2018年09月18日21時02分掲載  無料記事
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コラム

岡口基一判事に対する懲戒申立はスラップだ。  澤藤統一郎(さわふじとういちろう):弁護士

   岡口基一判事に対する「分限裁判」の行方に目が離せない。9月11日、最高裁で開かれた審問のあとの記者会見で、同判事は、「適正手続きが踏まれておらず、ありえないことが起きている」「今回の表現ごときで処分されたら、他の表現もできなくなる」「私からしたら防御しようがない漠然とした申立書と薄弱な証拠で戒告されるようなことがあれば、法治国家と言えない」などと述べたと報じられている。まことにもっともなこと。岡口基一判事を支持する立場を表明しておきたい。 
 
   問題とされたのがツイッターの投稿内容なのだから、当然に憲法上の表現の自由制約の可否に関わる重大問題である。さらに、裁判官に対する懲戒処分を行おうというのだから、その手続上の厳格な正当性が問題とならざるを得ない。その2点を争点として、懲戒の可否が争われることになるだろう。 
 
   岡口は、ツイッターで裁判批判をして、勝訴した女性原告の心情を傷つけたとして、懲戒を申立てられた。懲戒申立書によると、問題とされたツイッターの内容は、下記のごとくである。 
 
   公園に放置されていた犬を保護し育てていたら、3か月くらい経って、もとの飼い主が名乗り出てきて「返してください」え?あなた?この犬を捨てたんでしょ? 3か月も放置しておきながら・・・ 
裁判の結果は・・・・ 
 
   裁判は元の飼い主である原告から、裁判提起当時の飼い主である被告に対する、犬の引渡請求訴訟とのこと。争点は、原告の元飼い主が、「犬を捨ててその所有権を放棄した」と言えるかどうか、だったようだ。判決は、「原告はいったんはこの犬飼えないとして、公園に置き去りにし、被告が保護したときは雨中泥まみれで口輪をされていた状態」と認定はしたが、所有権放棄までは認めず、被告に対して元の飼い主への引渡を命じた。これを、岡口は「え?あなた?この犬を捨てたんでしょ? 3か月も放置しておきながら・・・」と表現した。 
 
   犬を飼った経験のある者なら、いったんは犬を捨てた原告の態度を「生命に対する冒涜」と非難するのは当然のこと。車の置き去りの所有権放棄問題と同一視してはならないと思うはず。岡口のこんな表現が懲戒相当になろうはずはない。 
 
   しかし、大方の法律家は、もう少し別の視点からこの問題を見ている。法的な論争よりは、司法行政における裁判官統制の是非に関心がある。これは、司法行政による裁判官統制なのだ。その統制の成否こそがこの件の真の問題点なのだ。 
 
   私はこの件を、東京高裁長官による岡口基一裁判官に対するスラップだとみる。あながち、的はずれではなかろう。 
 
   司法当局は、おとなしい、大勢順応裁判官がお好みなのだ。出世のために上だけを見ている裁判官を「ヒラメ裁判官」という。司法当局は長年月をかけて「ヒラメ」の養殖に腐心しそれなりの成果を上げてきた。その裁判官統制の成果は、最高裁の思惑の枠をはずれる裁判が極端に少なくなっていることに表れている。裁判官が、自発的に人事権を握る司法当局の意向を忖度した判決を書いてくれるなら、四海波穏やかにすべては丸くおさまり、司法と行政や政権与党との軋轢もなくなろうというもの。 
 
   ところが、どこの世界にもやっかいな異端児が表れる。出世に関心なく、まったく上を見ようとしない、忖度とは無縁の裁判官。こういう輩の存在は、司法当局の裁判官統制が有効に機能していないことの証左に映る。裁判官集団の神聖な秩序を破壊する者であり、これにはお灸を据えなければならない。当該裁判官へのお灸は、その余の裁判官にも予防的によく効くのだ。これを「見せしめ」という。 
 
   ちょうどDHC・吉田嘉明が、自分を批判した発言者に直接の警告を与えようとしただけでなく、社会の他の者へも予防的に間接的な警告を発する思惑で、私を含む10人にスラップをかけた意図と酷似している。あるいは、行政や大企業が、経産省前テント村や祝島の活動家を狙い撃ちで提訴した件と、基本構造が同じである。 
 
   DHC・吉田嘉明は、10件の提訴で、「自分を批判すると、このとおり高額損害賠償請求訴訟の被告にされて面倒なことになるぞ。提訴されたくなければ、余計な発言は避けておとなしくしておけ」と恫喝したのだ。この効果のねらいがスラップの本質。 
 
   民事訴訟の提訴ではないが、東京高裁長官は、岡口基一を最高裁に分限申立をすることで、「当局のおぼえに反すると、このとおり懲戒申立をされて面倒なことになるぞ。その事態を避けたければ、余計な発言は控えておとなしくしておけ」と恫喝したのだ。この効果のねらいがスラップの本質と変わらない。 
 
   私は、裁判官が萎縮せずに、市民的自由を行使することの重要性を強調したい。裁判官は、市民としての生活の中から市民感覚を涵養することになる。法廷と官舎を往復するだけで、市民生活から超越した生活では自らの市民感覚は育たず、市民の感覚も感性も感情も理解できなくなる。PTAも、市民運動も、NGOやNPOも、ボランティア活動も、できることなら労働組合活動にだって参加するなどの社会経験が必要なのだ。デモや集会に参加するのもよかろう。それらとまったく無縁な生活は、市民感覚のない裁判官を作る。その裁判は、ひからびた公用文書の一片に過ぎないといわざるを得ない。 
 
   かつて、寺西和史裁判官に対する分限裁判が大きな問題となった。岡口事件とはひと味違う、社会性ある発言が問題とされた。裁判官統制の意図は明確な事件だった。 
 
   旭川地方裁判所判事補であった寺西は、1997年「信頼できない盗聴令状審査」と題する批判を朝日新聞の読者欄に投稿した。裁判所の令状審査が杜撰である実態を報告するとともに、裁判官の令状審査の適正を前提とした組織犯罪対策法案に疑問を呈する内容であった。彼は、この投書で旭川地裁所長から厳重注意処分(懲戒処分ではない軽微なもの)を受けている。一方、この時、田尾健二郎判事(法案の作成に関与していた)が寺西に反論し批判する投書をしているが、こちらは何ら注意も受けていない。裁判官の発言が問題なのではなく、発言の内容が当局の意に沿うものか否かだけが問題なのだ。 
 
   そして翌98年、寺西は組織犯罪対策法案反対派主催の集会にパネリストとして出席を依頼され承諾する。ところが、これを知った当時の勤務先である仙台地裁所長から、裁判官に禁じられた「積極的に政治運動をすること」に該当するとして出席辞退を要請される。そこで寺西は、パネリストとしてではなく一般参加者として出席して、「集会でパネリストとして話すつもりだったが、所長に『処分する』と言われた。法案に反対することは禁止されていないと思う」と発言するに留まった。 
    この、当該集会への出席によって、寺西は地裁所長から懲戒を申し立てられ、仙台高等裁判所の分限裁判で戒告処分を受ける。寺西は即時抗告し最高裁判所の判断を仰ぐが、最高裁でも戒告処分が妥当と判断された。ただし、賛成10と反対5の票差で、弁護士出身の5名は全員反対であった。 
 
   寺西にしても岡口にしても、最高裁当局には、うるさくて目障りな裁判官なのだ。しかし、裁判官の独立とは、うるさくて目障りな裁判官だからといって排除することが許されないということである。当局の統制に服さない裁判官こそ、貴重な存在というべきであろう。 
 
 
澤藤統一郎(さわふじとういちろう):弁護士 
 
 
初出:「澤藤統一郎の憲法日記」2018.9.15より許可を得て転載 
 
http://article9.jp/wordpress/?p=11107 
 
ちきゅう座から転載 
 
 
※裁判官分限法(さいばんかんぶんげんほう)は、日本の法令の一つ。裁判官の免官と懲戒手続について規定している。1947年(昭和22年)成立。全13条。最終改正は2004年(平成16年)12月3日法律第152号。(ウィキペディア) 


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