2017年01月08日17時32分掲載  無料記事
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反戦・平和

シベリア抑留者支援・記録センター通信 No.15(2016年12月25日発行)

「日ロ共同で実態解明・遺骨収集の態勢強化、国による追悼実現を!」〜12/26「ソ連からの引揚終了」から60年 
 12月15・16日にプーチン大統領が来日し、平和条約締結に向けた交渉がいよいよ本格的にスタートしました。実態解明・遺骨収集・追悼を両国家の責務として共同して行っていただけるよう私たちは強く求めます。 
 
【10月19日「日ソ共同宣言」60年記念の集い―捕虜・抑留問題を中心に―】 
 1956年モスクワで調印された「日ソ共同宣言」から60年目の10月19日に衆議院議員会館で超党派の国会議員の皆様とともに、同宣言の意義を確認し、シベリア抑留問題を考える集いを開催しました。 
 50年に続いて、駐日ロシア大使の代理も出席して、大使のメッセージを代読。元抑留者を代表した池田幸一・シベリア立法推進会議代表の8項目提案に耳を傾けました。 
 研究者を代表して富田武成蹊大学名誉教授は、実態解明を阻む情報・資料不足を指摘、日ロ政府の情報開示と協力を求めました。 
 遺骨収集の体制強化、自衛隊の参加なども論議されましたが、直後の10月28日にシベリアで厚労省の遺骨収集班が、持ち帰るべき検体用の遺骨の一部(歯)を誤って焼失したという発表があり、怒りと失望が広がりました。改めて遺骨収集事業のあり方が厳しく問われています。 
 
<主催者代表挨拶> 
「抑留問題解決に1991年協定改定し、基金設置し、日ロ共同で本格的・集中的な取り組みの強化を」(池田幸一 シベリア立法推進会議代表) 
 本日、お忙しい国会議員の皆様、研究者やジャーナリストの皆様、駐日ロシア大使館からもお見えですが、多数お集まりいただき、ありがとうございます。大阪から参りました元抑留者の池田幸一です。95歳になります。一昨日まで、がん治療で入院しておりましたが、どうしても、今日は「日ソ共同宣言60年記念の集い」でご挨拶をさせていただきたいと、主治医の許可を得て、出てまいりました。 
 60年前の今日、鳩山一郎総理が病を押してモスクワに出かけ、「領土はすぐには消えてなくならないが、人の命には限りがある」と長期抑留されていた捕虜たちの帰国を、優先的に談判して実現されたわけであります。おかげで、この年の12月26日に最後のソ連からの引揚船で全抑留者が帰国できたのです。当時は領土とともに抑留問題が最優先課題でありました。 
 それから60年、今年12月にプーチン大統領が来日され、日ロ平和条約締結交渉が大きく前進すると期待 されております。日ロ平和条約あるいは平和友好条約の締結には、私どもも賛成です。隣国とは安心して、友好的に、時には助け合いながら、仲良く暮らしていきたものであります。 
 ただ、60年前と大きく異なりますのは、この間、捕虜・抑留の問題が首脳会談などでまったく触れられていないことです。捕虜・抑留問題が完全に終わっているのであれば、何もなくてもよいのでしょうが、まだ抑留された全体の人数も、死亡者の数も確定していません。遺骨も半分以上が収集されていない状態です。遺族も元抑留者も、ロシアとの友好は望みつつも、まだわだかまりが残っています。ロシアを嫌う日本人が少なくありません。 
 未来に向けて友好関係を大きく前進させるために、60年間積み残されてきた課題を、この際、可能な限り解決し、新しい友好関係にリセットすべきではないでしょうか? 
 
 安倍総理は、新しいアプローチとして経済協力を中心に8項目の提案を5月に行っておられますが、私たち も、捕虜・抑留問題に関して具体的に8項目の提案を行いたいと思います。「シベリア抑留・実態解明と次世代への継承を新アプローチで」と題した別紙をご参照いただきたいのですが、 
1) まず第1に、民間も参加した日ロ共同の調査機構の設置を求めます。両国政府が公式に必要な情報にアクセスできるように図り、捕虜・抑留問題に関 するきちんとした公式の報告書を共同で作成・発表することです。 
2) 次に、資料館の設置です。総務省委託の貸しビルに間借りしたような中途半端なものでなく、日ロ双方に、モスクワと東京と抑留地のいくつかに、研究拠点であると同時に歴史教育の展示施設として国の責任・予算で設置していただきたい。 
3) 三番目に、歴史遺産の保存と伝承です。抑留者が建設に参加・貢献した建物や作業場・鉱山などに、その旨の標識を設置していただきたい。 
4) 四番目、元捕虜・抑留者の所持品・作品を本人 遺族に返していただきたい。 
5) 遺骨収集を加速するために体制の抜本的な強化を図る。自衛隊・ロシア軍の参加も検討いただきたい。 
6) 日ロ両国政府の共同主催による追悼式典の開催。墓地・追悼碑の整備・管理、遺族の墓参の支援 
7) 政府間協議の毎年開催、両政府の中に総合調整本部を設ける 
8) 以上を含めた事業実施のために1991年の協定を改定し、日ロ共同基金を設けるという包括的な提案であります。 
 
 私どももあとどれだけ生きられるか分かりません。遺言のつもりで皆様にお訴えする次第です。どうぞ、よろしくお願い申し上げます。ありがとうございました。 
 
<駐日ロシア大使のメッセージ> 
「共同宣言・91年協定基礎に諸問題解決に協力」〔駐日ロシア連邦特命全権大使 E・アファナシエ/代読:アレクサンデル・コサチョフ(アタッシェ)〕 
 捕虜問題を中心に日ソ共同宣言60年記念の集いの参加者とご来賓の皆様に歓迎のご挨拶を申し上げます。 
 共同宣言は、当時ソ連最高会議と日本国会が批准した露日関係の基本的な法的文書のひとつでございます。それによって60年前に我が両国間の戦争状態が終止され、国交が回復されました。今現在でも二国間関係の発展の上で重要な役割を果たしています。共同宣言は、日本の捕虜がソ連から日本に帰国するための法的基盤を作った文書でもあります。 
 ソ連の収容所に収容された日本人と関わる諸問題を解決するための協力は現在、1991年に調印された政府 間協定の枠組みを元に実行されています。それに従って、ソ連で捕虜にしておかれた日本人及びその埋葬地に関する情報が、ハイレベル並びに首脳の訪間の際を含め、数回にわたり日本側に提供してきました。共同努力によってソ連で亡くなられた4万人の日本軍人たちの身分が確認されました。 
 ロシアは、日本人捕虜の問題の人的側面に一定不変に重視を与えています。ロシア連邦内での埋葬地に関す る新しい情報が現れたら、しかるべく対応をしていきます。先祖のことを大切にするというのは、日本とロシアの共通の良き伝統であって、これからもその伝統を守っていきます。 
 終わりに、本日の集いの皆様方にご健康、ご多幸を祈りしたいと思っております。 
 
<問題提起> 
「抑留の実態解明 どこまで分かっていて、何を明らかにすべきか」(富田武 成蹊大学名誉教授) 
■*当日配布のレジュメから■ 
1 抑留の諸側面 
(1)満洲留置・野戦収容所:ほとんど不明(国防省中央公文書館はアクセスできず)。 
(2)ソ連各地への移送:資料集(ハバロフスク地方―4)、地方公文書館+回想記 
(3)収容所の所在・規模:収容所レベルは資料集にあるが、分所レベルは地方公文書館 
(4)労働の実態:省庁ごとの捕虜使役統計はあるが、あまり意味ない(現場では、鉄道敷設と伐採・ 製材は一体の作業)。労働時間、労働等級等も含めて、実態は地方公文書館+回想記。 
(5)居住・衣服支給・給食:連邦の基準あるが、時期差(最初の冬と47年以降)あり。 
(6)病気:連邦の衛生・医療基準あり、連邦レベルの実態調査あり(1946年2月―2)。 
(7)死亡と埋葬:最初の冬の記録は不十分、厚労省保管の死亡者登録簿に死亡の日時・場所、死因、埋葬地が記載され、カルテも添付されているが、親族以外は閲覧不可。 
(8)余暇・文化活動:回想記と『日本新聞』(一面的)/俳句・短歌・詩・音楽・演劇・絵画 
(9)「民主運動」:回想記と『日本新聞』(一面的) 
(10)送還収容所:2015年春『読売』報道で注目されるようになった→ロシア連邦国立公文書館 
(11)内務省収容所以外の国防省独立労働大隊、特別病院:ほとんど不明→国防省中央公文書館 
(12)ソ連管理地域:南樺太・千島、北朝鮮、旅順・大連 
(13)抑留全体の人の移動 
 
*重要な点は、公文書と個人文書のギャップを埋め ること、前者は連邦レベルだけでは全く不十分、共和国・ 地方・州、さらには収容所、分所の公文書へと分析を 具体化し、回想記や上記登録簿と照合すること。 
 
2 資料集 
(1)『ルースキー・アルヒーフ』13,18(7),24(13)(露文、1996−97) 
(2)『ソ連における捕虜 1939―1956』(露文、2000) 
(3)『内務人民委員部 / 内務省捕虜・抑留者業務管理総局の地域機関』(露文2冊、2006) 
(4)『ソ連における日本人捕虜 1945―1956』(露文、2013) 
(5)『沿海地方における日本人捕虜(1945―1949)』(露文、2006) 
(6)『カラガンダにおける日本人捕虜』(露英カザフ文、2011) 
(7)『1945―1947年の南サハリンとクリル諸島』(露文、1994) 
(8)『満洲・北鮮・樺太・千島における日本人の日ソ開 戦以後の状況』(厚生省引揚援護局未帰還調査部、1955年) 
(9)森田芳夫『朝鮮終戦の記録』(1964年) 
(10)全国樺太連盟『樺太終戦史』(1972年) 
(11)『捕虜体験記』I 歴史・総集篇(1998年)、VIII 民主運動篇 
(12)富田武・長勢了治編『シベリア抑留資料集成』(仮題、みすず書房、2017年1月) 
 
3 厚労省への要望 
(1) 個人登録簿(プライバシーにかかわる部分除外)を研究用に開示されたい。そのデータベース作成が実 態解明の重要な第一歩。 
(2)ロシア政府から引き渡された「裁判記録」その他の文書も研究用に開示されたい。 
(3)モスクワ大使館派遣職員にロシア語研修を義務づけ、資料収集に積極的に当たらせられたい。 
(4)外務省を通じて「有罪判決を受けた抑留者の登録簿、裁判関係書類」などをロシア政府から入手されたい。 
 
*国会議員は、務台俊介衆院議員(自民)、長妻昭・郡和子・初鹿明博衆議院議員、那谷屋正義・藤田幸久・川田龍平参院議員(民進)、高橋千鶴子・畑野君枝衆院議員(共産)が出席、挨拶くださいました。また、多数の議員の代理で秘書が出席されました。 
 
【第2回「シベリア抑留記録・文化賞」に上尾龍介さん】 
 今年の第2回「シベリア抑留記録・文化賞」は、昨年『一塊のパン―ある学徒兵の回想』(上・下)を著された元抑留者の上尾龍介九州大学名誉教授に贈られました。 
 10月19日衆議院議員会館で選考結果を発表し、11月22日選考委員の藤本和貴夫大阪経済法科大学学長が福岡を訪れて、上尾さんに賞を贈呈しました。生存する全国の元抑留者への大きな励ましにもなりました。 
 なお、他に推薦を受けた候補は、 
(1)韓国MBC放送ドキュメンタリー「父(アポジ)と私―シベリア・1945年」(2016.8.15.放送、52分) 
昨年の候補作・岩波新書『生きて帰ってきた男』の著者の小熊英二氏が父親や韓国の元抑留者・遺族を訪ね、インタビューを重ねる旅を記録した貴重なドキュメンタリー。韓国の放送局がシベリア抑留をテーマにした本格的な番組を制作したのは初めて。 
(2)読売新聞の北朝鮮、南樺太、中国・大連の抑留死亡者名簿、抑留・引き揚げ写真に関する一連の報道 
(3)毎日新聞の一連の抑留報道 
でした。第3回の推薦締切は2017年9月末です。 
 
<受賞者略歴> 
上尾 龍介(かみおりゅうすけ) 
 
1926年4月7日 熊本県生まれ。 
1944年 県立宮崎中学校卒業、東亜同文会北京興亜学院入学。 
1945年 学徒召集にて北支派遣軍配属。北部朝鮮で敗戦となりシベリア抑留。 
1947年 復員。 
1948年 愛知大学予科入学。 
1950年 九州大学(旧制)文学部入学。中国文学専攻。 
1953年 福岡大学附属大濠高等学校教諭となる。 
1958年 純真女子短期大学講師、1969年、九州大学教官となる。 
1990年 同大学退官、名誉教授に。同年、福岡女学院大学教員となる。 
1997年 同大学退職。 
2015年 中国書店より『一塊のパン―ある学徒兵の回想』(上・下)を出版。 
 
 九州地区留学生問題フォーラム理事なども務める。元全国抑留者補償協議会福岡県連顧問、シベリア抑留者支援・記録センター会員。現在は福岡県春日市の高齢者向け施設に暮らす。90歳。 
 
<選考委員の推薦コメント> 
●(富田武 成蹊大学名誉教授) 
本書は中学時代から帰国までの自伝的な回想記であるが、中国戦線を経験してから満洲、北朝鮮に配置されてソ連軍の捕虜になった一つの典型的な軍隊経験を克明に描いている(中国社会の観察を含む細部に至るまでの記憶には感心させられた)。 
しかも、帰国後、とくにソ連崩壊後に得た知識で自分の経験を歴史的に位置づけようとしており(例えば、北朝鮮・三合里収容所における病気と治療の実態)、従来の自分の経験の範囲をあまり出ない回想記には見られない客観性を与えている。 
そして何よりも、仲間のパンを盗むのが日常茶飯事となった極限状態を描くのみならず、偶然に出会った学友の善意(一塊のパンを持たせてくれた)を描くことにより、捕虜が「餓鬼道に墜ちる」ばかりではなく、何とか希望をもって生き延びてきたことをも示した点で、読者に感銘を与える作品である。 
鬼籍に入りつつある体験者の最近の著作の中では秀逸と言ってよい本書に「シベリア抑留記録・文化賞」を授与するのが同賞の精神にもかなっていると判断し、推薦します。 
●(長縄光男横浜国立大学名誉教授) 
『一塊のパン』、巻を置くことなく、一気に読了しました。 大変な筆力です。それに何よりも19歳から22 歳という青年の瑞々しい観察と老年の円熟した回想とが実に見事に織り合わされています。現代(現在)の日本の危うさについてのご指摘にも、全く同意できます。『極光のかげに』に劣らぬ抑留者文学の傑作と思います。既にして、古典として長く読み継がれるべき著作の風格があります。 
●(藤本和貴夫大阪経済法科大学学長) 
シベリア抑留だけでなく、中国での生活と軍隊生活につ いても丁寧に書かれており、筆者はより広い視野から抑留の問題を考えておられると思いました。 
●(栗原俊雄毎日新聞学芸部副部長) 
膨大な類書(抑留経験者による手記)に連なるものだと思います。つまり、上尾さん以外にもこうした重要な手記を遺してくれた人はたくさんいます。日本国政府とジャーナリズム、アカデミズムが怠けている間に、当事者たちが重要な証言を遺してくれました。今回は、上尾さんと、そうした人たちへの敬意を込めて推薦したいと思います。 
●(瀬口晴義東京新聞社会部長) 
体験者が本賞を受賞する最後の機会になりそうなことが最も大きい理由です。 
 
<上尾龍介さん長女・秦摩耶さんのお礼のコメント> 
 このたびは、父が長年書き綴ってきた記録が、このような形で評価いただきましたこと、父に代わりましてお礼を申し上げます。 
 父は、人間観察が好きで、理不尽なことには憤りを持ち、必要ならその理不尽に立ち向かっていくような人でしたが、誰にも心からの思いを持って接していました。高校の教員に始まり、その後大学に在職中は、留学生センターの設立と運営に奔走し、日本語教授法を研究し、本来の中国文学も課題としておりました。全て心を込めた命がけのような仕事ぶりでした。 
 しかし、数年前の父との会話から、実は論文を書くより人とよく交わり、形にとらわれない、思いのままの文章を書くのが好きだ、ということを初めて知りました。その様な父ですから、シベリア抑留記としての書き始めは、思いのままから始まったと思われますが、書き綴るにつれ、人生で残したい事柄となり、更には後世に残さねばならない仕事に変化し、その思いが、書き続ける原動力となっていったのではないかと思います。 
 今、飽食の時代と言われながら、貧困や見えない未来に大きな不安を抱える人が多く、自死する人数はまるで戦争中のような数だと聞きます。今を生きる読者の皆様には、生きることを否定された時代があったことを知り、何が間違っていたのか、何が必要なのかを『一塊のパン』の言葉から感じ取っていただければと思います。 
 最後になりましたが、出版に至るまでの中国書店の方々はじめ、編集に関わられたすべての皆様に心より感謝申し上げます。 
 
【11/1〜6スケッチ・パネル展に500人が来場】 
 11月1〜6日東京・九段の九段生涯学習館ギャラリーで千代田・人権ネットワーク、韓国人元BC級戦犯者「同進会」を応援する会と共催しましたスケッチ・パネル展には多数のご来場ありがとうございました。 
 約500人が来場くださり、連日のギャラリートークでは、絵巻物の作家澤田精之助さんの姪の下山礼子さん、韓国人元BC級戦犯者の李鶴来さん、捕虜問題に詳しい内海愛子恵泉女学園大学名誉教授、元抑留者の林照、中島裕さんらがお話くださいました。澤田さんの弟の博さん(84歳)や渡邊昭平さんのご家族も来場、初めて作品と対面されました。 
 好評につき、来年3月に澤田さんの地元の山形県村山市でも展示される予定です。 
 
【公開講座「日ソ共同宣言・シベリア抑留帰還60年 ―日ソ・日ロ関係と帰還者たちの歩み」が終了】 
 10月8日、11月5日、12月10日に大阪経済法科大学・東京麻布台セミナーハウスで開催しました公開講座には、今年も多数のご参加ありがとうございました。 
 加藤九祚先生急逝のため、11月は追悼講座として開催。定子夫人や関係者から貴重なお話を聴かせていただきました。 
 
【訃報】 
<世話人の猪熊得郎さん(88歳)が逝去> 
 当センター世話人で、不戦兵士の会代表世話人、戦場体験保存放映の会呼びかけ人、平和祈念展示資料館(新宿)の語り部などを務めておられた猪熊得郎さんが9月21日、入院中の横須賀市内の病院で急逝されました。死因は肺炎・敗血症。1928(昭和3)年東京生まれ。享年88歳。 
 二つ上の実兄は、海軍の人間魚雷回天特攻隊白龍隊員として沖縄出撃途上、18歳で戦死。自身は15歳で志願し、満州で敗戦。17歳の時にソ連に抑留され、2年後19歳で帰国。 
 晩年、戦争体験を語る活動に参加し、戦争反対を訴え続けてこられました。 
 今年8月23日に国立千鳥ヶ淵戦没者墓苑で開催された「シベリア・モンゴル抑留犠牲者追悼の集い」の最後に閉会の挨拶をされたのが、公の場での最後の発言となりました。心よりご冥福をお祈りします。 
 告別式は9月26日に行われました。しのぶ会が関係5団体の呼びかけで12月18日に大阪経済法科大 学・東京麻布台セミナーハウスで開催されました。 
 
<全抑協福岡県連元会長舟越甲一さん(91歳)が逝去> 
 全国抑留者補償協議会の副会長で、下屋敷之義さんの後を継いで福岡県連最後の会長を務めた舟越甲一さんが7月7日に脳出血のため逝去されました。1924(大正13)年生まれ、ライチハの第19収容所に抑留され、炭鉱・建築・農場労働に従事、1948年9月に舞鶴に帰還。享年91歳。心よりご冥福をお祈りします。 
 
【編集後記】 
● 関連情報が多く、今年は4号の発行になりました。今後も年4回(季刊)発行を継続できるか検討中です。印刷コストも上昇していますので、厳しいところです。 
● お預かりしている原稿や書評などが一部収録できず、次号送りになりました。ご容赦ください。次号は来年3月発行予定です。 
● 今年もご支援ご協力ありがとうございました。皆様お元気で、よい年をお迎えください。<有光> 
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編集・発行:ソ連による日本人捕虜・抑留被害者支援・記録センター 
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