2016年07月15日15時15分掲載  無料記事
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アフリカ

宇佐美圭司著 「20世紀美術」   「還元的情熱」とその未来

  いったい現代美術はどのようになっているのだろう。昔は印象派とか、キュビズムといった流派があったけれど今の時代にも何か潮流があるんだろうか。そもそも、この時代に芸術家は何をしているのだろう。現代美術の展覧会に出かけたけれど、いったいこの芸術家はどのような位置に立っているのだろうか・・・。 
 
  そうした疑問を持つ人がいたとしたら、1つの視点を与えてくれるのが画家の宇佐美圭司氏が書き下ろした「20世紀美術」である。この本で宇佐美氏は前衛美術の20世紀を振り返り、そこに大きな物語を見せてくれる。「20世紀美術」では欧州で始まった印象派、そして、シュールレアリスムなどの芸術革命から20世紀の美術が発展していったことがまず描かれている。そのキーワードは宇佐美氏によれば「還元的情熱」ということになる。還元的情熱とはrecognition(認識)からcognition(認知)に戻る(還元する)試みであるという。 
 
     対象 
 
   、  ↑ ◆
 
      目 
 
  未だ世界の構造を理解していない赤ちゃんの時に世界を見る見方がcognitionであり、それは周囲の形や色を意味や機能で切り分けることができない状態を意味する。一方、recognitionは世界の構造を把握したのちに意味や機能を理解したうえで世界を眺める時の見方である。そこには近代性や科学性も当然に付与され、そうなると赤ちゃんの時に漠然と世界と一体化していた状態の世界の把握の仕方とは異なった視界と言える。 
 
  この図で言うならば△離戰トルがrecognition(認識)であり、,離戰トルがcognition(認知)である。recognition(認識)にはすでに世界観が主体に刷り込まれているから、その視界は常識に支配されていることになる。これは構造主義言語学の影響を受けた理解の仕方であり、宇佐美氏もそのことをどこかで語っていた。 
 
  だから「還元的情熱」とはもう一度、赤ちゃんの頃のような無垢な世界との関係性を美術において再生させようとする情熱のようである。印象派の点描派はまさにそうした運動であり、無意識を重視したシュールレアリスムも同様だったと宇佐美氏は説く。 
 
  こうして還元的情熱によって始まった20世紀の芸術革命は視点の遠近法を解体しようとしたピカソらのキュビスムなど様々に発展を見せたが、第二次大戦で多くの芸術家や知識人たちが渡米したことを機に、やがてアメリカの抽象美術へとその20世紀芸術革命の中心が移動していくことになる。そして、その運動はやがて不毛な砂漠に至る。 
 
  なぜ20世紀の芸術革命はアメリカの地で不毛な最期を遂げるのか。その論考がこの「20世紀美術」の中身であり、テーマである。そして、一人一人の美術が単純に美術史的な文脈だけで語れないように、いかに物語化しようとしても、そこから零れ落ちる豊かさがあるように思う。とはいえ、宇佐美氏が本書で証明しようとするものはアメリカという地で、20世紀の美術革命の根源だった還元的情熱が、むしろ、一種の「強度」や「大きさ」と言ったパワーへの情熱に退行していき、新しい芸術形式の完成が意味したものは「内容」の消失であった、という皮肉な結果となったと説く。その象徴の一人がジャクソン・ポロックだったという。ポロックが始めたドリッピングという絵の具を即興で画布に叩き付けて作り上げていくアクションペインティングも、それが繰り返されるうちに次第に内容空疎になっていったということだろう。それを宇佐美氏は「均質化の危機」と言っている。 
 
  「自己実現は目的達成によってなしとげられる何かではなくて、実践の過程の中にある。それはドリップする絵の具から生まれる形のやりとりであり、塗料の飛沫や線との遊戯として実現されていこう。ポロックの興奮がこちらに伝わる画面に私たちは出会う。しかしやがてそれは結果の集積を生み出すのだ。結果はアトリエに重ねられた絵として彼をとりかこむと同時に彼の脳細胞に記憶としてもきざみこまれる。やがて新しいキャンバスに向かっていながら、すでにオール・オーバーに描きこまれた作品が見えはじめる。行為と結果の逆転地獄が待ち受けるのだ。自分がドリッピング機械のようになって自己喪失に陥っていく悪夢・・・」 
 
  そうした悪夢はもとよりピカソやブラックのキュビスムにもあり、二人の絵画は似通って行く。それは均質化の危機であり、おそらくピカソが次々と自己の作風を変え続けたのは均質化の危機から逃げるためだったのだろう。還元的情熱はその方法自体に自らを機械化する均質化への危機が内包されているともいえる。それは大いなる逆説と言える。 
 
  「シュール・レアリズムとアブストラクト・ペインティングに到るさまざまな試みの全体を越えるのに、「大きさ」と「強度」が必要であった。そしてその「大きさ」と「強度」が第二次大戦後の世界の美術家の価値基準をつくりあげたのである。「強度」や「大きさ」が、今問い直される。それらは、より強く、より大きくといった拡張主義、進歩主義につながる。そしてそれは人間不在の美術、美術の死への道につながっていこう。」 
 
  しかしながら、だからと言って還元的情熱の試みは決して無意味なものではない。たとえ個々の試みがいずれは陥穽にとらえられて終焉するとしても、recognition(認識)によって縛られ、世界の豊饒さを見ることができなくなる恐れは常につきまとう。とくにマスメディアが発達した今日はその支配的言説に沿って世界を見ていく、個性喪失の危険が常にある。 
 
  そもそも還元的情熱に20世紀当初というより19世紀のフランスの前衛画家たちがとらわれたのは産業資本主義の発展によって様々な科学的進歩が達成され、写真技術や複製技術、通信技術が展開していく近代主義とは異なる方向性や価値観を芸術家たちが目指していたからだろう。ゴッホの後期印象派の絵画もまた、人間の主観をできるだけ全面展開し、自己が抱える不安や懊悩、あるいは歓喜を客観的現実とは異なる色で表現しようとした。デカルトが方法を発見して以後、そして遠近法を画家が発見して以後、世界は再現され、複写され、科学される対象に貶められ、そこから豊かな物語性や味わいが失われていった。それをいかに回復するか。19世紀に欧州で始まった試みは20世紀にアメリカで袋小路に陥ってしまう。だから、その陥穽を避けて別な回路を探さなくてはならない。宇佐美氏は最終章でそうした道を模索している。 
 
  宇佐美氏が示したモデルcognition(認知)とrecognition(認識)のモデルはそもそもいつの時代でも多かれ少なかれ人類が持っているものだが、21世紀の今はそこにマスメディアによる刷り込み作用が新たな要因として浮上してきているように思われる。20世紀後半のコマーシャリズムは大衆の生活向上への意欲に支えられて、その夢を形にすることに味わいがあったが、今日のコマーシャリズムは単に消費財の訴求という当初の目的を越えて、国家と結びつき、大衆の政治意識まで印象操作しようとしているように思われる。芸術家は国家と結びついたこの巨大な産業的な力に対抗できるのだろうか。このことがなぜ重要かと言えば、先ほどのrecognitionを通して、産業資本主義に基盤を置いた巨大メディアの力が私たちの視界すらも変革しつつあるからだ。 


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