2015年09月11日03時41分掲載  無料記事
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コラム

私もフランスで生きてきた 〜学生時代にチュニジアからフランスに渡り医師として生きてきた人の思い出〜

   私は1961年にチュニジアのビゼルトという町で生まれました。チュニジアは1956年に独立を果たしていましたが、1963年まで未だフランスの保護国という地位にありました。私は比較的裕福な家に生まれました。父は弁護士です。チュニジアでももっとも古い弁護士の一人に入ります。 
 
   3歳のとき、私の両親は私をビゼルトの小学校に通わせる手続きをしました。カトリック修道女たちによる学校です。私はそこで一生懸命勉強した結果、6年生の時、試験でよい成績をあげることができ、進学する道が訪れました。その後、やはりビゼルトにあるステファン・ピションというフランスが設立した高校に通いました。元パリ市長のベルトラン・ドラノエ氏もこの学校を卒業しています。 
 
  ビゼルトの当時の生活はとても楽しいものでした。何年もの間、フランス人もチュニジア人と混ざってともに暮らしていたのです。そこではイスラム教徒も、ユダヤ人も、フランス人もともに協力して暮らしていました。皆、交流し、一緒に遊び、それぞれの習慣や衣装を尊重し合っていました。フランス人はビゼルトにたくさん暮らしていたのです。 
 
  しかし、2つの事件がその親和的な日々を壊すことになりました。1つは1961年7月19日から22日まで続いた戦争です。これはチュニジアの指導者だったブルギバ大統領がビゼルトのフランス海軍基地の返還を求め、返還を拒むフランスのドゴール大統領と衝突してしまったことが原因でした。 
 
  この1961年の事件はビゼルトの街を変えてしまいました。多くのフランス人が去っていったのです。1963年のフランス基地の撤去まで残っていたフランス人も多少いました。しかし、多くのフランス市民がすぐに引き上げて行ったのです。 
 
  もう一つの事件は1967年の第三次中東戦争でした。このとき、ユダヤ人と多くのフランス人がビゼルトをあとにしました。 
 
  しかし、フランス人の文化的影響はその後も続きました。ビゼルト市民にはフランス文化が浸透していたのです。サッカーのビゼルトチームの歌もフランス語で歌われています。 
 
  歌はこんな調子です。 
  「君が僕を幸せにしたいなら、ビゼルトチームよ、頑張ってくれ!」 
 
  ビゼルトで撮影された映画もあります。「大きなカーニバル」という映画です。 
 
  私はビゼルトの絵葉書や資料のコレクターです。ビゼルトに関する最良のコレクターになりたいです。すでに集めた絵葉書は500枚以上になります。 
 
  70年代には日常生活の中でイスラム教の色が濃くなってきましたが、それでも、宗教に特段に束縛されているとは感じていませんでした。 
 
  街のレストランでもアルコールが供されていました。私の住まいの下には2件のバーが営業していました。リドとセレクトです。フランス人とビゼルトの富裕層がよく訪れていました。その建物で私は育ち、私の両親や兄弟姉妹は今も暮らしています。私たちは宗教よりも、伝統のもとに生きていました。 
 
  聖なるラマダンの月にはあたりは神聖な空気に包まれました。しかし、カフェや菓子店はオープンしていました。人々も誰が断食して、誰がしていないかをチェックなどはしていませんでした。 
 
 
寄稿 ラディ・ベルカイア(Radhi Belkahia) 
  学生時代にチュニジアからフランスに渡り、医学を修める。フランスで麻酔医として活躍。現在、フランス地方都市に在住。 
 
翻訳 村上良太 
 
※ビゼルト チュニジア北部の地中海に面した都市。シチリア島やサルデーニャ島までおよそ200キロ。 
  「地中海の軍事的要所にあるため、フランスはビゼルトに海軍基地をおいておきたかった。1956年のチュニジア独立後、フランスがビゼルトを管理下においたままであったのはそのためであった。しかし1961年、ビゼルトはチュニジア陸海両軍の攻撃を受けた。フランスは7,000人の落下傘兵と3隻の軍艦を送り込んだ。3日間の戦闘の結果、チュニジア側は700人の死亡者、1,200人の負傷者を出したのに対し、フランス側は24人の死亡者と100人の負傷者を出した。フランス軍がとうとうビゼルトを明け渡したのは、1963年10月15日だった」(ウィキペディア) 
 
※ブルギバ(1903- 2000)チュニジアの初代大統領。 
 「1956年3月20日、チュニジアはチュニスのベイ(太守)を君主とする立憲王国(チュニジア王国)として独立し、3月25日の選挙で新憲政党を中心にして結成された民族戦線が圧勝。ブルギーバは初代首相となった。1957年、封建的な国王を廃し、自ら初代大統領に就任」(ウィキペディア) 
 
※ベルトラン・ドラノエ(1950- ) 
  チュニジアの首都チュニス出身のフランスの政治家。社会党所属。元パリ市長。ゲイであることをカミングアウトしたことでも有名。13歳の時、ビゼルト基地の閉鎖で仕事を失った家族は破綻した。母イヴォンヌは息子を連れてフランス南部アヴェロン県のロデーズに移住した。(ウィキペディア参照) 
 
  Je suis né en 1961 à Bizerte en Tunisie , ville qui est resté sous protectorat français jusqu'en 1963 alors que la Tunisie avait obtenue sin indépendance en 1956 
 
  Je suis né dans une famille relativement aisé financierement . Mon pere etait avocat ( un des plus anciens avocats de Tunisie) 
 
  A l'âge de 3 ans, mes parents m'ont inscrit dans une ecole primaire à BizerteEcole dirigé par les soeurs catholiques . 
 
  J'y ai suivi toutes les études primaires, sanctionné par un examen en fin de 6eme année primaire que j'ai brillamment reussi 
 
  J'ai poursuivi mon cursus au Lycee francais de Stephen Pichon à Bizerte C'est le meme lycee qu'a frequenté Bertrand Delanoë ( ancien maire de Paris, bizertin comme moi) 
 
  La vie a Bizerte etait a l'epoque tres agreable, nous etions melangé ;francais vivant en tunisie depuis plusieurs annees, francais en cooperation, tunisiens musulmans et juifs tunisiens 
 
  On se frequentait. On jouait ensemble, et on respectait tous les habitudes et coutumes des autres Beaucoup de francais vivait à Bizerte 
 
  Deux événements majeurs changèrent la quiétude de Bizerte. La guerre qui dura du 19 juillet 1961 au 22 juillet 1961, guerre d'ego entre Bourguiba qui voulait recuperer Bizerte et DeGaulle qui ne voulait pas ceder au chantage 
 
  Ces evenements de 1961 , ont changé le visage de Bizerte, beaucoup de francais quittèrent Bizerte , certains sont restes jusqu'en 1963 ( 15 oct) evacuation de Bizerte, mais la majorite des francais civiles sont partis 
 
  L'autre evenement majeur c'etait la guerre arabo israelienne de 1967.Les juifs de bizerte et aussi beaucoup de francais quitterent Bizerte 
 
 
Mais l'influence francaise resta car les bizertins etaient impregnes de culture francaise Meme les chansons des supporters de l'equipe de foot de bizerte ( CAB) se font en Francais 
 
On chantait: " Si tu veux , faire men bonheur, Bizerte .,, Bizerte! Si Tu veux faire mon bonheur : Allez Bizerte ... Allez Bizerte ! 
 
Il y a un film qui a ete tourné entierement à Bizerte Le grand carnival. 
 
Je suis un collectionneur de cartes postales et de documents sur Bizerte.Je dois posseder la plus belle collection qui existe sur Bizerte.J'ai plus de 500 cartes postales. 
 
A l'époque dans les années 70, le poids de la religion etait important dans le quotidien, mais on ne ressentait aucune contrainte. 
 
Chacun etait libre de pratiquer ou non.Il y avait plusieurs bars qui servaient de l'alcool Les restaurants de la ville servaient presque tous de l'alcool.Mon immeuble en ville etait situe juste au dessus de 2 bars cafes.Le Lido et le Select 
 
Ils etaient frequentes par la communaute francaise et par la bourgoisie bizertine.C'est mon immeuble où j'ai grandi et où mes parents et mes freres et soeurs vivent encore 
 
Nous etions plus impregnes de traditions que de religions.Durant le mois saint du ramadan, l'ambiance devenait un peu plus spirituelle.Mais les cafes, et les patisseries restaient ouverts Et les gens ne s'occupaient pas de savoir qui jeûne et qui ne jeûne pas 
 
Radhi Belkahia 


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