2018年09月15日15時45分掲載  無料記事
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労働問題

<武建一語り下ろし>関生型労働運動とは何か(4)日経連会長大槻文平「関西の生コン闘争は資本主義の根幹を揺るがす」

 このような産業政策闘争が広がっそれが産業の民主化とか経済の民主化、さらには政治の民主化につながっていく。それは必然的に熾烈な闘いになります。それは文字通り総資本との闘いでした。(構成:大野和興) 
 
 
■セメント独占資本・国家権力との闘い 
 
 一九八○年代はじめ、当時の日経連の大槻文平会長が、「関生支部(当時は、全日本運輸一般労働組合関西地区生コン支部)に弾圧を加えて徹底的に潰せ」と指示しました。そして「関西の生コン闘争は資本主義の根幹を揺るがす人民公社のような運動だ。絶対に箱根の山を越えさせるな」というキャンペーンが張られました。ですから、解雇はあるし、分裂させられるし、警察による弾圧もある。 
 
 闘争が最初のピークを迎え、「三二項目協定」という産業別的雇用政策、福祉政策、労働条件のあり方を網羅した協定が労使間で合意された一九八二年には、セメント独占による関生支部対策シフトが確立され,これに対応して東淀川署には「関生対策本部」が設けられました。弾圧の体制もまたピークが来たわけです。それはまさに総資本との闘いでした。 
 
 関生支部の組合役員らが一四人逮捕され、関生支部潰しの嵐が吹き荒れました。翌年一九八三年には、大手企業が連合した「弥生会」という団交委任機関が作られ、これが以前に合意した労資の協定を破棄しただけでなく、これまで闘いとった権利や労働条件を反古にした。組織破壊のためには手段を選びませんでした。組合役員が暴力団に殺される事件も起きましたし、私も何度かやくざに殺されかけました(注:資料50年史から)。 
 それでもわれわれが動揺しなかった力の源泉は、学習と実践です。資本主義は内部からの矛盾で死滅せざるをえない歴史的経済制度だという世界観と理論の筋道がわれわれにははっきり見えています。権力が一時的にわれわれを凌駕しているように見えても、それは、団結の条件を作ってくれているのだと考える。だから弾圧に強いわけです。私が三生運送•佃支部ではじめて労働運動にかかわった頃、勝又十九二さんという組合長から教わったのも同じことでした。いま、後で述べます労働学校を作ろうという発想も、そういう確信を持ったリーダーを養成しなければ敵に勝てない、と考えるからなのです。 
 
■関生魂の起源 
 
 個人的なことを申し上げるのをお許しください。私は一九四二年に徳之島で生まれ、中学を出て働いていました。一九六一年に大阪に出てきましたが、全く何も知らなかった。その私が組合運動に関心を抱いたきっかけは、労働組合を御用組合から脱皮させようとした勝又十九二さんが解雇されたことでした。わたしは、勝又さんから、政治闘争、思想闘争をやらない限り、強い労働組合にはならないということを学びました。勝又さんが住んでいた宿舎は「勝又学校」と呼ばれていて、その指導力は凄いものでした。その勝又さんから、「経済学教科書』を読めといわれましたが賃金の本質とか剰余価値とか、当時は全く理解できませんでした(笑)。 
 
 勝又さんの解雇撤回闘争のさなか、私は組合の教宣部長に選ばれます。勉強しなくてはいかんということで、西淀川労働学校に通いました。そこで学んだことを、こんどは一般の組合員に教える訳です。これで学んだことが自分のなかで血肉化して行きました。労働学校に行って生き方がコロッと変わりましたね。私は、幹部の解雇から親会社による会社潰しにまで至った関扇運輸の争議の経験を経て、全自運大阪地本の石井英明さんの指導の下で、一九六五年一〇月、関西地に生コン支部の結成に参加し、委員長に選出されます。わずか五分会一八三人です。隔世の感に堪えません。 
 
 結成以後も苦しい戦いが続き、翌一九六六年には私を含め三生佃の三人が10・21国際連帯行動でストライキを打ったことなどを理由に解雇されました。専従はいませんでしたので、解雇された三人がアルバイトや行商で生活を支えながら組合活動の中心的役割を果たしました。無収入でつらかったのですが、そうした実践のなかで理論も労働者としての階級魂も深まったのだと思います。今の関生の「人の痛みを己の痛みとする」という労働運動の原点は、ここから始まります。三人の解雇撤回闘争は一九六九年に裁判で勝利し、一九七〇年に職場復帰を勝ち取ります。この闘争を通して、闘うこと、飯を食うこと、学習することを三位一体で追及しなければならないといことも学びました。 
 
■再び国策弾圧 
 
 二〇〇五年、何度目かの大弾圧が始りました。一月一三日、私が逮捕されます。ちょうど八〇年代に大槻文平が発したのと同じ様な危機感を権力と資本は持ってきたわけです。中小企業と労働者の利益を守って社会的存在感が高まっていくと、必ず権力は弾圧してくる。権力のやり方はいつも同じです。「関生は特殊、閩生は利権暴力集団」と宣伝して、壁を作って関生支部を特殊化し孤立させる作戦によって、経済•産業を民主化する関生支部の運動路線を権力は必ず潰しにかかる。これを繰り返してきているわけです。 
 
 二〇〇七年のサププライムローン問題、二〇〇八年のリーマンショックは「一〇〇年に一度の危機」だと言われるように、資本主義そのものの危機でした。この段階で、我々に対する弾圧はいっそう激化しました。それは彼らの危機感の現れだったのだと思います。 
 
 我々が弾圧されることで何が起こるのか。それは大企業•セメントメーカーが一方的にセメントの値段を上げ、買い手のゼネコン大手が一方的に生コンを買い叩く、ということが起こるのです。そこで犠牲を受けるのは数の多い中小企業です。中小企業の犠牲を目の当たリにして、われわれは二〇〇〇年の段階からバラセメントの協同組合化、輸送事業の協同組合化、それから中小企業を主体とした業界のまとまり、阪神地区生コン協同組合の設立、圧送協同組合の設立に取り組みました。これらが「中小企業による中小企業のための協同組合」としてスタート」します。 
 
 そうすると中小企業も個社競争の原理でなく、協同型、公平性を求めるわれわれとの共闘体制へと傾斜するようになってきた。われわれの運動路線が中小企業の実利確保に非常に有効であるということが、中小企業経営者にわかってきた。いっぽうで、セメントメーカーも関生型運動というものの怖さに気が付きます。関生型運動の産業政策運動の重要性が広がっていくと、一気に全国に火が付いてしまうとい危機感が背後にあったのだと思います。 
 
 例えば、当時日本共産党系の建交労も含めた五労組が一緒になって、教育•研究機関をつくろうと取り組んだのですが、建交労は入り口段階で、労使が一緒になった研究機関•学習機関をつくることはできないと抜けた。あとで分かったことですが、セメントメーカーがこれを嫌ったようです。 
 
 それならばと、全港湾大阪支部と生コン産業労組とわれわれの三者が主体になって、各協同組合なり工業組合団体並びに個人によって研究機関をつくろうと立ち上げ!のが今の中小企業組合総合研究所です。またアウト(協組員外社)とイン (協組加盟社)との大同団結については、二〇〇四年一二月段階まで一七社一八工場が協同組合に加盟することになっていた。〇五年には、具体的なシェアの決定などの話をつめていました。ところが、〇五年一月十三日、私の逮捕を皮切りに大弾圧が始まりました。 
 
 この時期は、大同団結が進み、工業組合、協同組合と労働組合の約束で、協同会館、協同総研並びに研究センターの設置も合意して、中小企業の安定路線が進んだ、まさにその時でした。私は一年数ヶ月勾留されました。そして弾圧の中で逆流が起こりました。「もう連帯の時代は終わった」、セメントメーカーがそういう戦略を立てた。建交労がその気になって、何をしたのかと言うと、ゼネコンに対する過剰サービス、土曜稼動や袋洗い、「アウト対策」と称して生コンの値段を下げる。そうしながらセメントの値段だけは一方的に連続して三回上げた。 
 
 それで、業界に逆流が起きた。逆流に抗してわれわれは反転攻勢をかけます。イメージアップを図るために、私の故郷の徳之島で大相撲徳之島場所をやったのもそのひとつです。そこには、大阪からのカンパがあり、地元の熱烈な歓迎の下に、二日間で七〇〇〇人を超す人たちが参加して、大変な反響だった。それが反転へのひとつのきっかけとなって〇七年の春闘では、建交労の間違った方針を正し、転換し、〇八年の段階で、それを決定づけます。土曜稼動や袋洗いを完全廃止し、セメントの一方的な値上げを認めない方向へ大転換させていった。 
 これにたいしてセメントメーカーとゼネコンは巻き返しをはかり、〇八年七月にわれわれの組合員を威力業務妨害で被害届けを出して、組合幹部五人を逮捕させました。しかし、翌〇九年の春闘では一万五〇〇〇円の賃上げを獲得、加えて一二項目に上る業界秩序に関する合意を確定することができました。 
(続く) 
武建一(たけ・けんいち 連帯労組関西地区生コン支部委員長) 
季刊『変革のアソシエ』33号から) 
 
(資料)熾烈な暴力支配との闘い 
七四年秋には、関生支部の前進の一方で、全自運大阪合同支部片岡運輸分会の植月一則副分会長が会社の雇った暴力団に刺殺された事件が起こった。この事件は、生コン産業における資本•権力•暴力団による暴力支配の構造を示すもので、これまでの、そしてこれ以降の野村刺殺事件、武委員長殺害計画などにつながる事件である。 
 この当時、新しい分会の公然化や闘いは、昭和レミコン、大阪宇部、兵庫宇部•明神運輸などの闘争に見るごとく、企業の雇った山口組系他暴力団を使った暴力支配にも一歩も引かぬ闘いぬきには前へ進まなかった。その中でも際立った闘いがある。 
 
大城陽生コンの闘い 
とりわけ、七六年の京都での大城陽生コンの場合は、支部の交渉や支援に、放水する、ブルドーザーやダンプを突っ込ませる、鉄パイプを打ち込んでくる、挙句の果てに機動隊が出動し、マスコミも来るという事態になった。ここでも支部は一歩も引かず、四〇〇名の大動員をかけて追い詰め勝利し、職場の暴力支配に終止符を打った。 
 
東海運の闘い 
七七年には東海運分会が、セメント総資本の意を受けて関生支部潰しを狙って攻撃を続けてきた小野田セメントで、三年八カ月に及ぶ粘り強い闘いの結果、勝利した。事の発端となった尻無川工場には、分厚い城壁に見立てた鉄格子、バリケード、TVカメラが設置され、警察、裁判所(工場への立ち入り禁止仮処分申請)の権力を動員して全面対決路線を取り続けた小野田資本も、ついに関生支部の軍門に降り、七名の解雇撤回、優先雇用、解決金の支払いなどの要求をすべて呑んだ。これは、支部の七○年代後半の闘いの典型的勝利 
の例である。 
 
「鳴海のように殺してやる」 
―昭和レミコンによる武書記長監禁,殺人未遂事件 
一九七九年六月には、山口系暴力団入江組が当時の関生支部書記長武建一を1昼夜に渡り監禁する殺人未遂事件が起こった。関生支部は創設以来、幾多の資本による暴力団支配と闘ってきたが、これは支部の組合幹部個人を狙った初めてのテロ攻撃であって、七四年 
の植月氏殺害事件の再現であった。拉致した武書記長に「昭和レミコンの支部分会の解散」などを要求し、拒否する書記長に殴る蹴るの暴行を繰り返した挙句、ガムテープで身体をぐるぐる巻きにし、車のトランクに放り込み、「鳴海みたいに殺してやる」と脅した。し 
かし結局、武書記長は、脅しと暴行に屈せず拒否し続け、翌日、解放された。 
 この事件の本質は、関生支部つぶしと職場の暴力支配の強化にあるとした支部は、直ちに反撃に出て、会社への追及と同時に各セメントメーカーに昭和レミコンの問題解決まで、セメント納入拒否を、さらに地域から市民と共に社会的に包囲した。結果、昭和レミコンの謝罪、健全な労使関係と協組基盤などを確認して勝利した。 
 これらの闘いは、「避けて通れぬ暴力団との闘いで、幹部が体を張って不屈に闘う姿勢なしには、仲間に勇をあたえ、団結を強めることはできない」ことを関支部の闘いの伝統に深く刻み込んだ。 
 
(『関西地区生コン支部労働運動50年―その闘いの軌跡』2015年10月刊から) 


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