2017年11月03日12時07分掲載  無料記事
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アジア

仏教国タイにおける国家と宗教  プミポン国王後への一視点<下>

  プミポン前国王の葬儀が終了して1年間の服喪期間が明けたタイは、再び政治の季節に入ろうとしている。軍政のプラユット暫定首相は、民政移管にむけて来年11月の総選挙実施に言及、タクシン派と反タクシン派の抗争が再燃するものとみられる。だが、これまで何度か政治対立の調停役を担い事態を収拾してきた、前国王はもういない。(永井浩) 
 
▽赤シャツvs黄シャツ 
 
 タクシン派と反タクシン派の抗争は、2001年の総選挙でタクシンの率いるタイ愛国党が圧勝したことに端を発する。この総選挙は、国王の調停によって事態収拾した「5月の暴虐」後の反政府闘争の勝利をうけて、1997年に制定された新憲法にもとづく初めてのものだった。新憲法は、それまでの民主化運動の成果を集大成したもっとも民主的な内容を盛り込み、「人民のための憲法」と称された。 
 
 首相の座に就いたタクシンは、警察官僚からビジネスの世界に転じ通信事業で巨富を築いた新興ビジネスエリートである。同政権は、歴代政権が軽視してきた農村や都市の貧困問題に本格的に取り組むポピュリズム政策によって、農民層や都市の貧困層から絶大な支持を得たが、彼の独断専行的な政治運営や政権に批判的なメディアへの露骨な介入に対して、国民の批判が高まった。さらに、2006年に浮上した首相一族の株売却疑惑を機に、バンコクでは首相の退陣を要求する市民集会が相つぐようになり、2006年国軍が無血クーデターにより全権を掌握、外遊中のタクシンを追放した。 
 
 反タクシン派の中核となったのは、首都の中間層やタクシンと対立するビジネスエリートで、背後に王族や軍部がついているとされる。彼らはタクシンの反民主主義的姿勢や農村部へのバラマキ政治を批判、さらには彼の王室軽視まで問題にした。 
 反タクシン派の集会参加者は、王室のシンボルカラーである黄色の衣服を着用、対するタクシン派は赤色の衣服でデモなどに参加するようになった。赤シャツ派と黄シャツ派は社会の分断の深まりを象徴するシンボルとなった。 
 
 その後、タクシン支持勢力と反タクシン派の対立は先鋭化していく。軍の暫定政権が民政移管して総選挙を行うたびにタクシン派政党が勝利をおさめ、それに反発する反タクシン派が国際空港占拠などの反撃などで混乱が拡大した。そして2010年、反タクシン派のアピシット民主党政権の退陣を求めてバンコク中心部を占拠したタクシン派デモ隊が、軍治安部隊によって強制排除され、約90人が死亡、2000人近くが負傷する流血の惨事が起きた。暴徒化した群衆の一部は、タイの経済成長を象徴する商業センター施設などに放火した。 
 
 一般国民からは、これまでのように国王の調停を期待する声が聞かれたが、プミポン国王は誕生日のメッセージで和解の大切さを説くだけで、ついにみずからが調停に乗り出すことはなかった。その理由は高齢化と健康問題によるものかどうかわからないが、国王といえども解決に苦慮するほどさまざまな要因が複雑にからみあっていたからかもしれない。 
 
 タクシン派と反タクシン派はいずれも民主主義の実現を旗印に掲げている。前者は、タクシンに代表される新興ビジネスエリートと貧しい農民や都市の貧困層を基盤としている。後者は、彼らに既得権益を脅かされると警戒する王族、国軍、官僚などの旧権力層、タクシン派と利権対立するビジネスエリート、経済発展の恩恵を受けてきた都市中間層である。王室には、企業や銀行への投資をつうじてビジネスに関わる有力財閥という側面もある。 
 タクシン派は、民主的な選挙の結果と議会を尊重すべきだと主張する。反タクシン派は、選挙は貧困層の買収などで腐敗していて民主的とは言えないと主張し、投票権の制限や下院の権限縮小を訴える。両派とも一枚岩の勢力ではないものの、それぞれの政治的主張の背後にこうした基本的な経済利害の対立がある。 
 
 新興ビジネスエリートの代表であり、政治のトップに上りつめたあとも自らの一族の利権追求をやめなかったタクシンが、なぜ貧困層の救済に力を入れたのか。タイ経済のさらなる発展のためには貧困層の底上げが不可欠というのが、タクシノミクスの狙いだったとされるが、彼の真意はかならずしも明確ではない。ただ、はっきりしているのは、国民の多数を占める農村と都市の貧しい人びとは彼の貧困政策を支持してタクシン派に投票をし続けたという事実である。 
 タクシンの真意がどこにあれ、彼の政策によって農民や都市の貧しい人びとが自分たちの一票が政治を動かすことができるのだという政治意識に目覚めさせられたことは否定できないだろう。彼らはこれまでの経済発展を縁の下で支えながらその恩恵にじゅうぶんに与れず、開発の過程からも排除されてきた。彼らがその過程に参加できる希望を与えてくれたのがタクシンである。彼らにはまだ独自に国政を動かせるだけの組織的な発言力はないものの、いまや無視できない政治アクターとなり、民主化の闘いに階級闘争の様相をくわえた。 
 
▽「タイ式民主主義」から「真の民主主義」へ 
 
 2014年にプラユット陸軍司令官が実権を握った軍の暫定政権は、タクシンの妹インラックが率いるタクシン派政権を崩壊させたあと、同派勢力の切り崩しに躍起となってきた。5人以上の政治集会の禁止につづき、軍政に批判的なジャーナリスト、研究者、市民運動活動家、弁護士らが相次ぎ拘束された。インラックを首相在任中の職務怠慢を理由に訴追、今年8月には彼女が最高裁判決前に国外逃亡する事態となった。 
 国王の死去後は国王や王室を誹謗・中傷したとする不敬罪による逮捕者が急増した。軍政は王制護持を柱に国内安定を図ろうとしている。 
 
 しかし、ワチラロンコン新国王には前国王にたいするような国民の尊敬の念はまだ確立されていない。新国王は、皇太子時代に私生活にかんするスキャンダルが何度か噂され、王位継承をめぐっては、おなじく王位継承権を有するシリントン王女のほうが国民には人気があったほどだ。プミポン国王のような卓越した政治的バランス感覚がのぞめるのかどうかは未知数である。仏教の正法の実践者であると同時にサンガの擁護者として正法の維持に貢献するという、伝統的な国王の役割が果たせるのかどうかも注目されよう。 
 
 タイの現代史をたどるなら、それは社会・経済的な変化に適合する民主政治のあり方を模索する試行錯誤の軌跡であり、民主化は複雑な一進一退を経ながら確実に前進してきているといえる。 
 一握りのエリートが「立憲革命」で切りひらいた議会制民主主義が、王制と軍政との関係のなかで学生・知識人らが主導した「学生革命」によってそのすそ野を広げ、さらに経済発展とともに新興ビジネスエリートや都市中間層も民主化の舞台に登場してきた。だがそのドラマは、バンコクを中心とした都市で展開されてきた。国民の多数をしめる農民・労働者も当然、しかるべき役割を果たすべきであるにもかかわらず、彼らはこれまで参加を拒まれてきた。いま起きている混乱は、民主化の舞台が都市から農村にまで全国に拡大され、社会の成員すべてをそれぞれの役回りでドラマに巻きこもうとしていることによるものといえよう。 
 
 その意味で、「タイ式民主主義」は役割を終え、タクシン派支持者や市民運動がいう「真の民主主義の実現」を、多元化した政治構造のなかでどうやってめざしていくかの闘いはしばらくつづくであろう。 


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