2016年07月28日23時42分掲載  無料記事
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人権/反差別/司法

横浜事件訴訟が問うものとは 根本行雄

 横浜事件とは、1942年、雑誌に掲載された論文が共産主義の宣伝だとして、神奈川県警特高課などが治安維持法違反容疑で出版社社員ら約60人を逮捕し、拷問をし、虚偽の自白書を作成し、事件をでっちあげたものである。横浜地裁は終戦後の1945年8月以降に、約30人に有罪判決を出した。2016年6月30日、東京地裁(本多知成裁判長)は、「横浜事件」の元被告2人の遺族が「裁判記録の焼却によって再審請求が遅れ、名誉回復が困難になった」などとして国に計1億3800万円の損害賠償を求めた訴訟の判決で、賠償請求を棄却した。横浜事件とは権力犯罪であり、権力による言論弾圧である。横浜事件は、検察も、裁判所も加担した犯罪である。ここを直視なければならない。本多裁判長は横浜事件訴訟が問うものを看過している。 
 
 
 
 横浜事件訴訟とは、何か。治安維持法がどのような法律であったか、どれだけ多くの人がその害をこうむったのかを解明することを通して、横浜事件とは権力犯罪であり、権力による言論弾圧であり、検察も、裁判所も加担した犯罪であることを明らかにしなければならない。そして、司法の犯罪と戦争責任を明らかにすべき裁判である。 
 
 
 今回の訴訟の経過について、毎日新聞(2016年7月1日)の伊藤直孝記者の記事を引用する。 
 
 戦時下最大の言論弾圧とされる「横浜事件」の元被告2人の遺族が「裁判記録の焼却によって再審請求が遅れ、名誉回復が困難になった」などとして国に計1億3800万円の損害賠償を求めた訴訟の判決で、東京地裁は30日、請求を棄却した。本多知成裁判長は「当時の裁判所職員による何らかの関与で記録が廃棄されたと認められる」と違法性を認定したものの、廃棄行為などが国家賠償法施行(1947年)前だったことを理由に、国は賠償責任を負わないとした。遺族側は控訴する方針。 
 
 横浜事件を巡る一連の訴訟で、記録廃棄への裁判所職員の関与を認めたのは初めて。判決は当時の検察官、裁判官の対応についても違法と明確に認めた。 
 
 訴えたのは元中央公論社員の木村亨さん(98年死去)と、元満鉄調査部員の平館利雄さん(91年死去)の遺族。2人は治安維持法違反容疑で逮捕され、45年9月に懲役2年、執行猶予3年の判決を受けた。裁判記録がほとんど残されていないことを理由に再審請求は棄却。特高警察の拷問による虚偽自白が裁判所に認められて再審開始が確定したのは死後の2005年だった。 
 
 判決は、2人が特高警察に殴り続けられるなど違法な取り調べで自白を強要されたと認定。「(当時の検察官、裁判官が)拷問を認識しながら自白の信用性を十分検討しないで裁判をした」と指摘した。裁判記録は判決後ほどなく廃棄されたとの見方を示した。判決はこれらの行為を違法としつつも、公権力の行使による損害に対する国の賠償責任を規定した国賠法の施行以前だったとして、「法令上の根拠がない」と判断した。 
 
 
 
□ 横浜事件の再審の戦い 
 
 無実を訴え続けた元被告人やその家族、支援者らは再審請求を繰り返している。 
 1986年に第1次、1994年に第2次再審請求の審査が行われたがいずれも棄却された。しかし、元中央公論編集者の妻ら元被告人5人の遺族が1998年に申し立てた第3次再審請求で横浜地裁は2003年に再審開始を決定した。 
 
 検察官の即時抗告申立てに対し東京高裁は抗告審(2005年3月)で、警察官の拷問を認定した確定判決から、被告人らに対しても相当回数にわたり拷問を受け、虚偽の自白をしたと認められる自白の信用性に顕著な疑いがある横浜事件の有罪判決は、自白のみが証拠であるのが特徴自白の信用性に疑いがあれば、有罪の事実認定が揺らぐと認定した。検察側抗告を退け、横浜地裁の再審開始決定を支持した。東京高検は最高検と協議した結果、特別抗告を断念。再審開始が確定した。 
 
 他界した元被告人らの遺志を受け継いで再審を請求した遺族らは、「無罪の一言を聞くのはもちろん、なぜ横浜事件がつくられたのかを解明することが大事だ」と語り、再審が無罪を認めるだけではなく、治安維持法がどのような法律であったか、どれだけ多くの人がその害をこうむったのかを解明して、司法の犯罪と日本の戦争責任を明らかにすべき裁判であることを強調した。 
 
 一審の横浜地裁は、2006年2月9日、「ポツダム宣言廃止とともに治安維持法は失効し、被告人が恩赦を受けたことで、刑訴法337条2号により免訴を言い渡すのが相当」と判決する。 
 
 控訴審の東京高裁では、事実審理を行う前提となる論点である免訴判決に対して無罪判決を求めて控訴しうるかについて争われ、2007年1月19日、「被告人は刑事裁判手続きから解放され、処罰されないのだから、被告人の上訴申し立てはその利益を欠き、不適法」であるとして、控訴を棄却した。弁護団は即日、最高裁に上告した。 
 
 最高裁判所第二小法廷は、2008年3月14日、「再審でも、刑の廃止や大赦があれば免訴になる」として遺族らの上告を棄却した。 
 
 2008年10月に開始が決定された第4次再審第一審の横浜地裁は、2009年3月30日、第3次最高裁判例を踏襲し、免訴を言い渡した。ただし、事件の被告が無罪である可能性を示唆した上で、「免訴では、遺族らの意図が十分に達成できないことは明らか。無罪でなければ名誉回復は図れないという遺族らの心情は十分に理解できる」と述べ、刑事補償手続での名誉回復に言及した。これを受けて原告側は控訴せず、今後刑事補償手続に移ることを明らかにした。 
 
 元被告・検察の双方が控訴しなかったため、免訴が確定した。 
 
 2009年4月30日に第4次再審請求の元被告遺族が、刑事補償の請求手続きを横浜地裁に行った。遺族は、地裁が補償決定に際して事件が冤罪と判断することを期待すると記者会見で述べた。 
 
 2010年2月4日、横浜地裁は元被告5人に対し、請求通り約4700万円を交付する決定を行った。審理を担当した横浜地裁の大島隆明裁判長は決定の中で、特高警察による拷問を認定し、共産党再建準備とされた会合は「証拠が存在せず、事実と認定できない」とした。その上で確定有罪判決が「特高警察による思い込みや暴力的捜査から始まり、司法関係者による事件の追認によって完結した」と認定し、「警察、検察、裁判所の故意、過失は重大」と結論づけた。再審で実体判断が行われた場合には無罪判決を受けたことは明らかであるとして、実質的に被告を無罪と認定し、事実上事件が冤罪であったことを認めた。 
 
 
 
□ 明治憲法下の人権について 
 
 明治初期、自由民権運動がさかんになり、憲法をこしらえることを要求した。それに対して、明治政府は1869年に「出版条例」、1875年に「新聞紙条例」、1880年に「集会条例」、1887年に「保安条例」などの言論統制と弾圧を強行し続けた。つまり、言論・出版の自由。集会・結社の自由。日本国憲法が保障している基本的人権のなかの自由権が大きく制限されていたのである。 
 そして、憲法制定会議をつくることなく、1889年2月11日、いきなり「大日本帝国憲法」(明治憲法)を発布し、90年11月29日に施行する。その憲法に則り、第1回の帝国議会を召集した。つまり、明治憲法とは選挙によって選ばれた国民の代表が加わっていないところで、秘密裡に作られたものであり、「欽定憲法」という形で国民に押し付けたものである。 
 
 大日本国憲法(明治憲法)は日本国憲法が保障している基本的人権(自由権)を保障していない。人権よりも天皇を頂点とする社会の治安維持を最優先する社会を作り出すことを目的としていたからである。だから、人権は「臣民の権利」として制限つきのものであり、それは権力者によって容易に制限し、剥奪することのできるものであった。当然のことながら、言論、出版の自由がない。思想、信条の自由がない。表現の自由がない。集会・結社の自由がない。検閲がまかりとおり、通信の秘密は保証されていない。 
 明治政府は憲法をつくることよりも、まず、治安維持を最優先にしていた。日本国憲法が「侵すことのできない永久の権利」(11条)として保障している基本的人権とは異なり、人権とはあくまでも「臣民の権利」であり、恩恵として与えられたものであり、それゆえに、さまざまな法律の制限があり、いつでも、容易に剥奪することができるものであった。大日本国憲法(明治憲法)はこのような人権が保障されない社会を作り出した。 
 
 人権の保障されていない社会がどのようなものであるか。それは戦前の、明治憲法下の社会をみれば容易にわかる。そして、その典型が横浜事件である。 
 
 
 
□ 『横浜事件(言論弾圧の構図)』岩波ブックレット78 を再読する 
 
 ここでは、海老原光義、奥平康弘、畑中繁雄『横浜事件(言論弾圧の構図)』岩波ブックレット78 を紹介したい。 
 
 このブックレットが出版されたのは、1987年1月20日である。「横浜事件再審裁判を支援する会発足会」が1986年11月6日に労音会館ホールにおいて行なわれている。このブックレットの表紙ウラに、その発足会の写真がある。つまり、1986年の第1次再審闘争の背景には、「国家秘密法」があるということである。 
 
 このブックレットの末尾に、青山鉞治「法は権力者の道具なのか」という文章がある。 
「一九四一年三月、国防保安法が施行され、つづいて治安維持法の大改悪が行なわれた、その八カ月後に日本は太平洋戦争に突入した。この歴史的事実を猛省して、われわれ全国民が協力して、なんとしても、『国家秘密法』の立法化を防止せねばならぬ、と固く思う。」71ページ 
 
 木村亨「せめてぼくたちの『人権宣言』を」から引用しよう。 
「横浜事件の三度目の裁判に当る今度の再審裁判が目ざすぼくたちの目的は何かといえば、旧帝国が犯した権力犯罪、前述のようなぼくたちへの無法な人権蹂りんと名誉毀損とを、国家側としてぼくたち被害者に速かに謝罪するとともに、長期にわたった不法拘禁による損害に対して、十分な補償を確保することにある。こうしなければ、新憲法下のぼくたちの失われている人権は、回復されないのである。ぼくが敗戦直後から現在まで、くり返しくり返し主張し続けている『ぼくたちの人権宣言』はこの再審裁判で勝訴することによってのみ、実現するのだ。 
 『治安維持法』が撤廃されたから、あんな馬鹿げた人権蹂りんはもうあるまい、と今の若い諸君は安心しておれない。現国会にも最上程されようとしている『国家秘密法』こそは『治安維持法』に代って、善良な諸君を『スパイ』の名で投獄する危険性をはらんでいるのである。」67-68ページ 
 
 
 このブックレットは国家秘密法に反対する運動の一環として出版されている。今や、安倍自民党政権は特定秘密保護法、安全保障関連法(安保法制)を成立させ、施行させている。横浜事件の元被告たちはどのような思いで、現在の日本のありようを見ているだろうか。 
 
 
 
□ 横浜事件訴訟について注目したいところ 
 
 次に、このブックレット『横浜事件(言論弾圧の構図)』の文章を引用しながら、横浜事件訴訟についてネモトが注目したいと思うところを列記し、再審を戦う意義を明らかにしたい。 
 
 
 注目点 その1 取調官たちの暴言と暴行の背景にあるもの 
 
 密室を利用しての取調べが行なわれたということ。密室での取調べでは、当然のことながら、人権を擁護されたり尊重されることはない。拷問をはじめとする、肉体的、生理的、精神的、心理的、さまざまな暴力的な強制が行なわれている。そして、暴行による取調べによって殺人に至ることも容認されていた。横浜事件では、獄死者4名、重態で保釈直後の死者1名、取調中の気絶者13名、負傷者31名という事態を引き起こしている。 
 
 
「態度を豹変した森川は、ぐいぐい私の頭髪をひっぱって、畳の上にねじ伏せ、頭を自分の膝の間に押し入れるようにした。前のめりに倒された私の両腕は、屈強な二人の刑事によって後ろ手にねじり上げられ、両頬に力まかせの平手打ちがくりかえされた。『共産主義運動をしたってことを、一言でも否認してみやがれ、どうなるか思い知らせてやってもいいぜ』『てめえは小林多喜二がどんな死に方をしたか知ってるか』『俺たちはな、共産主義者のアバラの一本や二本みんなへし折ってるんだ。検事局でもな、共産主義者は殺してもいいってことになっているんだ』−−こうしたテロと怒号のうちに、やがて脳髄に沁みいるような疼痛と、朝からの疲労で、身も神経もさすがに弱りかけたとき、膝もとに一片の紙きれをつきつけられ、私はひき起こされて、一人の男に後ろからはがい締めされたような格好になった。と、私の右手は他の刑事によって鷲づかみにされ、私は有無をいわず拇印をとられた。うつろなものになっていた私の目にも、紙きれの上に『私は共産主義の運動をいたしました』という文字が読みとられたのである。」12-13ページ 
 
「中世さながらのせめ道具まで使って痛めつけ、朦朧とした意識の中で、『はい、私は共産主義者であります』『反戦運動を致しました』『雑誌を通して共産主義の宣伝啓蒙に狂奔しました』というように、一字一句命じられたまま、気に入らぬ箇所は、気に入るまで訂正させられて手記はでき上がる。こうして、自分は共産主義者であり、毎日そういう活動をやりました、という手記や調書が、獄死者四名、重態で保釈直後の死者一名、取調中の気絶者一三名、負傷者三一名という悲惨な状況のなかで、つぎつぎに完成していった。」16ページ 
 
 取調官たちの暴言と暴行の背景には、大日本国憲法(明治憲法)は人権が保障されない社会を作り出したということがある。その結果として、密室を利用した、拷問を行なう取調べが正当化され、横行した。彼らは権力を背景にして、「殺してもいいってことになっている」と言い、実際に、殺人を行なっているのだ。なぜ、そうなったのか。政府による人権侵害が日常化し、正当化され、横行するようになっていたからである。その結果、国民のほとんどは「見ざる、聞かざる、言わざる」の三猿の態度をとる以外には生き延びるすべがなくなっていたのである。 
 
 
 注目点 その2 明治憲法下にはほんとうの人権はなかった 
 
 大日本国憲法(明治憲法)は日本国憲法が保障している基本的人権(自由権)を保障していない。人権よりも天皇を頂点とする社会の治安維持を最優先する社会を作り出すことを目的としていたからである。だから、人権は「臣民の権利」として制限つきのものであり、それは権力者によって容易に制限し、剥奪することのできるものであった。当然のことながら、明治憲法下の社会はゆっくりと着実に人権の保障されていない社会を日常化させていった。言論、出版の自由がない。思想、信条の自由がない。表現の自由がない。集会・結社の自由がない。検閲がまかりとおり、通信の秘密は保証されていない。 
 
「戦時下、陸軍報道部から絶縁されては仕事はできない。統制下の用紙割当てもますます削減または禁止されてしまうであろう。中央公論社は雑誌の存続をかけて恭順の意を表し、畑中繁雄編集長の引責休職、篠原敏之次長の譴責、反軍的と罵倒された編集部の解体、新編集部による再出発を申し入れ、ようやく出入禁止をとかれた。旧編集部の手で発行寸前までこぎつけていた四三年七月号は『いまだに中島健蔵、土屋清、高倉テルのような自由主義者があいかわらず顔をならべている』と指弾され、無念にも休刊とせざるをえなかった。」9ページ 
 
「二重三重の検閲制度のなかで、なお、いささかでも良心的な雑誌、出版物を、と志していた編集者の一網打尽の観があった。そして、最悪の日がやってきた。『改造』『中央公論』の編集者、元編集者などのいっせい検挙があってから約半年後の四四年七月一○日、情報局第二部長橋本政実は、中央公論社と改造社の代表をよび、両社に対して、それぞれ自発的に廃業するよう申し渡したのである。神奈川県特高の情報によってであろう『営業方針において、戦時下国民の思想指導上許しがたい事実がある』というのがその理由であった。自発的廃業というのは官僚一流の責任回避であって、じっさいは命令であり、雑誌の廃刊はもちろんのこと、社の名義、権利一切譲渡を許さず、社員が一定数集まって仕事をすれば社の再建とみなすという強硬なものであった。」28ページ 
 
 特高警察が特権を振り回し、人権侵害を正当化し、日常化していったのは、明治憲法下の政府の体質の、メカニズムの、きわめて自然な帰結である。 
 
 
 注目点 その3 横浜事件の判決は終戦後であった 
 
 横浜事件というと、私たちには特高警察によるフレームアップ、でっち上げ事件であり、密室を利用し、被疑者の死亡を容認した暴力的な取調べを行なったという点に注目しがちである。しかし、判決が出たのは、ポツダム宣言を受諾し、太平洋戦争は敗戦という結果が明らかになった後の、八月下旬から九月上旬であったということに注目したい。 
 
 
「特高の筋書きどおりにすすめられてきた横浜事件は、一九四五(昭和二○)年八月一五日の敗戦によってすべてが御破算になった。横浜地裁は、八月下旬から九月上旬にかけて、おおあわてに形式的な裁判をおこない、泊組、改造組、中央公論組などなど多岐にわたった横浜事件の各グループに判決を下していった。泊組の判決は、おしなべて懲役二年、執行猶予三年がついていた。罪名は治安維持法違反、国民をかくもながく苦しめた悪法は、戦後も生きていたのである。しかし、その判決文からは、特高があれほど執着した日本共産党再建準備会の文字は消えていた。」28-29ページ 
 
 
 横浜事件の判決が出たのは、ポツダム宣言を受諾し、太平洋戦争は敗戦という結果が明らかになった後の、八月下旬から九月上旬であった。そして、判決後、GHQを怖れた裁判所の職員が証拠を隠滅するために裁判記録を焼却している。つまり、横浜事件は、検察も、裁判所も加担した犯罪であったのである。ここを直視なければならない。 
 
 
 
□ 横浜事件訴訟の意義 
 
 横浜事件訴訟の意義とは、何か。治安維持法がどのような法律であったか、多くの人びとがどのように人権を侵害されたかを解明して、明治憲法を護持していた政府の戦争責任と司法の犯罪とを明らかにする裁判である。 
 
 岡部史信は「日本国憲法の制定過程をどう見るか」(『日本国憲法・検証』シリーズ第1巻「憲法制定史」小学館文庫)で、次のように述べている。 
「ポツダム宣言受諾後も、日本政府関係者、美濃部達吉・宮沢俊義をはじめとする著明な憲法学者たちに、大筋として明治憲法改正の必要性に対する認識は皆無であった。その背景には、明治憲法の解釈運用で日本の民主化が可能であるという認識が根底にあったことは確かであった。」298ページ 
 
 
 敗戦を経験しても、当時の日本政府の権力者たちは、明治憲法に執着し、観念的な国体に執着した。 
 治安維持法は、国会を軽視し、立憲主義を蹂躙し、国家権力を独り占めにしていくために成立させた法律である。「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起る」ことにつながる道であった。 
 
 
「同じ治安維持法違反で、東京豊多摩拘置所に収監されていた哲学者三木清が獄死したのは、敗戦後一カ月以上を経った九月二六日のことである。日本人は、戦争が無条件降伏によって終ったというのに、日本軍国主義・日本ファシズムを批判匡正してやまなかった思想犯(受難者)を救うことができなかったのである。治安維持法が撤廃されたのは、一○月四日、三木清の無惨な死によって、こうした事実を知った連合国最高指令官が、日本政府に対し、政治的、民事的、宗教的自由に対する制限撤廃の覚書(人権指令)を出したことによってなのであった。」29-30ページ 
 
 当時の日本の司法には、自ら、冤罪をなくす力がなかった。終戦後においても、冤罪に加担していたのである。 
 
 
「出獄後、笹下会という会を作った横浜事件の被害者たちは、あの不法な取調べにどうにもならぬ気持をいだいたまま、細川氏はじめ川田夫妻、益田直彦、木村亨、高木健次郎ら三三名が口述書を集めて、拷問を行なった松下英太郎、柄沢六治、森川清造ら二八名の特高を、特別公務員暴行傷害の罪で告発した。この告発状は、新憲法公布後の四七年四月二七日に横浜地裁検事局に提出されたが、公判はなかなか進行せず、証拠品もごくわずかしか認められず、難行をきわめた。それでも四九年二月二五日、松下に懲役一年六カ月、柄沢に懲役一年、森川に懲役一年の実刑判決が下されたのであった。被害者たちのあの労苦を思えばあまりにも軽い刑罰といわなければならない。しかし、松下らは控訴し、五一年三月二八日、東京高裁でも同様の判決言渡しとなったのだが、彼らはさらに最高裁に上告し、一年後の五二年四月二四日、上告は棄却され、実刑がついに確定したのである。ところが折からのサンフランシスコ講和条約の発効は、彼ら暴虐の徒たちにもあまねく特赦をいきわたらせ、実刑に服することは一日としてなかったという。」32-33ぺージ 
 
 
 
□ 遺族側は控訴する 
 
 この訴訟の焦点となっているのは、裁判所が終戦後に判決などの裁判記録を燃やしたとされる行為である。横浜地裁は終戦後の1945年8月以降に、約30人に有罪判決を出した。そして、証拠を隠滅するために裁判記録を焼却処分したのである。つまり、横浜事件とは、検察も、裁判所も加担した犯罪だということである。 
 
 記録がないことが再審請求の壁になり、2人は2005年の再審開始確定を待たずに死去した。遺族側は「国の組織的な証拠隠滅で名誉回復が困難になった」と訴えていた。この東京地裁の判決は、裁判所や検察の対応についても違法と認めたものの、戦後の再審判断の遅れを含めて違法性を認めるよう訴えた思いには応えなかった。代理人の森川文人弁護士は「自分で記録を燃やしておきながら、『記録がない』と再審請求を棄却した対応と向き合っていない」と批判している。 
 
 
□ 冤罪を防止し、人権擁護するために 
 
 私たちは横浜事件から冤罪を防止し、人権を擁護するために、何をしなければならないかを学ぶことができる。それを次に列記することにする。 
 
代用監獄の廃止 
勾留期間の欧米並み短縮(3日以内) 
弁護士の立会いのない取調べの禁止 
弁護士の立会いのない取調べは証拠として採用しない 
取調べ状況の全過程の可視化(ビデオによる録音・録画) 
代用監獄を利用して作成された調書類は裁判の証拠としては採用しない 
保釈を早急に行なう 
捜査は訴追側のためだけではなく、弁護側のための捜査も行なう。 
予審制度を確立する 
別件逮捕の禁止 
再逮捕の禁止 
ミランダ・ルールの確立 
黙秘権の確立 
スパイの利用の禁止 
証拠物の捏造の禁止 
証人の捏造の禁止 
証人の買収の禁止 
証人への脅迫の禁止 
証人隠しの禁止 
追起訴の禁止 
検察による上訴の廃止 
偽証罪を悪用することの禁止 
証拠の全面開示の義務化 
匿名報道原則 
 
 
 横浜事件訴訟とは、何か。治安維持法がどのような法律であったか、多くの人びとがどのように人権を侵害されたかを解明して、明治憲法を護持していた政府の戦争責任と司法の犯罪とを明らかにする裁判である。冤罪は司法による犯罪である。冤罪を防止するためには、そのメカニズムを明らかにし、それを除去していかなければならない。 


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