2016年04月04日18時01分掲載  無料記事
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なぜ、映画「無音の叫び声」を創ったのか 記録映画監督 原村政樹

  このドキュメンタリー映画の制作を思い立ってから5年、そして、2013年2月、撮影を開始して3年、今年(2015年4月)、ようやく長編ドキュメンタリー映画「無音の叫び声」を完成させることができた。紆余曲折、様々な壁に直面しながらも、途中で断念することなく、作品として世に出せるまでになったことで、今までの6本の長編ドキュメンタリ映画の完成時に比べものにならない程、苦労が報われたとの深い想いが去来している。 
 
  映画の冒頭は「芸術は芸術家だけが生み出すのであろうか」という文字で始まる。20代の頃から30年近く、農村の取材、撮影を行ってきた私は今まで数多くの農民と出会ってきた。ただ、農作業をしている姿だけを外側から観ているだけでは決して知ることができない農民の心の奥底に秘めた豊かな精神世界を、長期間かけての対話を行うドキュメンタリーという記録行為によって、その世界に深く分け入ることが出来るようになっていった。そうした農民の懐深い心を描きたい、その一心で長年、農業にこだわった作品創りを続けてきた。 
   何故、都市に暮らす人たちにはあまり感じることの出来ない魅力を農民は持っているのか、長い年月を費やしての映像記録を通してようやく解ってきたことは、大自然と対峙しながら生きている人間、ということであった。自然の恵み、自然の猛威、作物を育てる行為を通じての人知では及ばない複雑で豊饒な自然の存在を日々、身近に実感しながら生きている。 
 
  農民の内的世界を漠然と感じながら、その世界を表現するために、様々な方法を駆使して数々のドキュメンタリー映画やテレビドキュメンタリー番組を制作してきたが、まだまだ表現しきれていないという慙愧の念を払拭することが出来なかった。 
 
  そんな中、とても気になっていたことがあった。それは、今から30年前から取材・撮影を続けてきた山形県高畠町の有機農業リーダーで農民詩人でもある星寛治さんが、20代の頃から、農民文学を志す農村青年たちと、山形を代表する農民詩人・真壁仁の許に集い、農民の文学運動誌「地下水」(1957年創刊)を発行し続けてきたことである。さらに遡れば、無着成恭の山びこ学校をはじめとする生活綴り方運動が戦後、東北の各地で盛んに繰り広げられていた。“もの言わぬ農民”と揶揄された東北農民との認識は一面、正しいであろうが、実は本質を見誤っているのではないか、確かに簡単には心を開いて本音を話さないのが東北農民であるかもしれないが、じっくり腹を割って付き合ううちに、普段は声に出して言わないけれど、心の奥底にとてつもない情念を秘めているのではないか。それが爆発したのが、昭和30年代に東北各地で爆発的に花開いた農村青年たちの生活綴り方運動であったと、私は理解した。 
 
  文章を書くという行為は、当り前のことだが、自己を表現することである。表現するということは、自己の思想を他者に伝えることでもある。将に、農民の胸の奥底に秘めた想いがそこに表出されることになる。それこそ私が映画で最も伝えたいことなのであった。 
 
  農民が文章で表現するという行為の中で共通することは、それぞれの生活(農作業や家族、地域社会での日常)を書いている、ということであった。極寒の冬も、酷暑の夏も、穏やかな春や秋も、人間も含め、すべての生命が息づく大自然の営みの中で、土と汗にまみれながらの日々が根底にあっての表現である。それは素朴な荒削りではあっても、肉体労働とは無縁のプロの作家とは異次元の世界があると私は感じ取ることができた。たとえ、専門の文学研究者から見れば稚拙な表現であろうとも、その文章の背後にある農民の日常の赤裸々な様子が浮かび上がってきて、私には鬼気迫ってくるのだ。 
 
  映画「無音の叫び声」を創ろうと思い到る以前、私は1985年から取材をスタートし、20年余りをかけて2006年に完成させた、高畠町の有機農業の歩みを描く映画「いのち耕す人々」では、冒頭と中盤、そして最後に、星寛治さんの3編の詩を紹介した。この時から、農民詩は私にとって大きなテーマとなっていく。そして星さんを通じて、「地下水」の仲間たちを知った。そのひとりが木村迪夫さんであった。 
木村さんの詩は確かにすばらしい作品の数々であった。客観的に言えば、現代詩人賞、丸山薫賞、日本農民文学賞、土井晩翠賞、斉藤茂吉賞、山形県詩賞、山形県芸術文化会賞、真壁仁・野の文化賞など多数を受賞。そうした評価は私にとってはどうでもいいことであるが、木村さんの詩には今までにない感銘を受けたのは、現実の木村さんの日々を虚飾なく、赤裸々に、リアルに綴られていることであった。決してロマン溢れる優美さはどこにも見当たらず、農民の日々の暮らしの中で感じることをそのまま叩きつける詩の世界は強烈であった。木村さんの人生が眼の前に立ちあがってきた。こうして日本の農民は戦後を生きてきたんだ、と。 
 
  しかも、木村さんの詩は芸術的にも優れていた。単なる生活記録詩ではなかった。木村さんは中学生の頃から野球少年であると共に、文学青年で、中学生の時、将来は島崎藤村の「夜明け前」のような小説を書きたいと言って、クラス仲間から笑われたと話してくれたが、その頃から文学に目覚めていた。そして、定時制高校時代に、無着成恭の山びこ学校の出身者である佐藤藤三郎らと出会い、校内で詩集「雑木林」を創刊する。その第一号に、木村が第二の父親と慕う真壁仁が寄稿した文章に木村は触発される。 
 
  「詩に書かれている生活はありのままの『事実』だけでなくて、それの批評や組立てや、理想に向かわせるものでなければならないと思います。せいかつのくるしさ、つらさを書くことは大切ですが、そのくるしさにすくんでしまってはだめです。くるしさを覚悟しながら、それをたえて生きてゆく力を自らあたえてゆくのが詩だと考えてもよいでしょう。詩をかくことで、自分を観察し、考え、批評してゆくとき、心に余裕ができたことになるでしょう。心がゆたかになったともいえます。生活に徹しながら、それを越えてゆくわけですね」(詩集「雑木林」第一号記載:<詩をかくひとのために ―真壁仁先生の手紙から ―>。 
 
   戦争で父を失った木村は真壁仁を第二の父と心に決め、定時制高校卒業後、「生涯、詩を書いて生きて行こう」、と決心した。そして、それを80歳を間近にした今日まで貫いてきた。私など、映画制作の仕事以外はしたことがなく、確かにドキュメンタリーの仕事は戸外で重い機材とともに駆けずり回る肉体労働だが、それだけで他のことは出来ない不甲斐なさを実感している身として、農作業という重労働を主体に生きながらも、文学という高度な表現活動を永続し続けてきたことに驚きを感じないではいられない。 
 
  はじめて木村さんに出会ったのは、2010年1月、真壁仁・野の文化賞受賞式であった。当時、木村さんはこの賞の委員長で、受賞式の冒頭で挨拶したが、その時の印象が強烈であった。とてつもないオーラを発していたのだ。失礼を省みず書くが、その後、山形県知事の吉村さんの挨拶が色あせて見えた。木村さんという人は一体、どんな農民なのか、心に深く刻まれ、それから半年後、木村さんを自宅に訪ねることにした。 
最寄りのJRかみのやま温泉駅で木村さんは出迎えてくれた。その時、作業服姿の木村さんは、受賞式の時とは全く別人であった。どこにでもいる農家のおじいさん、というより、私が感じたのは、八百屋の親父、といった印象であった。さらに、軽トラで自宅に向かう途中、木村さんは「今日は俺の家に泊まれ」と初対面の私に言う。「宿を取っていますから・・・」と返事をすると、木村さんはすかさず「キャンセルして、俺の家に泊まれ」という。もう何十年も付き合いのある友人に対するような対応がしょっぱなであった。 
  家に着いて、しばらく歓談していたが、奥さんのシゲ子さんに「俺、疲れた。かあちゃん、原村さんの相手をしてくろ」といってその場でごろ寝だ。何だか自分の子どもが遊びに来た時のような雰囲気である。「この人は裏表のない正直な人だな」と直感した。それはその後、映画完成するまでの5年間の付き合いで、変わることのない木村さんの姿であった 詩の文学的レベルも高く、しかも、普通の農民であることがそのままである木村さんを描くことで、ほとんど伝えることの無かった農民の真の姿を描くことが出来るはずだと確信した。 
 
  しかし、それから木村さんとの付き合いは大変であった。映画化を受け入れてくれた木村さんであったが、その後、何度も、辞めたい、との繰り返しであった「俺なんか大した人間じゃないよ。映画になんかならないよ」と事あるごとに中止を示唆するのであった。しかし、それこそ、木村さんの正直な気持ちである。今まで私も含め、農業を描くドキュメンタリー番組は、都会人から見た優れた農家、例えば無農薬実践の有機農家とか、規模拡大した企業的経営農家、といったヒーロー的な農家が主流であった。しかし、日本の農業の8割は第二種兼業農家と言われる小さな農家であり、そうした小さな農家が日本の農業を支えているのだ。そうした小さな農家の声が残念ながらほとんど伝えられていない。それどころか、そうした農家が日本の農業の足を引っ張っていると、都市や財界から常に攻撃され続けてきた。本当にそうなのか?私は農村の取材を通じて、それは間違った考えではないかと思うようになった。 
 
  そうした「ダメな農家」と都市目線から攻撃される小さな農家のことを伝えたい。それは長年の夢であったが、ではどうしたら伝えられるのか、そんな模索の中、木村さんとの出会いがあった。木村さんは戦前、小作農の長男として生まれ、戦後の農地解放で自作農となるが、それでも5反6畝の極めて小さな農家であった。将に、日本の農村の底辺に生きる農家であった。そんな木村さんが、自分が生きた軌跡を詩で書き残していた。農民の深い精神性と同時に、日本の農業を支えてきた小さな農家を伝えるには、これほどの適任はいないではないか! 
家族を支えるため、高度経済成長期には10年もの間、一年の半年間、東京に出稼ぎを続けた。日本の経済成長を根底で支えたのが、農村からの安い労働力を利用した出稼ぎであったことを考えれば、農業問題を越え、日本の戦後を問い直す大きな視点になるはずだ。 
 
  さらに、木村さんは地元で長年、廃棄物収集業(所謂、ゴミ屋)を営みながら兼業農家として生きてきた。木村さんはゴミ収集を通じて、消費文明に奢る日本人に警告を発しようとの意図も持ってゴミ屋を始めた。まさに、戦後の日本社会を村から検証する営みであった。彼の活動は多岐にわたり、原水爆禁止運動、安保反対闘争、農業基本法制定反対闘争、三里塚の成田空港建設反対運動支援、減反反対闘争、文革期の中国訪問などに精力的に動いてきた。 
 
  振り返れば、木村さんは農業を営みながら、詩を綴り、それだけでなく、戦後日本の歪みをひとりの村びとの視線から告発し、抵抗してきた類まれな人間であった。農民であり、詩人であり、社会活動家であった。そんな一見、こわもての人に思えるが、実際は極めてナイーブで、心の優しい、普通の農家である。普通の市民がこれだけの力を発揮できることに感動した。 
 
  さらに、木村さんは父親と叔父をアジア太平洋戦争で徴兵され、戦病死し、戦後、木村家は母親と年老いた祖母、ふたりの女性が一家7人を支えてきた。戦争遺児である木村さんは、戦争で父を失ったことによる悲惨な戦後を敗戦の年、11歳の時から味わってきた。そして、息子を失った祖母の慟哭、若くして夫を戦争で失った母の信じがたい苦難の人生と共に少年時代を生き抜きいてきた。木村さんは自身の生きた軌跡を記録したいと詩を書き続けてきたが、その中に、戦争被害家族が敗戦後、如何に過酷な暮らしを強いられてきたかをも詩に綴り続けてきた。そんな木村さんを人びとは、農民詩人と呼ぶと共に、反戦詩人とも呼ぶ。 
 
  おそらく木村さんが戦後の農業だけを詩で描いてきたとしたら、私は途中で挫折したかもしれない。そうではなくて、木村さんが生涯、戦争の悲惨さを家族の視点から訴え続けてきた生き方を貫いてきたことで、どんなに大きな障害が立ちはだかろうとも、この映画を完成させる、と、自分自身を叱咤激励し続けることができたのだと思う。 
 
  今、集団的自衛権を中心に、おぞましい戦争法案(安倍首相は平和安全保障法案と詭弁を臆面もなく言い放っているが)が動き出そうとしている。めちゃくちゃな憲法解釈は論外だが、大きな議論として、世界の安全保障環境が変わったということで押し通そうとしている。そうした中で、正面切って、もし、戦争になって、自分の夫や子ども、父親が戦地で人を殺し、そして殺され、戦争遺家族となったら、といった議論が今まであまりにも少ないと感じてきた。過去の戦争での家族や個人の被害を伝えるだけでなく、将来、もし、自分の家族の誰かが戦争で命を奪われたら、といったことを、メディアも政治家も真剣に話し合って欲しい。そうした想いが私の中に昔からあった。 
 
  木村さんは将に、父親を戦争で奪われた実際の人生体験をストレートに詩で表現し続け、、また、語り継いできた。木村さんと木村さんの家族の想いは、すべての戦争被害者に通じると思える。実際、今回の映画の取材で、父親が戦死した村びとたちに会い、話を聞くなかで(山形県遺族会の会員)、靖国神社の参拝をするものの、自分の父親を殺した犯罪者である東條英樹以下、A級戦犯が合祀されていることに強い憤りを語ってくれた。 
 
  戦争では、お互い、恨みがない庶民同士が、敵国ということで殺し合う。こんな理不尽なことがあってはならない、と、思わない人がいるだろうか?木村さんは私のインタビューに答え、次のように語ってくれた。 
 
  「「忘れられない、やはり幼児体験、少年体験というのは生涯身体から離れないな。だから今でも戦争状況、日の丸の旗を見ると、涙が流れてしょうがない。今でも。ところが、オリンピックで旗を掲げても感動しないな、全く。だけども戦争の映像やスクリーンで見ると、涙が流れてしょうがないな。 
それと俺はだいぶ年取ってから、戦争の責任は一部の人たちの責任であることは間違いがないんだけども、国民にも責任が無かったかということを父親に問いただしている訳よ。そしてあなたもそういうことでは戦争責任者のひとりでないかということを問いただした。兵士で行って戦死すれば、被害者、被害家族なんですけど、コインの裏表ですけど、加害性もある訳ですねえ。人殺しにいく訳ですから。戦えば必ず血が流れる。それは日本国民だけでなく、相手も血を流す、共に血を流す、これ程悲惨な状況というのは二度と繰り返してはならないと。結局、私は憲法9条を高々と掲げていけば、世界はそれを容認してくれると思うな。なまじっか戦争準備をするような集団自衛権なんかを行使するから、却って危険な状況に陥っていくんじゃないかな。 
 
  例えばドイツが集団的自衛権を行使しているねえ。すでに50名からの戦死者を出しているんではないか。ドイツ国民の中から。必ず血を流すような犠牲者が出てくると。そして俺のような遺家族と呼ばれるような、遺児と呼ばれるような子どもたちがまたしても生まれてくると。これは絶対許してはならないと思っているな。俺や俺の兄弟のような境遇の人をこれからも出してはならないと。 
 
  日本遺族会前会長、古賀誠が親父さんの死んだレイテ島に行ってきたらしいな。何でこんなところで死ななきゃならなかったのかと泣いてきたと。だから古賀誠は自分の父親をそこで亡くす事によって、戦争の悲しみ、痛みを知っているんだけと、安倍晋三は全然解らない、その感覚がな。世界平和のためだ、日本のためだと言っているけど、平和というのは何なのかということを改めてあの人に叩きのめしてやりたいな。憲法9条は絶対に守らなければならないし、前遺族会会長の古賀誠が日本国憲法は世界遺産だと言ったけどね、まさに世界遺産だと思うな。それに対して安倍総理は集団的自衛権なんてねえ、勝手に解釈して、戦争の準備をしているということは、耐え難い怒りだな。戦争を知らない人のやり方だと思っている。安倍晋三という総理は戦争を知らない、戦争の悲惨さを体験した覚えも無いし、知らない人だと。だからこんな事を言える、政策を施されるんだと思ったな。その怒りでいっぱいだ」 
 
  最後に木村さんの詩の中で、多くの人に読み継がれている「祖母のうた」を紹介したい。これは祖母が自分の息子ふたりが戦争で奪われ、戦後、死ぬまで蚕の世話をしながら、ご詠歌の節で自分で作った歌を歌い続けた歌詞を、木村さんが祖母の死を前に病床で聞き書きして作った詩である。 
 
「祖母のうた」 
しゅっせぐんずん(出征軍人)は 
いくさのかどに 
ははつまよんで 
わしのいねあど 
このこたいせつに 
もしもせんそうにでたとのしらせ 
きいたとて 
なくな 
 
なだてなきましょ 
わしもあなたのははじゃもの 
みくにのおんためすすみゆけ 
のこるこのこはいとわねど 
のこるははつま 
みのほまれ 
 
まけてしぬのはなさけなや 
だれもありがたさあもない 
いだい(痛い)からだではたらいて 
このうず(家)たてねでおられよか 
 
しろきいはいのまえにでて 
もみじのようなてをあわせ 
おっちゃんじかたきはアメリカと 
ほんにアメリカてきじゃもの 
 
ふたりのこどもをくににあげ 
のこりしかぞくはなきぐらし 
よそのわかしゅうみるにつけ 
うづ(家)のわかしゅういまごろは 
さいのわら(賽ノ河原)でこいしつみ 
 
おもいだしては 
しゃすん(写真)をながめ 
なぜかしゃしゅんはものいわぬ 
いわぬはずじゃよ 
やいじゃもの(焼き付けたもの) 
 
じゅうさんかしらで 
ごにんのこどもおかれ 
なきなきくらすは 
なつのせみ 
 
なんのいんがか 
いくさのたたり 
みせものうづ(家)になりました 
 
にほんのひのまる 
なだてあかい 
かえらぬ 
おらがむすこの 
ちであかい 
 
おれのうたなの 
うただときくな 
なくになかれず 
うたできく 
 
おごさま(蚕) おごさま 
なにくておがる(育つ) 
うらのはたけの 
クワくておがる 
おがたおこさま 
なさけがあらば 
たおれたおらえのうづ(家)おば 
ごてんにしてよ 
 
原村政樹(ドキュメンタリー映画監督・ディレクター) 
 
 
(『季刊変革のアソシエ22号』より転載) 
 
 
■【TV制作者シリーズ【(9)アジアを舞台に農と食、そして人生を撮る原村政樹ディレクター 
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201002231352572 
 
■ドキュメンタリー映画「天に栄える村」(監督:原村政樹) 
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201307131509196 


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