2017年02月03日11時28分掲載  無料記事
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手塚治虫著 「マンガの描き方  〜似顔絵から長編まで〜 」

  マンガの巨匠である手塚治虫が書き下ろした「マンガの描き方」という本を筆者が初めて手にしたのは小学校の5〜6年生の頃だった。この本には一冊の中に漫画を描く道具や起承転結を基本としたストーリーの作り方、絵を描くコツ、遠近法の基礎などの基本情報がつまっていた。 
 
  しかし、本書ならではの特徴は漫画家を目指す人だけでなく、親や教師などの生活者も漫画を描くことでコミュニケーションに役立てることができる、と訴えていたことだった。ストレートな言葉よりも漫画を使うことで柔らかいコミュニケーションが可能になると手塚は考えていた。だから、教育の場でも家庭でも漫画をコミュニケーションに役立ててほしいと手塚は書いていた。学校も家庭も権力の支配する空間であるがゆえに漫画を描くことでそうしたこわばりから解き放たれる必要があるというのである。 
 
  今日、日本の漫画作品は世界各地で読まれており、漫画の描き方の本もより専門分化している。絵に関して言えば遠近法なら遠近法で一冊本が書かれているし、しかも遠近法の入門書だけでも複数出ている。また背景の描き方、人物の動作、キャラの作り方、SF世界の描き方、同性愛カップルの描き方、萌えるキャラ・・・それぞれかなり高度なテクニックだ。さらに、漫画のドローイングということになると、美術顔負けのデッサンの基礎が教えられているものもある。もうこうなると、芸大の美術学科に近い。 
 
  こうした漫画入門書の百花繚乱は非常に結構なことだし、アニメーション作家にも実際に役に立っていると思う。しかし、その一方で漫画の敷居があまりにも高くなりすぎている気がする。漫画にあまりにも高度のテクニックが必要だ、というのが常識になったら、普通の人が漫画を描くのが難しくなってしまう。ツイッターやソーシャルメディアでコミュニケーションのために自分の表現として漫画を描いている人はとても少ない。漫画は商品でなければならないかのようだ。 
 
  あるいはその逆に、ソーシャルメディアが揃えた記号的な顔を使うケースは増えている。この場合は選択することしかできないから、本来の自己表現とは遠い。今日私たちはコミュニケーションではなはだ高度な技術を使うか、顔マークを選ぶしかないのだろうか。私は顔マークを使うことになれてしまった人間というのは自分の内面の感情を既存のシンプルな記号に置き換えることに抵抗感、違和感を持たない人になっていく気がする。そしてそのことは回りまわっていくつかの記号で表現できる単純な感情の人を作り出していくような気がするのだ。漫画は自分でペンを持って実際に描いて見るとわかるけれども、目の黒い点の微妙な位置の違いだけで、無数の表情が生まれるものである。 
 
  フランスでストーリー漫画はBDと略称されており、フランスはフランスで高度の色彩感覚やデッサン力、表現力が求められており、優れたテクニックを持った作家がたくさん出ている。しかし、フランスにもそういうストーリー漫画系の作家とは別に落書き的な、簡単な線一本で勝負するタイプの漫画家もいる。こちらはアイデア1つが勝負の世界である。そしてできる限り描き込まないで、描くものが最小限であればあるほどよい。どれだけ線を描き込むかではなく、どれだけ線を減らせるかが勝負なのだ。 
 
  手塚治虫は「マンガの描き方」で漫画は落書きでいいんだ、ということを繰り返し語っている。漫画があまりにも立派なものになってしまって、それくらい完璧に描けなかったら漫画にはアクセスできないんだ、ということになると、それは漫画の精神に反するものだというのが手塚の根本的な考えだった。漫画は本来、権力者から与えられた枠からはみ出すものなのである。 


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