2018年10月27日14時11分掲載  無料記事
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加藤直樹『謀反の児 宮崎滔天の「世界革命」』(上) 「もうひとつの日本近代」の可能性への挑戦 永井浩

  今年は明治維新から150年にちなみさまざまな催しや近代日本の歴史の再検証が行われているが、その大きな意味は、世界の表舞台に遅れて躍り出たアジアの小国が急速な近代化を遂げただけでなく、欧米列強をモデルにアジアにおける帝国主義国家をめざしてアジア太平洋戦争で破滅するに至ったのはなぜなのか、これ以外の進むべき道はなかったのかどうかを問うことにあろう。本書(河出書房新社刊)は、「もうひとつの日本」の実現を孫文の中国革命運動への支援によってめざした革命家、宮崎滔天の生涯をつうじてこの問いに答えようとしている。 
 
▽「世界的人間」の理想に生きた先駆者 
 滔天(本名・寅藏)は日本でそれほど知られた存在とはいえない。せいぜい、欧米列強の進出に対してアジアは連帯して対抗すべきであるとする「アジア主義者」の一人ぐらいにしかみられていない。アジア主義者に多い右翼との見方もある。あるいは、孫文と生涯の友情を結んで中国革命を献身的に支援して最後まで裏切らなかったロマンチックな大陸浪人というあたりが一般的なイメージである。 
 
 本書は、こうした既存のイメージとは異なる宮崎滔天の実像を、彼の残した膨大な文章を読み解き、波乱に満ちた活動を内外の動きとともに追うことによって、私たちの前によみがえらせてくれる。それは、「世界革命」を夢想して明治、大正を駆け抜けた稀有な日本の巨人と言えよう。筆者の加藤直樹氏は、「世界的人間」という理想に生きた先駆者のひとりとして位置づけている。 
 
 滔天の思想的核心は、彼の代表作『三十三年の夢』(1902年)で、自ら「一生の大方針」と呼ぶ政治目標に記されている。 
「余は人類同胞の義を信ぜり、故に弱肉強食の現状を忌めり、余は世界一家の説を奉ぜり、故に現今の国家的競争を憎めり、忌むものは除かざるべからず、憎むものは破らざるべからず、然らざれば夢想に終わる、是に於いて余は腕力の必要を認めたり、然り、余は遂に世界革命者を以て自ら任ずるに至れり」 
 
 帝国主義に反対するための「腕力」、つまり政治革命に立ちあがる決意だが、彼はそれだけではなく、近代化によって起きている世界的な貧富の格差を廃絶する社会革命の必要性も訴える。 
「人生の要務は自箇を自覚するにあると思えり、仏者の所謂見性成仏にあり……夫れ唯学に待つべきを信ぜり、故に教育の普及を思へり、然れども社会は不平等也、貧者多くして富者少し、而して教育も亦時と金に待たざる可からず、乃ち教育の普及謀らんと欲せば、多数細民の状態を一変せざる可からず是に於いて余は社会革命者を以て任ずるに至れり」 
 
 このような世界革命の拠点として滔天が飛び込んでいったのが中国だが、そこに至るまでの彼の思想形成は一朝にして成ったものではない。国内外のさまざまな人びとの出会いをつうじて思索は深まっていったのである。 
 
▽侵略と格差のない世界をめざす「大方針」 
 宮崎寅藏は、1870年(明治3年)に熊本県荒尾村(現・荒尾市)に郷士の末子として生まれた。滔天とは、勢いが天までみなぎるほど盛んな状態を表す「滔天の勢い」からとった号である。 
 
 兄の宮崎八郎は、「熊本民権党」の指導者だった。民権党は中江兆民の翻訳をつうじてルソーの人民主権の思想に目を開かされた20代の若者が中心となった政治結社で、彼らは、幕府が倒れても依然として苦しい生活を送る農民も参加する世直しをめざしていた。だが八郎は、西南戦争(1877年、明治10年)で西郷軍に参加して戦死する。寅藏がのちに自らを「謀反の児」と称するのは、尊敬する自由民権活動家であった兄から引き継いだ反逆精神によるものである。 
 
 寅藏は、「自由民権」を掲げて徳富猪一郎(後のジャーナリスト・徳富蘇峰)が熊本に開いた私塾「大江義塾」で欧米の革命史や自由思想を学んだのち、15歳で東京に出て、1886年(明治19年)に啓蒙思想家の中村正直が設立した私塾同人社に入学、さらに東京専門学校(現・早稲田大学)英語学科に転学した。首都は、自由民権の熱気は消え失せ、文明開化と欧化主義で華やぎ、若者の多くは立身出世を夢見ていた。 
 
 彼はある日偶然、教会に迷いこみ、フィッシャーという西洋人宣教師に出会う。寅藏は聖書とキリスト教の教義を学び、神の前では誰もが平等な一人であり、民族や国家ではなく普遍的な人間の救済を説く教えに衝撃を受ける。キリスト教の洗礼を受けた寅藏はのちに、キリスト教によって「余は世界的人間なること」を学んだと書いている。彼は、内には「民権」を叫びながら外には「国権」拡張を主張する自由民権運動のナショナリズムの枠を超えて、普遍的な人間として社会と人間を見る視点を得た。本書によれば、「民権運動の中で育った理想主義を、より世界的な思想のなかに羽ばたかせることになったのである」。 
 
 熱烈なイエスの徒となった寅藏が久しぶりに帰郷して目にしたのは、荒廃した農村の姿だった。「松方デフレ」によって全国的に進む農民の困窮化は荒尾にもおよび、小作人たちが集団で地主の宮崎家に押しかけ、小作料の値下げを訴えていた。天皇の威光を利用した「上からの近代化」政策の推進によって国家主導・官僚主導の資本主義を創出し、さらに軍事力強化を進める明治政府の下で民衆が苦しむ状況を、彼はのちにこううたった。「国は富強に誇れども/下万民は膏の汗に血の涙」(「落花の歌」) 
 
 寅藏は故郷ではじめて、「貧困」を最重要課題として提起された。福音によって貧困の中にいる人びとを救えるのか。必要なのは、福音の前にパンではないか。それが、「人権の大本」を回復することだと思った。熊本のキリスト教仲間らとの議論をつうじて彼の関心は、しだいに「社会主義」「社会革命」へ移っていった。「社会革命」とは、政治的制度としての民主主義を実現する政治革命(自由民権がそれだ)に対して、社会的・経済的な変革を通じて貧富や格差を解決する革命を指す。 
 
 また長崎で出会ったスウェーデン出身の老アナキスト、イサク・アブラハムは彼に、欧米諸国の労働者がむき出しの資本主義の下でいかに悲惨な生活を強いられているかを説明した。寅藏は、日本の知識層が政府と民権派の別なく欧米を文明開化のお手本として仰ぎ見ていたような時代に、「文明開化」が民衆に与えるこうした現実をしり、荒尾村の貧農の窮状が海を越えて世界につながっていることを理解した。イサクは、国家とは戦争という名の殺人を奨励する存在だとも批判した。「文明」とはいったい何だ?という疑問が、18歳の日本の若者に沸いた。 
 
 では、めざすべき革命をどのようにして実現するのか。その答えとして、中国を根拠地として世界をまるごと変えるという「大方針」を寅藏に説いたのが、兄の弥蔵だった。 
 
 世界中で多くの人びとが貧困に苦しんでいるのは、「西洋文明」が生み出した資本主義のためである。またその欧米諸国は、キリスト教の博愛主義や人権思想を唱えながら弱小国を侵略する弱肉強食の争いを演じている。格差と侵略という二つの問題は世界規模で考えなければ解決しない。「世界革命」が必要である。なぜ中国が世界革命の根拠地になりうるかといえば、中国は近代世界の矛盾が集中しつつあるアジアの大国であり、革命の機があるからである。疲弊した清朝の専制政治の下で人民が苦しみ、列強の侵略にさらされるなかで、知識人たちは祖国の変革を摸索し始めている。 
 
 中国革命によって人民主権の国家が樹立されれば、それを突破口にして中国だけでなく世界の貧民を解放し、侵略のない世界をつくることが可能になるのではないか。植民地支配に苦しむインド、ベトナム、フィリピン、エジプトなどの諸民族を励まし、世界の人びとの人権を回復する新しい世界が生まれるであろう。それはまた、天皇制国家体制の日本の変革をも促すはずである。 
 
 気宇壮大な志をいだいて寅藏は、1892年(明治25年)に上海に渡航、初めて中国の土を踏んだ。21歳のときだ。現地の言語習慣を身に着けながら革命派人士らとの接触を求めていくのが目的だった。 
 
▽孫文と出会い、中国革命の渦中へ 
 寅藏がいよいよ滔天として中国革命への参画をめざして活動を開始してまもない1894年(明治27年)に日清戦争が起きた。日本の勝利に官民があげて喜びの声を上げ、侵略的ナショナリズムが高揚し、福沢諭吉は「文野の戦争」(文明対野蛮の戦い)の勝利に随喜の涙を流した。それとともに中国蔑視の風潮が急速に強まった。 
 
 だが宮崎兄弟は、戦争に無関心だった。滔天はこのころ、革命運動の資金調達のために日本の農民のシャム(タイ)移民事業にかかわり、出稼ぎ労働者の中国人苦力(クーリー)に出会った。彼らのバイタリティーに圧倒された彼は、中国は将来経済的に侮れない国になるだろうと思った。弥蔵は横浜の中国人商店に勤務するが、志半ばでまもなく病死する。 
 
 そして滔天が孫文との運命的な出会いを果たすのは1897年(明治30年)、横浜においてだった。孫文は清朝打倒をめざした広州での決起に失敗し、日本に亡命していたが、滔天は初対面で彼の識見と人格に魅了された。中国の若き革命家は、清朝を打倒して中国を共和制国家にするのは、自国人民を救うためだけではなく、列強の侵略にさらされるアジア黄色人種の屈辱をそそぎ、世界に人道を快復するのが目的であると説いた。「我国人士中、彼の如きもの果たして幾人かある。誠に是東亜の珍宝なり」と、滔天は感銘した。 
 
 滔天は孫文を進歩党の代議士犬養毅や右翼の源流とされる玄洋社の頭山満、内田良平らに紹介し、中国革命への助力を求めた。彼らは孫文支援を約束したが、滔天は日本の政治家や「アジア主義者」と称されるようになる民間活動家たちと主義主張が一致していたわけではなかった。 
 
 西欧の侵略からアジアを守るための連帯を叫んで中国や朝鮮で活動していた日本の民間人の多くの基本姿勢は、アジアでもっとも「近代化」「進歩」した日本が遅れた中国や朝鮮を指導しようというものだった。「連帯」の実体は日本の国策に沿うかたちであり、孫文支援も日本の国益のために中国革命を利用するのが目的だった。これに対して、滔天らがめざす中国革命とは、日本製の「近代化」「進歩」を中国で実現することではなく、むしろ「近代化」「進歩」によって世界に広がっている矛盾、すなわち欧米をふくむ民衆の貧困や帝国主義国による侵略を克服することで「人権の大本」を回復する「世界革命」の始まりである。 
 
 滔天は、右翼の国家主義、自民族中心主義、侵略思想だけでなく、天皇崇拝主義からも自由だった。「有体に白状すれば、寧ろ誤って非国民を以って目さるゝとも、人類の一員として理想に生きたいのが私本来の本願で、今にもそれを理想として生きて居るのです」(「銷夏漫録」)と述べている。また「日本の所謂忠君愛国家は、私を目して売国奴と言ふかもしれませんが…私こそ真の愛国者」(「炬燵の中より」)であると、こっそり「忠君」外している。 
 
 このような両者の基本姿勢の違いを承知しながら、滔天があえてこれらの日本人有力者と手を結んだのは、革命に必要な資金や政治力、人的ネットワークを彼らに頼らざるを得ないと判断したためである。彼のことばによれば、「虚を衝ひて実を出す」方便だった。孫文が1900年(明治33年)に広東省恵州で挙兵し革命派政権を樹立する計画を立てると、日本人協力者らは資金と武器の支援を約束し、滔天は孫文の指示で中国に向かった。だが蜂起は、金銭欲にくらんだ日本人の裏切りによって敗北する。帝国主義の野心に乗って動く日本の勢力を自らがめざす中国革命のために利用しようとする、滔天の甘さが明らかにされたのである。(つづく) 


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