2018年08月26日13時43分掲載  無料記事
http://www.nikkanberita.com/print.cgi?id=201808261343000

司法

家庭裁判所と少年非行に何が起きているのか 家裁調査官が見た40年の変遷 管理強化の進行、非行態様の変化

  1990年、私は、大阪家裁、静岡家裁沼津支部勤務を経て、横浜家裁に配属された。少年非行はピークを越えたとは言え、1995年頃までは繁忙であり、私は軽微事件処理班(特別班)に配置され、短時間面接と簡易報告書作成を求められつつ、『そんな簡単に事件処理なんてできない』と抵抗感を抱いていた。非行少年像で言えば、1980年代までの暴走族少年といった伝統的不良少年像では捉えきれないチーマー少年(伝統的な不良文化を持たず、組織的にも小規模化し、渋谷センター街などに集まるチーム少年)、厳つい反抗的態度はとらないものの、何を聞いても「べつに」しか答えない少年(私は『知らん、わからん、べつに症候群』と呼んでいた)などが現れており、希薄な人間関係の中を浮遊する少年たちと日々取り組んでいた。非行態様としては、伝統的な恐喝が少なくなり、オヤジ狩りやひったくりといった非行が増えていた。(伊藤一二三) 
 
 非行少年が遊興費を欲しいと思うとき、伝統的には「カツあげ」という恐喝行為を行うのが一般的である。しかし、「カツあげ」を実行するには、駅前などで相手(カモ)を探し、目を付け、「○○中学卒?」などと声をかけて接近し、「ちょっと金かしてくんない?」と交渉する必要がある。そもそも相手として、被害者になっても警察に簡単に訴えないような不良、そして、いざ喧嘩となった場合、自分よりも腕力で劣るであろう相手を選ばねばならない。つまり、「カツあげ」には、対人認知や対人交渉力が必須であるが、こうした対人関係の術を苦手とする非行少年が増え、深夜の飲食街で後ろから襲い掛かって金品を強奪する(オヤジ狩り)、原付バイクで接近し通行人のバッグを奪い取る(ひったくり)といった非行態様に変化していると考えられた。罪名としては恐喝ではなく、強盗になってしまうが、当の本人たちにはそんなことへの配慮が無かった。(こうした少年たちの傾向は、2000年代以降のインターネットの普及とともに、オレオレ詐欺といった特殊詐欺事件の受け子になることへ繋がっていく面がある。) 
 
 しかし、私事を許してもらえれば、この年代、私は結婚し、二人の子どもができ、そして妻を喪った。幼児を抱えた私は、子育てを第一にせざるを得なかったし、職場は二の次、組合活動は五の次といった事情にあった。 
 
 1980年代に始まった家裁調査官の育成や調査実務に関する管理強化は、1990年代には全国に行き渡り、少年調査票・報告書の査閲は日常化し、1年以上を長期未済といっていたものが、6か月以上となり、3か月以上へと変化した。併せて、試験観察や補導委託における少年の逃走や再犯等について「事故報告書」の提出が求められるようになり、個々の家裁調査官の個人責任だけが問われる傾向が強まった。このことが人事評価にも繫がる懸念が大きく、家裁調査官による在宅試験観察や補導委託は一層減少することとなった。 
 
 ここで、家庭裁判所外の話題を提供しておきたい。家庭裁判所内部では全く話題にもされていなかったが、1977年、法務省矯正局から局長通達「少年院の運営について」が発出されている。この通達は、現在までの矯正教育の原点として矯正職員には神聖視されているものであり、その内容は少年院処遇の個別化と収容期間の弾力化(短期少年院・特修短期少年院制度の設置)等を明らかにしたものであった。この通達に基づいて、1980年頃から短期少年院の具体化が始められている(通常、少年院収容は1年であるが、短期少年院は収容期間を約6か月、特修短期少年院は3か月とするものである)。 
 
 この通達の背景事情としては、1966年には年間8000人以上あった少年院送致(少年院収容者)数が、1974年には1969人にまで減少し、少年院の統廃合等が問題となったことがある。この当時、少年非行は1964年の少年非行総数約110万件という戦後少年非行の第一次ピークを過ぎ、少年院収容者数が減少していたことに加え、劣悪な少年院環境への疑問、社会的ラベリング理論の視点の高まりもあり、家庭裁判所でも少年院収容ではなく、補導委託等の社会内処遇を熱心に開拓していたという事情もあった。 
 
 そして、法務省矯正局の想像外の出来事として、家庭裁判所の現場での補導委託や在宅試験観察への消極さが加わり、1985年頃から2001年にかけ、少年院収容者数は3000〜4000人台へと回復する。家庭裁判所内での「危険を賭して補導委託や在宅試験観察をするくらいなら短期少年院へ」といった処遇選択が優位になった結果であり、とりもなおさず、家庭裁判所自身による厳罰化が起きていたと言わざるを得ない。 
 
▽「診断」のマニュアル化 
 もう一つ、家庭裁判所外の話題がある。これも家庭裁判所内部では深く議論されなかったが、1980年にDSM(精神障害の診断と統計マニュアル)第3版がアメリカ精神医学会から刊行されている。DSMは、米国における精神科治療への保険適用を確保するために、乱立する精神疾患概念を整理し、一定の診断基準を確立する必要性から策定されたものであるが、DSM第3版の特徴は「診断を確定するための操作主義の徹底」にあった。即ち、各疾患の現在の症状を機械的に分類整理することで診断名を確定し、できるだけ精神科医の流派によって診断名が異なることが無いようにした点にある。 
 
 背景には1960年代以降の精神分析学の退潮と対立混乱があり、精神医学の社会的安定度を増すためにやむを得ない事情もあったが、この操作主義の徹底は、裏を返せば、精神疾患の発生原因や生成過程を不問にしても構わないといった考え方に繋がりやすかったと言える。このDSMは、現在第5版に至っているが、今なお、裁判の精神鑑定における基本的診断マニュアルである。 
 
 この当時、家裁調査官の間でも精神分析的な観点、非行理解は退潮化しており、代わって、家族システム論等に基づくと称する短期精神療法や家族療法の(安易な)強調が始まっていた。この流れが、2000年代以降の認知行動療法を重視する考え方に繋がっていく。また、脳機能微細損傷群などといったことが言われ始め、ADHD(注意欠陥・多動性症候群)が診断名として職場に定着し、1990年代後半から発達障害、アスペルガー症候群(現在は自閉症スペクトラムへ)といった診断名が出始める。 
 
 要約すれば、非行原因について、関係論的視点から器質論的視点へと重点が移動し、非行がなぜ起こり、どう生成されてきたかと問うことは無用に近いものとされ、非行態様の要因整理(分析?)と対症療法的な非行防止策が重視されるようになったと考えられる。 
 
▽子供の権利条約が反映されない非行少年排除の風潮 
 時代は、東西冷戦が終わり、ソ連崩壊後の単独王座復活を望む米国は、1991年の湾岸戦争で世界の憲兵を自認するようになり、1995年以降、米ドルを世界から還流させ米国株式(ダウ)だけが突出して成長するグローバル経済を確保していく。 
 
 日本では、1990年代の初めまで、バブル景気の中で「ジャパン・アズ・ナンバーワン」などと誤認した風潮に満ちていたが、1991年から1993年にかけてバブル景気が崩壊、経済再生ができないまま、「失われた20〜30年」が始まることになった。筆者は個人的には、東西冷戦の終結以降、日本は米国に経済的に収奪される対象に変化したのではないかと考えている。そして、1995年に阪神淡路大震災が起こり、オウム真理教事件が起きる。20世紀末の暗さも加わったかのように、政治も社会思潮も右往左往し、混乱した。 
 
 この間、1985年頃から、南京虐殺や沖縄戦における集団自決(自爆)、さらには従軍慰安婦問題について、旧大日本帝国軍隊の関与を否定するといった恥ずべき言説が横行するようになる。1993年、細川護熙を首班とする8党連立政権が成立したり、1995年、村山富市政権のもとで「歴史を教訓に平和への決意を新たにする決議(不戦決議)」がなされたりしたが、1994年には政治改革と称して小選挙区制が導入され、1996年には改正PKO法案が成立、日米防衛協力の指針(日米ガイドライン)の見直し成立がなされている。そして、同年、「新しい教科書をつくる会」も発足した。 
 
 裁判所では、1990年2月、矢口洪一の後を受け、草場良一が最高裁長官となり(〜1995年11月まで在任)、1990年、家裁調査官補採用試験に新たに法律コースが増設され、1992年に「最高裁は全司法を敵視しない」という労使協調路線が打ち出された。組合組織率の低下が止まらない中、対立一辺倒では解決しない組合側の現実もあり、労使協調について全司法本部も受入れ、組合運動の成果と強調した。ただ、1970年頃までと異なり、労働組合など恐れるに足りない存在になっていたという世情でもあった。その後、1995年11月に、三好達が最高裁長官となり(〜1997年10月まで在任)、法曹人口の増加、司法研修期間の短縮、裁判の迅速化等が図られ、1997年2月、裁判所速記官の養成停止が決定されるに至っている。 
 
 子ども・少年の世界に関しては、1989年、国連が子どもの権利条約を採択し、1994年、ようやく日本政府は条約を批准したが、裁判所内では職員への学習機会を設けることもせず、判例にも十分反映されない状態であった。1993年、「山形マット死事件」の少年審判問題で、最高裁は家裁の「非行事実の認定機能」に強く疑念と不安を抱くようになり、1997年、酒鬼薔薇聖斗事件が起こり、少年非行は減少の一途を辿っているにも関わらず、マスコミは少年非行の増加、凶悪化、低年齢化を喧伝し、米国に倣って、ゼロトレランス及び厳罰スキームの導入が必須とされるようになる。非行少年は社会や大人が保護すべき対象から、社会にとって不気味で危険な存在であり、排除されるべき対象へと転換した。日本の子ども・少年は、一見豊かな社会の中で幸せそうに見えながら、子どもの権利条約にある意見表明権や子の最善の利益の保障をすべき存在とはかけ離れた存在になりつつあったと言ってよい。(つづく) 


Copyright (C) Berita unless otherwise noted.
  • 日刊ベリタに掲載された記事を転載される場合は、有料・無料を問わず、編集部にご連絡ください。ただし、見出しとリード文につきましてはその限りでありません。
  • 印刷媒体向けの記事配信も行っておりますので、記事を利用したい場合は事務局までご連絡下さい。