2015年10月23日13時40分掲載  無料記事
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沖縄/日米安保

沖縄「誇りある豊かさ」へ(下) 非武の文化 仲西美佐子(沖縄・恩納村、百姓)

 沖縄には、戦いや競争を好まない文化がある。その根底には「ウナイガミ(姉妹が兄弟の守り神)」「ニライカナイ(水平線の彼方に豊穣の国がある)」「来訪神(遠い所から幸せを携えて訪れる)」などへの信仰がある。スピードや破壊力に勝る男が女を守るのではなく、柔軟で忍耐強い女が守り神であることが、最近まで実感されていた。「美しい風景」を形成した伝統的な暮らし方が、どんな問題でも、時間をかければ力づくで解決する必要がないという「非武の文化」を生み出したのだと思う。 
 
(2) 非武の文化 
 
 沖縄は、ずっと昔から戦いのない国だったとは思わない。すべてのグスクが居城だったとは思わないが、中城城や勝連城など多くのグスクはきわめて堅固で、聖地機能だけではないことが明らかだ。中城城跡から発見されたヒヤー(鉄砲?)の弾を見ると、沖縄では日本の戦国時代より前に長期にわたる戦乱の時代があったことを想定できる。その戦乱を潜り抜け、安定した時代になったとき、沖縄の置かれている地理的・社会的状況などから、どんなにあがいても武力による外交では太刀打ちできないことを悟ったともいえるし、もともと身に付けていた「力づくで解決しようとするとロクなことにならない」という基本原則に復帰したともいえるだろう。 
 
◆女性の地位 
 
 女性の社会的地位が高かったことは佐喜真興英の「女人政治考」が有名である。聞得大君を頂点に地方までも政治的組織が整っていた。地方のノロにも王府からの辞令書があり、役地からの収入もあった。 
 
 兄弟に対して姉妹はウナイ神(姉妹は守り神)と思われていた。聞得大君による新王慶賀を受けられず退位した尚宣威をみれば、王といえども聞得大君の加護がなければ安泰ではなかったと思われる。旅に出る場合もお守りにウミナイティサジ(御姉妹の手拭)を持ち、無事を祈るのは姉妹であった。 
 
 言葉の表現でも男女の場合は女が先にくる。兄弟姉妹ではなくウナイウイキー(姉妹兄弟)、夫婦ではなくミートゥンダ(女夫)。男が結婚することを「トゥジトゥメーイン(妻を探す)」、女が結婚することを「ムチヤータチヤー(家を所有する。分家する)」と表現する。 
 
 女性の社会的地位が高いのは、男性と同等あるいはそれ以上に、資源管理にも人間関係にも地域社会の中で認められていたからである。資源管理は、長期的な視点から安定した食料調達を目的とし、人間関係は、家族を超えて家事・育児・介護を支えあう中で蓄積された。このようにして沖縄の女性は、競争や力づくで問題を解決する必要がないという生活感覚を身に付けた。そのような女性が優位の社会ならば、必然的に「非武の文化」が育つことになるだろう。 
 
◆ニライカナイと来訪神 
 
 海の彼方に豊穣の国を想像し、来訪者は恵みをもたらすという考え方が、難破船の救出に向かわせたと思う。たとえば一八七五年宮古島海岸で難破したドイツ船を救出するなど、琉球国の人命救助活動ほど、対外的信頼関係を築き、戦いの回避につながった例はないだろう。琉球国は国造りから外交にいたるまで、問題解決を武力に頼らないということが、長い歴史の中で積み重ねられて、非武の文化を作り上げたと思う。救助できなかった人々の墓が沖縄の各地に残り、本国へ送り届けられた人の記録もある。他国からの侵略に怯えることなく、人命救助によって国際的な信頼関係を築いてきた誇り高き祖先に感謝したい。 
 
◆万国津梁の鐘と守禮乃邦 
 
 一四五八年に造った万国津梁の鐘に刻まれた文「琉球王国は南海の勝地にして、三韓の秀をあつめ、大明をもって輔車となし、日域をもって唇歯となす。この二中間にありて湧出せる蓬莱の島なり。」(万国津梁の鐘)とあり、琉球の地理的優位を活かし、三韓、日、明との交易による豊かな国を目指したと思う。 
 
 また、一五七九年に明から尚永王が冊封を受けたときの「琉球は守禮の邦と称するに足りる」との詔勅から『守禮乃邦』という扁額を守礼門に掲げるようになる。琉球=守礼の邦は、薩摩の武力による侵略を受けた後や、日清両属の時代の中でも、扁額を掲げ続けることで、平和の国としての誇りを失うことはなかった。そのことは、明治政府に「兵を置かず礼節によって国を存続させてきた」からとの理由を明言して、軍隊を駐屯させないように懇願したことにもうかがえる。(明治政府に対する「琉球処分方之儀伺」) 
 
◆緑による開闢神話 
 
 一七世紀初期の袋中尚人による民俗事象の収録にも、武力ではなくアダンやススキなどの緑を国造りの中心に据えていたことが見える。「この島はまだ小さくて、波に漂っていた。そこで、ダシカ(シマミサオノキ)という木を現して、それが繁茂して山の形を作った。次にシュキ(ススキ)という草を植え繁茂させ、また亜檀(アダン)という木を植えて、ようやく国の形とした」(原田禹雄訳琉球神道記)。 
 
 このように緑による国造りというすばらしい開闢神話を持つ国が他にあるだろうか。日本の開闢神話は「ゆらゆらと固まりのない状態にアメノヌボコを差し込んでクルクル回して引き上げると、剣の先からポタポタと滴り落ちたものが本州、四国、九州になった」とあり、武力で国家を創ったことを表している。それに比べると「武器ではなく緑による国造り」を創作した先祖を誇りに思う。 
 
◆これからでも間に合う 
 
 核兵器などで武力を誇示して他国を威嚇し、その問題解決方法として「戦って勝ったほうが正しい」とすることは余りに幼い。軍事力を誇示し他国を威嚇することを「抑止力」と呼んで、あたかも平和と安全の必要条件のようにいうことは「こんなに強い私に文句をいえないだろう」と言っているにすぎない。これは「誇り」ある人間ならできないことで、私は恥ずかしくて仕方がない。実際、尊敬する人を凶器で脅かすような人はいないはずだ。沖縄では「殴るぞ・殺すぞ」という脅し文句でも「殴られるヨ・殺されるヨ」になる。実行する側ではなく受身である。 
 
 新基地反対の辺野古ゲート前で安次富さんは、「政府は民意が示されても海上埋め立てを強行に進めている。沖縄の権利を求める運動は紳士的である。他国だったら銃撃戦や自爆テロになっている」といった。この誇りある自覚が、ウチナンチューの心の奥底に流れているのである。 
 
 また、私の住む地域では終戦後の捕虜収容所から一九四六年に帰村、荒廃した地域で集団生活をしながら復旧計画を自ら立てて実行した。ほぼ全員が参加し建築班と農業班に分かれて個人用の規格住宅を建て、田畑を開発し各戸に人数割りで配分したのがその年の一二月。帰村一年という早い立ち上がりは過去の地割制(数年に一度ほぼ全部の田畑を家族数に応じて配分利用)の記憶と密度の濃い人間関係や資源管理の方法が残っていたからだと思う。このような人間関係の積み重ねや自然との折り合いのつけ方が、他を認め助け合い、武力に頼らない外交へと繋がるのだろう。 
 
 私たちが目先の利益に心を奪われて乱開発に走った現在でも、祖先の暮らし方の集積として、美しい風景が残っている。その暮らしがどのようなものか、まだ記憶の残っている今なら、紡ぎ直せるのではないだろうか。 


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