2016年08月08日18時19分掲載  無料記事
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赤狩り時代を生き抜いたハリウッドの名脚本家の闘いを描く 「トランボ ハリウッドに最も嫌われた男」

  第二次大戦後、ようやく平和が訪れたと思った矢先、米ソ間の確執が顕著となり、冷戦時代が始まりました。この頃、アメリカで共産主義者の嫌疑をかけられると、公職から追放されるだけでなく、ハリウッドの映画作家や俳優たちも仕事ができなくなりました。1940年代後半から50年代にかけてのこの時代は「赤狩り」の時代と呼ばれています。 
 
  共産主義者の嫌疑で次々と映画人を喚問して友人の名前を言うように迫ったのが悪名高い「非米活動委員会」です。共和党上院議員だったジョゼフ・マッカーシー議員らに率いられていました。この頃、映画人や国務省の官僚たちの中には自殺した人々もいました。アメリカ人だけでなく、隣国カナダの外交官で、著名な日本近代史の研究者ハーバート・ノーマンなども赤狩りの影響を受けて自殺しています。 
 
  赤狩りではアメリカ共産党員だけでなく、過去に一度でも友人に誘われて集会に参加しただけのような人や、奥さんとか家族がそうした集会に参加したというような人まで「シンパ」とみなされ、摘発されていきました。アメリカでは1929年にウォール街の大暴落があり、1930年代は大不況で、この頃、左翼的な思想を抱く人が多かったのですが、その当時に1度か2度集会に参加したことがあるというような人まで1950年の前後に嫌疑をかけられて喚問され、ブラックリスト化されていきました。 
 
  このアメリカの「赤狩り」の時代に立ち向かった一人の映画脚本家の闘いを描く「トランボ ハリウッドに最も嫌われた男」が公開されています。脚本家のドルトン・トランボは赤狩り時代に本名で脚本を発表できなかったために他人の名前で作品を発表するしかなく、アカデミー賞の授賞式にも立ちあえなかった伝説の人物として知られていました。多数の傑作を残していますが、この映画では「ローマの休日」を執筆した時のエピソードなどが盛り込まれています。恥ずかしながら、筆者は未だ見ていませんが、予告編は以下。 
 
(予告編) 
http://trumbo-movie.jp/trailer.html 
  この映画の公開に合わせて、英国のガーディアン紙では映画にも登場するトランボ氏の娘が父の思い出を語っています。 
https://www.theguardian.com/film/2016/jan/16/dalton-trumbo-hollywood-blacklist-mitzi-trumbo-bryan-cranston 
   印象深いのは「赤狩り」で嫌疑をかけられると、子供たちも学校でいじめを受けていたという事実です。というか、親たちの集まりであるPTAがトランボ一家を排斥して、その影響で学校でも子供たちはトランボ氏の娘を避けるようになったようです。とうとう彼女も学校に行くのが嫌になり、学校を変えてもらった、と言っています。一見、明朗で言いたいことは堂々と言う、みたいなアメリカでもこうしたイジメが存在するのです。これは子供たちが大人たちのやっていることを真似しているからでしょう。 
 
  脚本家のトランボ氏は非米活動委員会の質問のすべてに答えなかったことで「ハリウッドテン」と言われる9人の同業者とともに刑務所に11か月入れられました。友人の名前を挙げることを拒否したようです。出所後は2年間、メキシコに渡って他人の名前で脚本を書き続けて家族を養っていた、と言います。トランボ氏が脚本を執筆したウイリアム・ワイラー監督の「ローマの休日」やスタンリー・キューブリック監督の「スパルタクス」などは大ヒットし、また映画としても高い評価を受けていますが、ほかにも多数の名作を残しています。 
 
  トランボ氏と言えば、筆者がまず思い浮かべるのは「ジョニーは戦場へ行った」です。この映画では第一次大戦の戦場の傷で四肢を失い、視聴覚も失った若者が、わずかに体の接触=モールス信号で意志を交わせるようになる過程が描かれていました。自分で歩くこともできない若者でも、その脳の中に恋愛の思い出が甘美に保たれており、見た目がどのようなものであれ、今も人間として生きているということが描かれていました。この映画はトランボ氏が最初は小説として発表したもので、もとの小説は1939年、第二次大戦勃発と同時に発表されたそうです。しかし、第二次大戦に米国が参加したことから後に発禁処分とされました。その後、トランボ氏は赤狩り時代が終わったのちこれを脚本にして、自ら監督しています。映画が製作されたのは米国内でベトナム戦争支持派と反戦派が激しく争っていた1971年のことでした。そして米国はついに1973年、ベトナムから撤退しています。当時は多くのジャーナリストがベトナムの惨禍を報じただけでなく、こうした映画も作られるという自由な言論がアメリカにはありました。 
 
 
■赤狩り経験者が集結して作った映画「フロント」 
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201409140109150 
 
■アメリカの政治映画と西部劇  ジョージ・クルー二―監督の「グッドナイト&グッドラック(Goodnight, and Goodluck)」 
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201401140143102 


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