2018年09月17日10時58分掲載  無料記事
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歴史を検証する

あの時、東京で何が起きたか 〜1923年9月のジェノサイド〜 8.11歴史を知るフィールドワーク 関東大震災朝鮮人・中国人虐殺の痕をたずねて

 平和と国際連帯を求める労働組合として、関東大震災での朝鮮人・中国人虐殺の歴史的事実を「なかったこと」にはできないと、全国一般なんぶは、夏の盛りの8月11日、組合員22人で現地をまわり、歴史的事実を再確認するフィールドワークを行いました。 
 
 フィールドワークは両国・横網町公園の「関東大震災朝鮮人犠牲者追悼碑」から出発しました。 
 関東大震災朝鮮人犠牲者追悼碑が建立されたのは、震災から50年後の1973年です。震災後50年という節目は、まだ当時の記憶を残す人々も多く、追悼碑の建立には東京都議会の総意と幅広い支持がありました。 
 私たちはここで、「九月、東京の路上で」の著者で、関東大震災の虐殺証言を集め本にまとめたノンフィクションライターの加藤直樹さんからお話を伺いました。加藤さんは、毎年9月1日に行う追悼式典に歴代の都知事や墨田区長が送っていた追悼文を、小池都知事が取りやめた背景に、右翼団体と古賀俊昭都議という右翼都議の働きかけがあると言います。彼らの目的は、追悼式典をつぶし、追悼碑を撤去することで、小池都知事も「虐殺があったかどうかわからない」という「虐殺否定論」に与しています。 
 式典と追悼碑を守っていくこと、小池都知事が追悼文を寄せることを求めていこうと、私たちは追悼碑に花を手向け、黙祷を捧げました。 
 
 一般社団法人「ほうせんか」の西崎雅夫さんは、自警団がつくられ、朝鮮人を探して殺していった旧四つ木橋付近で起きた事件を説明してくれました。 
 「ほうせんか」は、毎年9月上旬の土曜日の午後、荒川河川敷で追悼式を開いています。2009年には追悼碑を建立し、その隣に資料館「ほうせんかの家」があります。 
 荒川放水路は、開削工事に多くの朝鮮人労働者が従事した人口の河川です。四つ木橋には、多くの被災者が橋を渡って避難しようとしていました。橋は検問所になって、朝鮮人かどうかが検(あらた)められました。 
 西崎さんから、生き延びた朝鮮人・慎昌範(シン・チャンゴム)さんの証言を聞きました。 
「武装した自警団は朝鮮人を見つけると、その場で日本刀を振り下ろしたり、鳶口で突き刺して殺した。自警団が何か言って、日本語が分からない人が慎さんの名前を呼び、『通訳してくれ』と言った途端、日本刀が振り下ろされた。慎さんは、弟さんと義理のお兄さんと泳いで逃げようと川に飛び降りた。橋の上から銃声が聞こえ、泳いでいく人が沈んで行った。自警団と格闘になり、気付いた時は無数の傷で、寺島警察署の死体収容所にいた。慎さんは、気絶した後に足首を鳶口に引っ掛けて引きずって運ばれていた。無数の死体に紛れていた慎さんを、弟さんが見つけて生き残った。警察は手当を一切しなかった」 
 
 私たちは、「軍隊がやってきて、朝鮮人を10人くらいずつ縛って、川に向かって立たせて機関銃で銃殺した。まだ死なない人には刀で切り、ピストルで撃った」という証言の現場に立ちました。まるで、荒川放水路を渡る夏の生温かい湿った風の中から、犠牲者の声を聴くようでした。私たちは河川敷に向かって手を合わせました。 
 
 次に、旧四つ木橋のある墨田区八広から江東区大島へ向かいました。 
 大島町では、9月3日の朝から夜にかけて、集中的に中国人労働者が軍隊、警察、民衆によって虐殺されました。「中国人受難者を追悼する集い」の実行委員で、なんぶ組合員の木野村さんが案内してくれました。 
 今の東大島文化センターの場所は当時空き地で、ここで9月3日、350人くらいの中国人が連れてこられては殺され、連れてこられては殺される集団虐殺が行われました。虐殺は軍隊と警察そして日本人労働者が行ったのです。 
 
 日本の植民地支配の中で、朝鮮人は天皇の臣民として「日本人」であるとされていましたが、中国人は外国人扱いだったため、中国人被害者の名簿が残っています。 
 中国では隣国の災害を聞き、義援金を集める運動が起きていました。しかし虐殺の事実がわかると、中国政府は事態を重視し、王正廷氏を団長とする調査団を派遣、「犯人の処罰、遺族への補償、在日中国人の安全確保」を日本政府に要求しました。 
 日本政府は賠償金を払うことになりましたが、中国政府との交渉中に、日中の国内状況の混乱から「時局のため」という理由で交渉を中断しています。 
 いま、中国人被害者遺族は中断した交渉の再開を求めています。虐殺された中国人のほとんどは中国浙江省温州から行商や出稼ぎに来日していた人々でした。中国人労働者は安い賃金で働くため、仕事の取合いをしていた日本人労働者は快く思っていませんでした。 
 
 留学生の王希天は、中国人労働者の劣悪な労働条件や民族差別に対して「僑日共済会」を組織し、日本人ブローカーの賃金未払いに抗議するなど、権利擁護に奔走していました。9月9日、王希天は、震災後の中国人労働者の様子を確かめに自転車で大島町へ向かったまま、帰ってきませんでした。9月12日未明、王希天は、逆井橋(さかさいばし)のたもとで垣内中尉によって殺害されていました。 
 
 フィールドワークの最終地点は赤門浄心寺です。関東大震災時の戒厳令下で、平沢計七や川合義虎ら10名が連行され、亀戸警察署内の中庭や荒川の河川敷で、9月3日から4日にかけて習志野騎兵連隊に虐殺されました。これが亀戸事件です。 
 浄心寺は、労働争議や被災者に炊き出しなどをした南葛労働会ゆかりのお寺だということで、1970年、「亀戸事件犠牲者の碑」が建てられました。震災から数日で行われた労働組合員の虐殺は、朝鮮の独立運動と日本の労働運動の結びつき高まるのを恐れた支配者によるものでした。 
 私たちは、犠牲となった労働組合員の碑に紫色の花を捧げました。辺りではヒグラシが鳴いていました。 
(全国一般労働組合東京南部書記長・中島由美子) 
 
※ 画像提供:全国一般労働組合東京南部 


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