2018年09月09日10時54分掲載  無料記事
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反戦・平和

軍事研究と平和憲法� 〃鎧�産業の復活 矢倉久泰

  日本国は敗戦後の日本国憲法で「二度と戦力を持たない」と誓いましたが、その後の政権は「防衛のために」「安全保障のために」と、軍事研究を水面下で進めてきました。一方、米軍も日本の研究者に多額の資金提供して、研究成果を米軍強化に利用しようとしてきました。こうした戦後の「やばい」軍事研究の動向を、年代を追って調べてみました。 
 
▽朝鮮戦争を機に団体発足 
 戦前の軍事産業は、1945年、敗戦のポツダム宣言受諾によって解体されました。戦前大もうけした軍事産業の火は消されたのです。しかし、わずか5年後、1950年の朝鮮戦争を機に息を吹き返します。 
 
 1951年9月、対日講和条約とともに日米安全保障条約が調印されますと、さっそく旧軍事産業は10月には、「日本技術生産協力会」という名の団体を発足させます。一見、軍事とは関係のなさそうな団体ですが、会長になったのは三菱重工業の郷古潔。郷古は戦前、三菱重工業の社長として零式戦闘機(ゼロ戦)や軍艦、兵器生産の指揮に当たり、東条英樹内閣の顧問を務めていました。大政翼賛会の生産拡充委員長にも就任し、敗戦直前には軍需省の顧問でした。戦後、A級戦犯で逮捕されて巣鴨拘置所へ。出所後、公職追放されましたが、1952年4月の対日講和条約発効で公職追放は「自然消滅」、郷古は日本生産技術協力会という公的な仕事に就けました。戦前の軍事産業の「主」(ぬし)が戦後、再び軍事産業の指導者にカムバックしたのです。 
 
 吉田茂首相は1952年3月の参院予算委員会で「自衛のための戦力は違憲にあらず」と答弁し、8月に保安庁を発足させ、技術研究所を設置します。技術開発官として、陸上担当(陸将)、船舶担当(海将)、航空担当(空将)、誘導武器担当(技官)を置き、民間企業の技術協力を得て、兵器の研究開発に乗り出します。九〇式戦車の研究開発には、三菱重工業など1500社以上が協力したといいます。 
 
▽「兵器」を看板にした団体に 
 日本技術生産協力会は、この年(1952年)、「兵器生産協力会」に改称されます。「兵器」という看板をモロに使った軍事産業の団体です。経団連(経済団体連合会)も同じ2年に「防衛生産委員会」を立ち上げ、兵器の自主開発や国産化を防衛庁や政府に働きかけるようになります。兵器生産協力会は1953年10月に「日本兵器工業会」に改称します。これらのいずれの団体も、郷古潔がトップを務めたのです。 
 
 「60年安保」のあと、佐藤栄作内閣が策定した第3次防衛力整備計画(3次防 1967年〜71年度)は、高度経済成長真っ盛りのときで、防衛費を大幅に増額し、陸海空の兵力を増強のために、初めて装備の近代化・国産化を前面に打ち出します。そして「民生協力の充実」も謳いました。軍事産業に特段の協力を求めようというものです。この3次防策定の背景には、経団連防衛生産委員会の働きかけがあったと言われます。 
 
 日本は「戦争放棄」の平和憲法を制定したにもかかわらず、こうして着々と軍事国家として歩み始めるのです。そして、軍事産業界はますます「膨張」していきます。 
 
▽「最高水準の装備品」を研究開発 
 1980年には、経団連防衛生産委員会、日本兵器工業会、日本宇宙宇工業会、日本造船工業会、日本電子機械工業会などが出資して「防衛技術協会」が発足します。本田宗一郎が名誉会長、井深大が特別顧問になり、経済界挙げての「防衛技術」開発に当たることになります。その設立趣意書にこうあります。「最高水準の装備品を、自らの努力と創意で研究開発し、実用化できる体制を官民の協力で強化する」。軍事研究に向けた、なんとも「気合の入った」趣意書です。会員は1000名、法人と個人が半々。個人の多くは兵器産業界の技術者でした。 
 
 日本兵器工業会は1988年9月に解散し、新たに社団法人「日本防衛装備工業会」になり、現在に至ります。工業会は11の部会(鉄砲、弾火薬、電子、艦艇兵器、哨戒機武器、水中武器、誘導武器など)があり、講演会や委託研究などを行っています。(つづく) 
 
*「子どもと法・21通信」憲法リレートークNO2(2018年3月発行)から転載 


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