2016年06月05日21時37分掲載  無料記事
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検証・メディア

メディアを殺すにゃ刃物はいらぬ 根本行雄

 通常国会が6月1日に閉会して与野党とも「参院選モード」に突入した。今回の選挙は、安倍首相を筆頭とする改憲勢力が3分の2超の議席、85議席以上を確保するかどうかが焦点である。ここで、選挙と報道との関連性と、ジャーナリズムについて考えておきたい。高市早苗総務相の放送法発言、NHKの籾井勝人会長の原発情報発言、そして、忘れてはならないのは自民党国会議員の勉強会での「報道圧力」発言だ。ジャーナリズムは主権者である国民の目であり、耳であり、そして、頭である。 
 
 つい先日、ベリタに、森川友義著『若者は、選挙に行かないせいで、4000万円も損している?!(35歳くらいまでの政治リテラシー養成講座)』(ディスカヴァー新書)の書評を書いた。そして、「日本国憲法は主権は国民にあるということ、そして、『正当に選挙された国会における代表者を通じて行動』するという『代議制』、つまり、間接民主制を採用している。だから、選挙はとても重要なものである。」と述べた。 
 
 
 
 小さな村や町に暮らしている人であれば、つまり、人口が少なく、居住面積も狭い地域であれば、新聞を読んだり、テレビの報道を見なくても、村や町のなかで起こっている出来事はたいていのことはわかるし、興味と関心があれば、議会を傍聴に行くのも容易だ。だから、新聞やテレビの選挙報道がなくても、立候補者について判断することはできる。 
 
 しかし、国政となると、首都である東京に暮らしている人でも、新聞やテレビなどの報道がなければ、国政において何が起こっているのか、わからないのが実情だ。ましてや、地方に暮らしている人びとにとっては、新聞やテレビの報道に頼らないと何が起こっているのか、わからないのだ。だから、わたしたち一般市民にとって、新聞やテレビは目であり、耳であり、そして、頭でもあるのだ。 
 
 その新聞やテレビが、あらかじめ、政府によってコントロールされているとしたら、政府にとって、政権担当者にとって、都合のよいことばかりを報道し、都合の悪いことは報道しないうえに、批判をすることができないようになっているとしたら、わたしたち一般市民は目と耳と頭をもぎとられているということになるのだ。 
 
 新聞やテレビなどのメディアで働くジャーナリストたちが自由に主体的に取材し、報道する「表現の自由」がなければ、わたしたちは実際に何が起こっているのかを知ることができない。そして、行政を批判したり、あるいは賛成したりということができなければ、自分の頭で考えるということができなければ、わたしたちは実際に何が起こっているかを理解することができないのだ。 
 
 戦前の日本においては、「大本営発表」というものでなければ報道できなくなっていた。自由に主体的に取材し、報道することができなくされていた。そのために、国民は実際に起こっていることを知ることができなかった。それが侵略戦争をまい進させることにつながった。当時の政権担当者たちは、侵略戦争をまい進させるために「表現の自由」や「報道の自由」を奪い取っていたのだ。その反省から、日本国憲法第21条には、「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。」と明記されており、第2項には「検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。」とされている。 
 
 
 
 日本国憲法は主権は国民であると明記している。そして、「正当に選挙された国会における代表者を通じて行動」するという「代議制」、つまり、間接民主制を採用している。だから、わたしたちにとって選挙はとても重要なものである。そして、選挙が大事だということは、言論、表現の自由が大事だということにつながっている。新聞やテレビや、そして、ジャーナリストたちが自由に主体的に取材し、報道することができるのでなければ、言論の自由、表現の自由が保障されているのでなければ、わたしたち国民は目も耳ももぎとられ、正しい情報を手に入れられなくなるのだ。正しい情報が手に入らなくなれば、正しく考えることもできなくなるのだ。正しい情報は、正しく考えるための必要条件なのだから。 
 
 
 
 
 
 4月20日、NHKの籾井勝人会長が、熊本地震への対応を協議した局内の災害対策本部会議で「原発については住民の不安をいたずらにかき立てないよう、公式発表をベースに伝えてほしい」と指示した。彼は安倍首相のちょうちん持ちだから、ジャーナリズムの初歩的な基本的なことも理解していない。公式発表を鵜呑みにした報道をするのであれば、「官報」や「公報」だけあればいいのだ。自らの目と耳と頭で自主的に主体的に取材をし、データを検証し、そして、報道をするのがジャーナリストの役割である。だから、ジャーナリズムには「公正さ」や「客観性」が求められているのだ。ジャーナリストたちが自由に主体的に取材し、報道することができなくされ、政権担当者による報道の統制がされたり、「官許」された情報を無批判に報道するようになり、つまり、「大本営発表」のようなものに拘束されたとき、ジャーナリズムは死滅しているのだ。そして、ジャーナリズムが保身などから「自主規制」をするようになれば、すでに瀕死の状態にあると言わなければならない。 
 
 
 
 
 
 高市早苗総務相が放送法違反を理由として放送局に電波停止を命じる可能性に言及した。高市は3月4日の記者会見で、「放送法は憲法の規定に沿っている。その運用も厳格な要件の下で行われるので、憲法上の問題はない」と述べ、自分の発言は放送法の運用を説明したにすぎず、憲法の精神に反していないと反論した。そして、「行政指導してもまったく改善されず、公共の電波を使って繰り返された場合、それに対して何の対応もしないと約束するわけにはいかない」と、国会において答弁した。 
 
 政権担当者が放送の内容について、つまり権力批判が公平性を欠いているかどうかの判断をするというのは、まったくの非常識である。その判断に基づいて処分する権限も、批判される権力側にあるというのだから、だれが考えたって公平な判断ができる訳がない。ましてや、公平な処分など期待できるわけがない。そんな簡単なことが、高市にはわからないのだ。 
 
 権力批判はジャーナリズムの基本的な使命の一つである。メディアの存立基盤を奪いとる電波停止命令をちらつかせるというのは、明らかに「脅し」である。 
 
 
 
 
 
 2015年6月25日、安倍晋三首相に近い自民党国会議員の勉強会「文化芸術懇話会」において、講師を務めた作家、百田尚樹が「沖縄の二つの新聞社はつぶさなあかん」と述べたり、大西英男衆議院議員は「マスコミを懲らしめるには広告料収入がなくなるのが一番だ」と述べたりなど、出席者から報道機関に圧力をかけるような発言が続いたという。その責任をとって、自民党総裁でもある安倍首相は、懇話会代表の木原稔青年局長を更迭し、陳謝をした。 
 
 現在の日本は、資本主義社会である。この社会で生活しているものにとっては、お金は空気のようなものだ。空気がなければ生きていけない。だから、お金を持っているものの力は大きい。 
 
 新聞社も、テレビ局も、資本主義社会を生きている営利団体だ。だから、「マスコミを懲らしめるには広告料収入がなくなるのが一番だ」という大西の暴言は正鵠を射ているのだ。政権担当者はマスメディアをいつでも、自分とって都合のよいものになるようにしようとして、ムチとアメを使う。政治的な圧力をかけたり、法令で規制したりなどとムチをふるい、資金を提供し、特別な権限を与え、助成金を出したりなどとアメをあたえたりなどするのだ。 
 
 安保法制が成立し、施行され、日本は、すでに、きな臭い時代になっている。籾井のようなちょうちん持ちがはびこり、高市のような非常識な人間が権力の座を占め、政権担当者がメディアを統制しようとしている。こういう時代に、メディアの経営者たちやジャーナリストたちが「自主規制」という名のもとに、権力に迎合し、同調し、事大主義がはびこるようになるとき、わたしたち一般国民もまた、いつのまにか、権力に迎合し、同調し、事大主義がはびこる時代を生きていくことになるのだ。そういう時代を招かないためにも、わたしたちは7月の参議院選挙においては、安倍首相を筆頭とする改憲勢力には3分の2超の議席、85議席以上を確保させないようにしなければならない。 


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