2018年08月25日09時47分掲載  無料記事
http://www.nikkanberita.com/print.cgi?id=201808250947436

司法

家庭裁判所と少年非行に何が起きているのか 家裁調査官が見た40年の変遷◆‘販専門官職の気概が薄れる

  1979年、家庭裁判所は設立30周年を迎えていた。その翌年、私は家庭裁判所調査官補として大阪家庭裁判所(以下、大阪家裁)に採用された。戦後、新職種として生まれた家庭裁判所調査官(以下、家裁調査官)は、百家争鳴状態ではあったが、家庭裁判所調査官研修所という職種独自の中央研修制度を持ち、少年事件だけでなく家事事件への調査関与を拡大しつつあった。そこには、裁判官は少年の「非行事実」の司法判断を行うが、家裁調査官は少年の「要保護性」(少年の生い立ちや性格、家庭環境や学校・職場環境等)に関わる独立専門官職として意見を述べるという気概があったと思われる。(伊藤一二三) 
 
 しかし、時代は急速に暗転する。1980年4月〜7月の中央初任研修で、『家裁調査官はケースウォーカー(ケースワークとウォーカーの合成造語:自分の足で現地を歩きながらケースワークを果たせの意味)であり、ケースに学んで家裁調査官になれ。そのために家裁調査官補として4年という長い研修期間が必要である』等々の指導を受け、原庁である大阪家裁に戻った私は、その年の秋に突如、養成期間を4年から2年へ短縮するという制度改編(1984年完全実施)を告げ知らされた。家庭裁判所発足にあたり、戦後まもなくに採用された年齢層が大量退職となることへの弥縫策とは言え、安上がり研修で調査官を促成栽培するとしか考えられなかった。なお、この養成制度改編と引き換えに、最高裁事務総局家庭局には家庭審議官及び第三課長という新ポストが置かれている。以後、これ以上の家裁調査官の最上級ポストは作られていない。いわば、家裁調査官制度の頂点の時期だったと考えられる。 
 
 並行して大阪家裁の職場では、全国に先駆ける形で、個々の調査官に事件処理月報が義務付けられ、画一的な『事件処理要領』をつくることが必須とされる管理強化が開始されていた。職業人として業務報告をすることは必要としても、当時、特に少年部は事件繁忙に追われており、毎月1回の処理月報作成の時間すら取れない状況にあった。調査官室全体で行われる部屋会では、心ある主任調査官やベテラン平調査官が疑問を発したが、次席調査官が「お前は馬鹿か」といった罵声を上げる場面が繰り返された。今ならパワハラである。中央初任研修で『家裁調査官は紳士たれ』と教わったはずであったが、自らを『調査官研修所の元鬼軍曹教官』と自称するヒラメ志向の強い次席調査官には本当の紳士というものが全く理解できていなかった。 
 
▽戦後少年非行の第二次ピーク 
 裁判所内の唯一の組合である全司法では、1981年以降、「家庭裁判所を考える集会」が全国的に開かれ、家庭裁判所及び家裁調査官制度の変質等が議論されたが、最高裁は1982年に「首席調査官等に関する規則」を制定し、1984年に「少年事件処理要領モデル試案」を発し、ケース・スーパーバイズを取り入れたものと詐称した『指導監督』制度が管理業務の一環として体制化された。職種内ヒエラルキーが強化・固定化されつつ、初任者への全国的・画一的養成プログラムとともに、平調査官への画一的事件処理の管理強化が図られ、全国的に展開されていくことになった。私は、養成制度改編の過渡期にある家裁調査官補として、3年目に中央養成部研修に入った。この養成研修では、家裁調査官の独立専門官職としての気概ではなく、『(裁判官にお仕えする)裁判所職員であること、組織人としての自覚』が強く求められるようになっていた。 
 
 なお、「家庭裁判所を考える集会」に合わせて、新たな養成制度改編に反対する家裁調査官補運動が形成され、中央養成研修後、3〜4年目に原庁に戻った際、少年事件・家事事件を各1年ずつ担当し、いわば準養成期間とすることを最高裁に認めさせた点は全司法の運動成果であった。 
 
 1983年3月、私は家裁調査官に昇任し、大阪家裁少年部に配置された。この年は、戦後少年非行の第二次ピークの時期で、全国の少年非行総数が約70万件であった。 
 
 現場である大阪家裁では、処理月報が義務化され、事件処理の短期・迅速化が強調されるようになり、その1年後には少年の補導委託件数が半減してしまうといった職場実態に陥っていた。補導委託とは、非行少年を篤志家の受託主に預け、家裁調査官が試験観察をしながら、社会内での更生を図る方法であり、家庭裁判所自らが実施する少年法ならではのケースワーク処遇である。ただ、補導委託期間は少なくとも半年程度であり、実務としては時間を要することになる。私は、心密かに『家裁調査官の専門性って何だ』と怒りを深めざるを得なかった。 
 
 付言しておけば、この頃から家事事件においても、事例ごとの『包括調査』ではなく、裁判官に指示された特定部分に関する『部分調査』の考え方が優先視され、調査官の調停立会方式の導入にも繋がっていく。家庭裁判所における少年・家事の業務を全国的に平準化する必要性はある程度認め得るとしても、全国各地にはそれぞれの地域特性や実情があって配慮されるべきであり、ましてや、人の心を扱う臨床現場に一律的に効率や迅速といった考え方を優先的に導入することの弊害は大きかった。一言で言えば、少年・保護者や当事者を、「人として接遇し、その自主的問題解決を援助する」のではなく、「事件として処理する」体制にシフトし始めた時期といってよい。 
 
▽「ミスター司法行政」による裁判所職員宣誓書の改正 
 時代は、レーガン政権に従属した中曽根政権(1982年11月〜1987年11月)が、1983年、「日本は(アメリカにとっての)不沈空母である」と発言し、1985年、臨教審を設置、1986年、行政改革と称して国鉄分割民営化(1987年4月、JR6社発足)を強行していた。1985年、労働者派遣法制定、1987年、労働基準法改悪(裁量労働制の一部導入)もなされている。1985年、『プラザ合意』がなされ、円高が進行する中、1986年頃から日本は地価と株価が暴騰するバブル景気となり、世の中は一見浮かれていた。市場原理優先の新自由主義経済が謳歌され始め、対照的に、1989年、ベルリンの壁が崩壊、1991年には社会主義国の象徴であったソビエト連邦が崩壊、ロシア共和国へと体制変化した。 
 
 この間、1987年、現在の企業内組合の連合体である『連合』が結成され、1989年、『総評』(日本労働組合総評議会:1950年設立)は解体して『連合』に合流、同年、『全労連』結成がなされている。労働運動の退潮は著しく、全司法の組合組織率も1980年の組合員総数18000人以降、低下傾向に歯止めがきかず、毎年500人以上の脱退者を数えていた。 
 
 最高裁では、『ミスター司法行政』と呼ばれた矢口洪一が長官(在任:1985年11月〜1990年2月)となり、1986年、裁判所職員宣誓書が改正され、『憲法に従い、国民に奉仕する』との文言の中に、『上司の命令に従い』という一言が挿入されている。(つづく) 


Copyright (C) Berita unless otherwise noted.
  • 日刊ベリタに掲載された記事を転載される場合は、有料・無料を問わず、編集部にご連絡ください。ただし、見出しとリード文につきましてはその限りでありません。
  • 印刷媒体向けの記事配信も行っておりますので、記事を利用したい場合は事務局までご連絡下さい。