2018年03月09日20時48分掲載  無料記事
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吸い込んだ石綿の行方は ―『ニッポン国VS泉南石綿村』(原一男監督) 笠原眞弓

 31年前、渋谷の坂をフラフラと歩いていた私。あんな映画撮っちゃって大丈夫? などと考えながら。そ う、原一男監督『ゆきゆきて、神軍』。あの怒りのかたまりのような映像を初めて見た時の衝撃は忘れられない。今回のアスベスト裁判の映画をあの激しい怒りの画面を期待して見ると肩すかしだ。監督自身も言うように、出だしには「怒り」がなく、撮影隊は拍子抜けである。石綿(アスベスト)で被害を受け、肺に病巣をもち、苦しい闘病生活を強いられているにも拘わらず、遺族は「晩年は孫と遊んで笑いながら逝ったから、そっとしておいてほしい」と。 
 
 石綿の健康被害は、何回もマスコミをにぎわす大問題だった。彼らの石綿と自身の生活を語る言葉を丁寧に拾っていく画面。過酷労働のあるところに必ずある底辺労働者の問題があった。全国の仕事にあぶれた人たち、戦中に連れてこられた朝鮮人労働者(石綿は、武器製造に欠かせない鉱物繊維)。彼らは一様に「石綿があったから生きてこられた」「子どもを学校にやれた」と言う。 
 
 画面に写る彼らの家は、確かに立派な住宅だ。その家が持てたという。天草の地区の島からあんなお化粧して、きれいな服を着たいと集団就職で来た人たちの満足。それらの言葉の裏に隠れる日本社会の中の階級差別、また在日に対する差別の仕組みが、見ている私の胸を突いてくる。 
 そうだったのか、だから彼らは感謝の言葉を発するのか……と、却って辛くなる。 
 
 国は、石綿の健康被害を70年前から把握していた。にもかかわらず、経済発展を優先して規制や対策を怠った結果、被害を大きくしていた。いま健康でも明日は知れないのだ。だから1陣(06年)、2陣(09年)を合わせて、59人の、ニッポン国を相手取って訴訟をおこしたのだ。 
 
 勝訴、敗訴を繰り返し、分断判決もありながらそれらを乗り越え、8年半の年月を経てそれぞれ和解と勝訴にたどり着く。 
 
 後半になって、共同代表でかつて石綿工場を経営していた柚岡一禎さんは弁護団に話さずに、官邸に「建白書」を渡すと、言い出す。つまり、司法での決着の他にこの辛さ、国の無責任さのために苦しんでいることを、直接国に伝えたいという思いに駆られ、行動に出るというのだ。その後も、厚生労働大臣との面会を求めて日参する。裁判は、所詮国家権力が裁くのだから、相手(国家権力)に、自分たちの本心を伝えたいというのが、動機だろう。実は、このあたりからがおもしろい。 
 
 すべての裁判が終わって、やっと泉南を訪れた塩崎厚労大臣(当時の)に対して、彼らの取った態度は……。 
 
 病人にとって、8年は長かった。裁判中に亡くなった21人の方の顔写真(遺影)が並ぶラストでは、彼らの言葉がこだましてくるのだった。 
 
監督:原一男  215 分 
公開:2018年3月10日(土)より東京 ・渋谷 ユーロスペースほか 
写真のクレジットは、c疾走プロダクション 
http://docudocu.jp/ishiwata/ 


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