2018年07月27日11時22分掲載  無料記事
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司法

憲法の番人・最高裁はどこへ消えたか 「君が代」斉唱時不起立教員に対する再雇用拒否判決の不気味さ 安倍人事の影も

  7月19日、最高裁は、君が代斉唱時の不起立を理由に退職後の再雇用を拒否された元都立高校教員22名が原告となり、都教委を被告として起こした「再雇用拒否撤回(第二次)訴訟」について、一審東京地裁・二審東京高裁の判決を覆し(取消し)、元教員側の請求をすべて棄却した。不当である以上に、少数意見も反対意見も無い、不気味な恥ずべき判決と言わざるを得ない。(伊藤一二三) 
 
▽一審・二審は「思想・良心の自由」尊重 
 
 東京都(教育長)は2003年、式典での国歌斉唱を都職員に強制する通達を出し、拒否したものを相次ぎ懲戒処分にした。これに対し、最高裁は2011年から2012年にかけて、日の丸・君が代訴訟について相次いで判決を出し、「君が代の起立・斉唱行為には、思想・良心の自由に対する間接的な制約になる面がある」と述べ、「戒告より重い減給以上の処分を選択するには、慎重な考慮が必要だ」との判断を示し、懲戒権者の行政処分に行き過ぎが起きないように一定の線引きを行った。 
 
 今回の訴訟の原告らは、入学式などで君が代斉唱に応じなかったことで戒告などの処分を受けた経験があり、それを理由に2007年から2009年にかけて、退職後の再雇用を拒否された人たちである。一審・二審は、「勤務成績など多種多様な要素を全く考慮せず、日の丸・君が代処分歴だけで全員不合格としているのは、再雇用制度の趣旨にも反し、客観的合理性と社会的相当性を欠くもので、裁量権の逸脱・濫用にあたる」とし、いずれも再雇用拒否を違法として、都教委に総額5370万円の損害賠償を命じていた。先の最高裁判決(判例)をふまえ、憲法における思想・良心の自由の理念を尊重し、教育現場における人事管理の在り方について不当な行政処分が起きないことを促す判決である。 
 
 しかし、今回の最高裁判決は、原告らの行為が「式典の秩序や雰囲気を一定程度損ない、式典に参列する生徒への影響が伴うことは否定しがたい」と述べ、その上で、「当時の再雇用制度は、採用を希望する者を原則として採用しなければならない法令の定めはなかった。勤務成績の評価は任命権者の裁量にゆだねられており、不採用は著しく合理性を欠くとは言えない」として、原告の請求をすべて棄却したものである。今回の最高裁判決は、従前の最高裁判決(判例)や一審・二審の判断について、何ら憲法判断を切り結ぶことをせず、どこかのブラック企業の人事評価説明書のごとき文言を並べたものと言われても仕方がない。 
 
▽最高裁判決への各紙の論調 
 
 この最高裁判決に対し、朝日は「強制の追認でよいのか」(7月20日)、毎日は「行政の裁量広げすぎでは」(同22日)、東京は「強制の発想の冷たさ」(同25日)といった社説を掲げて強く疑問を呈し、他方、産経は「国旗国歌の尊重は当然だ」(同23日)として判決を高く評価した。産経社説では、国家斉唱時に起立しないことを「教員に値しない行為」と非難し、「国旗と国歌を尊重するのは国際常識である」として、非常識な原告らが再雇用されなかったことを当然とし、今後も各地の教育長が校長を通じて職務命令を出し続けることを期待している。その社説の最後には、「先生に国旗や国歌の大切さを教えなければならないのでは、情けない」と原告らを揶揄する言葉まで書きつけている。 
 
 ネトウヨ跋扈の現在、産経社説は世情に受け入れられやすいのかもしれない。しかし、大きな問題点がある。 
 
 一つは、国歌斉唱時に起立しないことは、例えば飲酒運転をした場合、万引きをした場合、わいせつ行為をした場合等々の非違行為(違法行為)を行った場合と比べて、どの程度の重さの問題なのか、その比較衡量が教育長にできるのか、まして、そうした比較衡量をせずに、非違行為(違法行為)を行った教員は再雇用され、国歌斉唱時に起立しなかった教員だけを狙い撃ちにして再雇用を拒否したことが妥当だったのかという問題である。 
 
 国家斉唱時に起立しないことの背景には、思想・良心の自由の問題が厳然としてあり、だからこそ、人事上の懲戒処分に慎重であれというが従前の最高裁判決(判例)であり、先の一審・二審の判決であったと考えられる。産経社説の表現では、国歌斉唱時に起立しないことは、あたかも国家反逆罪であり、一般の非違行為(違法行為)以上に問題であるかのように読める。今回の最高裁判決でも何が原告らの問題行為なのかについて、前記した「式典の秩序や雰囲気を云々」と規定せざるを得なかったのであるが、それが人事管理上の懲戒権の中でどう位置づけられるべきなのか一切関知せず、すべて裁量権があるとしたもので、極めて片手落ちで非論理的な判決と言わざるを得ない。 
 
 二つには、国歌と国旗を尊重するのは国際常識であるとする点であるが、例えばアメリカ合衆国は多民族国家であり、筆者が知るところでは日本以上に国旗への忠誠を強く求められる社会である。しかし、そのアメリカ合衆国でさえ、国旗に忠誠を求めることは、アメリカ合衆国憲法にある「国教樹立の禁止」規定や、「信教の自由」規定に違反するのではないかと、長年の議論と法廷闘争が続けられている。産経社説にもある我国の国旗国歌法は、1999年に制定されたが、その制定の際、当時の小渕恵三首相は国会で「国旗掲揚や国歌斉唱の義務付けは考えていない」と答弁し、個々人に強制しないと強調した。国家観に直結する国旗や国歌についての思想・信条・良心・信仰の多様性は、国際社会の中で生きていかざるを得ない我国においても尊重されるべき基本的人権であり、こうした憲法理念から説き起こされるべき姿勢が今回の最高裁判決には皆無であり、個人よりも国家優先という産経社説も同様である。とすれば、産経社説も今回の最高裁判決も、ネトウヨのバッシング思考と同レベルではないか。まさしく情けない。 
 
 なお、今回の最高裁判決を下した小法廷5人の裁判官の中に、山口厚(裁判長)と木澤克之がいる。山口厚は弁護士枠での最高裁判事登用であるが、日弁連推薦ではなく、日弁連推薦を押しのけたアベ政権御推薦の学者であった。また、木澤は周知のとおり著名な加計孝太郎の立教時代の同級生であり、加計学園の元監事であった経歴を隠していた人物である。言うまでもなくアベ政権御推薦である。今回の最高裁判決は、アベシンゾウとしては「してやったり」という最高裁判決と思われる。憲法の番人であるべき最高裁はどこに消えたのであろうか、既に地に落ちたのであろうか。 
 
▽職場の民主化が急務 
 
 最後に今回の最高裁判決の悪影響を少しでも除くための提案を。 
 
 筆者の知る限り、全国には良識的な裁判官も数多くいる。彼ら(彼女ら)が今後も良心に従って裁判が行える環境を整えることが必須である。また、子どもたちが抱える貧困や被虐待等の問題に苦しみながら向き合う教職員も数多くいる。彼ら(彼女ら)が教育現場で思考停止に陥らない風通しの良い職場をつくること、そのためには人事管理におけるきめ細やかな指導と管理強化の境目が曖昧になることを許さない職場の民主化が急務だと思われる。 


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