排除の際に逮捕されるまで非暴力で座り込むことを決めたのは、12月10日の夜8時過ぎのことだ。その時、私は干諾道(コンノート・ロード)にある人通りの多い陸橋の中央分離帯の上で、薄赤くなった空を眺めながらそっと寝ころんで、小一時間ほど経過していた。その時すでにはっきりと決意は固まっていたが、思わずそのまま寝入ってしまった。眠りから覚めると、若い女性が通りにしゃがみ込んで、「天下太平」の大きなアートを描いていた。描かれた人々は一人一人、黄色い雨傘をさしている。わたしも急に思いつき、落ちていたチョークを拾って、誰もいない所をさがして「悲観する理由はない、こうする以外にない」の二行の文字を書き記した。高いところから、眼下にある自習室を眺めるとまだ明かりがともっていた。そしてあちらこちらで立ち去りがたい人々の影が見えた。最後の夜だということを、私は理解した。 
 
 家に帰ると真夜中になっていた。私は妻に自分の考えを伝えた。妻との議論で私はなんども最後にこう言うしかなかった。「こうしないわけにはいかないんだよ」と。妻は私の決意が固いことを知り、不承不承こう言った。「明日の朝、寝坊して、起きたときにはすべてが終わっていたらいいのに」。朝8時半に目がさめたとき、ちょうど3歳の娘が保育園に行くところだった。私は娘を抱いて「パパは今晩は一緒にご飯を食べられないんだ、ごめんね」と伝えた。そして妻には、子どもの心に悪影響を及ぼすかもしれないので本当のことは伝えないようにと頼んだ。というのも、このところ、娘はテレビで警察が出てくると「警察が捕まえにきたよー」と恐怖心が入り混じる大声で叫ぶようになっていたからだ。 
 
 金鐘に戻ってきたときには、午前10時近くになっていた。地下鉄の駅を出ると、太陽は同じように差していたが、世界はすでに同じではなかった。夏*村はすでに狼藉の後で、レノン・ウォールに貼られていた幾千幾万の願いを書いたカードはすべて撤去されており、「We are Dreamers」の文字だけがさびしく壁に残されていた。(ジョンレノンの「イマジン」の歌詞に出てくる:訳注)「失望しても絶望はしない」と書かれていたところにはいまは何もなく、「初心は愛」という大きな文字だけが残されている。文字の色は白く、用紙は黒く、そして壁は灰色だった。9月28日、わたしはこの壁のすぐそばで、傘をさして無数の市民らと一緒に、最初の催涙弾の洗礼を受けた。その時には、まさかそれが香港の歴史の転換点になるとは思ってもいなかった。さらには、その75日後には中文大学政治行政学部のトレーナーを着て、無数の市民らと一緒に満員電車に乗車し、金鐘の駅で降りて、彼らは出勤し、私は逮捕されに行くことになろうとは思ってもいなかった。 
 
 レノン・ウォールの前にしばらく黙して立ちすくんでいると、陽の光に照らされて、Johnson(楊政賢)とEason(鍾耀華)が手をつないでこちらにやってくるのが遠くに見えた。二人はともに中文大学政治行政学部の学生で、中文大学の元学生会長だ。Johnsonは民間人権陣線の呼びかけ人の一人でもある。Easonは学生連合会の執行部書記で、政府との対話に参加した5人の学生代表の一人。のちの強制排除のときには、Easonは最初に逮捕され、Johnsonは最後に逮捕された。私たちは多くを語るわけでもなく、「We will be Back」の横断幕のところで一緒に写真を撮り、夏愨道と添美道(ティムメイ・アベニュー)の方へと一緒に向かった。そこでは、不服従の市民らが座り込んで最期の時を待っていた。 
 
◆政府は「権威」から「権力」に堕落した 
 
 しかしついてみたら、その場にいる人はかなり少ないことがわかった。座り込んでいる人も200人ほどしかおらず、周囲にいる記者や観衆よりもかなり少ない。さらに意外だったのは、多くの民主派の議員らもそこにいたことだ。また李柱銘(マーティン・リー、元民主党党首)、黎智英(アップルデイリー会長)、余若薇(公民党主席)、楊森(元民主党党首)などもいた。これは私が昨晩想定していたものとはかなり違っていた。わたしはもっと多くの若者がこの場に残るのではないかと考えていた。だからといって失望しているわけではない。むしろ幸いだったとひそかに思っている。というのも、これまで若者たちは多くの代償を払ってきており、これ以上の苦難を味わう必要はないと思っていたからだ。 
 
 だがもっと深い理由を考えると、この二か月余りの経験の中で、若い世代の市民的不服従に対する理解が根本的に変化したのではないか、と私は考えている。ルソーの「社会契約論」に絡めていえば、香港政府はすでに「権威」(authority)から「権力」(power)へ堕落する過程に深く入り込んでいるということだ。正当性のない権力は、せいぜいのところ人々を恐怖で屈伏させるだけにすぎず、政治的な義務感を生じさせることはできない。そして市民が服従する義務を感じなければ、市民的不服従においてもっとも核心的な「法律に忠実に従う」という道徳的拘束力を大いに損ねることになるからだ。 
 
 そう考えれば、香港政府の支配の正当性の危機は、今回の運動を経たことで根本的に変化した。それまでの危機は、権力が人民の投票によって権限を与えられたものでないというところに原因があったが、にもかかわらず、人々はそれでも条件付きでそれを受け入れてきたが、それは権力機構がかなりの程度みずから抑制し、手続き上の公正さと専門家倫理という一連の基本的な要求をクリアしていたからでもある。しかし現在の危機は、権力がなんら制約を受けることがないという態度で恣意的に公権力を乱用し、それが権力の正統性のさらなる喪失を導いた。その必然的結果は広範な政治的不服従である。 
 
 当初わたしは後方に座っていたが、しばらくして学生とともにいるために座り込んでいるのだから、学生たちのいるところのほうがいいだろう、ということで前から二列目の一番右側に座り込んだ。わたしの隣にはmenaという若い女性が座っていた。彼女は学生だと思っていたが、聞いてみると社会人だという。10月から学生連合会の手伝いをしているといい、数多くいたボランティアのなかで唯一、最後の座り込みに参加していた。なぜこのような選択をしたのかを聞いてみた。彼女は、こうすることが正しいと思ったからだと答えた。ご両親は知っているの?とさらに聞いてみた。彼女はちょっと笑って、今朝一時間かけて母親を説得したと答えた。私と同じ列には、周博賢(シンガーソングライター)、何芝君(元理工大学教員、フェミニスト)、何韻詩(デニス・ホー、歌手・女優)、羅冠聡(嶺南大学学生会事務局長、大学生連合会中執)らがいた。さらに遠くには以前学生だった黄永志と中文大学で同級生だった蒙兆達と譚駿賢がいた。私の後ろには、韓連山(道徳教育反対のハンストなどで著名な元教員の政治家)、毛孟静(民主派の公明党議員)、李柱銘(マーティン・リー、民主党創設者)、李永達(元民主党党首)などが座っていた。しばらくして、今日の座り込みには、政党やNGOのメンバーが多く、私のような「独立人士」は多くないようだ。 
 
◆なぜ「こうせずにはいられなかった」のか 
 
 警察が障害物を排除する速度が遅かったことから、数時間の余裕ができた。私たちはその場に座り込んで、警察が一度、また一度と座り込みを続ける人々にすぐにその場から立ち去るように警告する放送を聞いていた。そしてオキュパイ地区は徐々に封鎖されていった。しかし現場の雰囲気は緊張したものではなく、みんなは必ず起こるであろう、そしてどのように起ころうとしているかが分かっている事柄にも、それほどの憂慮や恐怖もなかった。わたしは内心は平静だったが、ときどき座り疲れて立ち上がって、密集した記者、それほど遠くない所で警戒にあたっている警官、立体交差道の上から見下ろしている観衆を見渡し、疲労の表情を見せる学生たちを見下ろした時には、いくばかの困惑と心の痛みを感じずにはいられなかった。どうして我々はここにいるのか? どうして彼らはここにいないのか?どうして我々の「こうせずにはいられなかった」が、他の人にとってはそうではなかったのか?香港のこの街は、本当にわれわれが代償を払うほどの価値があるのか? 
 
 私は次のことを認めなければならない。警察が逮捕行動を始めたときに私の脳裏には、私は立ち上がってその場を離れれば、私は「彼ら」にならずに済み、地下鉄で学校に戻り、安穏とした生活に戻ることができるだろう、という思いが本当によぎったということを。いま私が負わなければならない責任の一切は、そもそも私の世界に属するものではなく、私自身もだれに対してもなんの約束をしたわけでもないのに、なぜここに座りづづけなければならないのか。私は自分に問うた。 
 
 これは実はこの二ヶ月間、私がずっと考えていた問題であった。私は、結局のところどのような原因でこれほど多くの若者が立ち上がり、抵抗の道に繰り出したのか、そして巨大な個人的な代償を払うことをよしとするのかを知りたいと考えていた。もちろん誰かから示唆されたり、個人的利益ためではないことはあたりまえだ。鄭[火韋]と袁[王韋]煕によるオキュパイ参加者に対する代表的な調査(11月29日「明報」)では、運動に参加した人々の中で一番多かったのは、教育水準も高く収入もそこそこあるホワイトカラーと専門職(55%以上)であった。常識でいえば、これらの人々はゲーム理論における既得権益者であることから、個人のことだけを考えるのであれば、これらの人々がそのような行動を理由はない。かれらが立ち上がった主要な理由は、「本当の普通選挙がほしい」(87%)、すなわち自由平等な市民が彼ら自身の政治的権利を行使したいということだった。 
 
◆最も深い政治的覚醒:権利と尊厳 
 
 しかし民主主義が彼らにとっていかに重要なのか?それに対して、民主主義はよりよい経済生活あるいは社会的上昇のチャンスなど、かれらにその他のメリットをもたらすからだという人も少なくない。もしそうであるなら民主主義は役割的な価値しかないことになることから、このような説明にはあまり説得力がないように思える。それよりも抗議に参加する人々は、こう答えるだろうと信じている。つまり、民主主義制度によってのみ人々は平等に尊重され、人としての人生に尊厳がもたらされるからだ、と。しかしそれは尊重と尊厳が、抽象的で理想的な中産階級の「ポスト物質主義」の追求だと言いたいのではない。絶対にそうではない。人々はまさに具体的な政治と経済の生活の中で、自らに降りかかる制度の不公正と不自由を本当に感じているからこそ、平等な尊厳の尊さを徐々に経験しつつあるということなのだ。 
 
 だから、これらの価値観が人々の行動の理由になるのは、これらの価値観がとっくにある種の方法によって彼らの生命に深く浸透し、それが自分自身と不可分の一部になっていると感じているからであると、私は考えている。こうしてのみ、他人が経済的利益を用いて彼らの政治的権利を持ち去ってしまうことに同意しないのである。そしてまたこうしてのみ、彼らが有するべきと考える政治的権利が粗暴に剥奪されようとするときに、自らの尊厳が深く傷つけられたと考えるようになるのである。そしてこれによって、今回の雨傘運動のなかで青年が最も深く政治的に覚醒したのではないか。支配者と多くの大人たちにとっては、理解できない世界なのかもしれないし、人には経済人だけでなく道徳人も存在するということ、そして人はパンだけでなく権利と尊厳が必要だということを理解できないだろう。新しい世代は、自分と生まれ育ったこの街を古い価値的規範で理解したくないのである。観念が変化するとき、行動もそれに伴い変化し、新しい主体が形成される。このような政治的自我の表現と実践に対して有効な回答ができない制度は、大きな挑戦を受けることになる。この過程がどれほ 
どの苦痛を経て、どれほどの代償を受けるのかは、われわれすべて――とくに支配者――が真剣に考えなければならない問題なのである! 
 
◆内心の信念に対する約束 
 
 まさにこれらの問題への回答を見出そうと、私は当日、カバンの中に衣類と水、そしてクリスティーン・コースガードの『規範性の源泉』を入れていた。座り込んでいるときに、ロンドン・レービュー・オブ・ブックスの記者が興味を持って、何の本を読んでいるのかと聞いてきた。わたしたちは、喧噪のなかで、道徳と身分について話をした。「独立媒体」の記者も私のところへやってきて、なぜ座り込んでいるのかを聞いてきた。私はちょっと考えて、自分の人格を成就させるためだと答えた。もしある重要な時に、深慮熟考ののちにもある種の価値観を堅持したいと思うのであれば、それはその価値が極めて重要なものであり、それはその人の人格の一部となっていると、私は思う。このような価値観を守るためには大きな代償を払わなければならないかもしれないが、それは確実に自我を成就させる。このような成就は、他の誰かに対しての約束ではなく、自分の内心に対する約束である。 
 
 今回の運動のなかで、真剣な参加者はみんな、このような覚醒と内省を経験し、最後に自分が正しいと思う道徳的選択を行ったと、私は信じている。それゆえ、巨視的には、怒涛のように盛んな気勢は容易に観察できるが、一人一人の真実の個々人がどのようにそのなかで真実かつ着実に自分自身の信念に生きたのかを観察することはできない。排除の直前に、私は何度も立ち上がって、座り込んでいた一人一人の表情を凝視した。特に深い印象を受けた表情の3人を紹介したい。 
 
 區龍宇。退職教員。一貫して労働者の権利に関心を持ち続け、清廉で、好く書をたしなみ、その人となりは闊達正直。初対面は19年前のイギリスで、自由主義とマルクス主義について二日二晩激論を交わした。今回の運動には最初から全身全霊を投入し、フェイスブックで若者たちと自由に議論を交わし、オキュパイ各地区でなすべきことをなすなど、一般的な「60年代生まれ」のイメージとは全く異なる(実際は56年生まれ:訳注)。当日、彼は私と握手をしながらこういった。「私はもう若くないからどうってことはないが、あなたはまだ若いのでまだまだやるべきことがあるはずだ。ここに残るかどうか、しっかりと考える必要があるよ」。 
 
 周豁然。中文大学人類学科の学生。その人となりは「豁然」の名前の通り悠然とし、田畑を耕すを好み、エコロジーに関心を寄せる中文大学農業開発チームの中心メンバーで、土地正義連盟の様々な行動にも身を投じてきた。6月20日の反東北開発集会で初めて逮捕された。7月2日早朝、チャーター通りで彼女が再度警察に連行されるのを私はこの眼で見た(オキュパイ予行演習として500人以上が座り込んで逮捕された事件:訳注)。9月28日(催涙弾が打ち込まれた日:訳注)、彼女はデモの最前線にいた。後日、彼女は私に、その日は防護用のゴーグルも雨傘も持たないことにして、警察のペッパースプレーと催涙弾に対峙したと話した。座り込みの当日、彼女は朱凱迪や葉寶琳らと最後列に座り込んでいた。私は彼女に近づいてそっと、二回も捕まっているのだから、今回はその必要はないのでは、とささやいた。彼女はちょっと笑っただけだった。 
 
 朝雲。市民記者。痩せこけて顔面蒼白。目の奥には憂いを宿している。オキュパイ運動が始まってからは、仕事を辞めて、この運動のすべての過程に参加した。将来、人びとがこの運動を振り返る際に、もし朝雲が撮った写真や記録した文章がなかったら、我々がこの運動に抱く認識は全く違ったものになっていただろうと思うかもしれない。朝雲は記録者としてだけでなく、オキュパイの予行演習(7月2日)でも逮捕された。旺角オキュパイの強制排除(11月25日、26日)でも逮捕された。ここ金鐘の排除の際にも最後まで座り込み続け、最後のシャッターを押してからカメラを知人に託して逮捕された。そして銅鑼湾での排除(12月15日、最後のオキュパイ拠点)でも逮捕された。当日は彼と話す機会はなかった。私たちの間は座り込む人々が隔てており、お互いに眺めあい、目が合うと互いに微笑みあい、そして別れを告げた。 
 
 これらの友たちと一緒だったことが、わが人生、最高の幸せだ。 
君たちに感謝する。 
 
「明報」2014年12月21日(日曜版)掲載 


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