2018年10月29日16時15分掲載  無料記事
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加藤直樹『謀反の児 宮崎滔天の「世界革命」』(中)「人権の大本」実現めざし孫文の中国革命支援 永井浩

  中国の同志たちを見殺しにしてしまった恵州蜂起の挫折は、滔天を失意と悔恨のなかに陥れた。彼は悶々として酒びたりの日々を送るが、中国革命支援の志を捨てたわけではない。恵州蜂起とおなじ1900年(明治33年)に農民を中心とした「義和団」が列強の進出に抗して立ち上がった戦いは、滔天のこころを大きく動かした。武装した民衆が帝国主義に抵抗する姿に、「中国人」として新しいナショナリズムが生まれようとしていると見て取ったのである。 
 
▽浪曲師への転身と『三十三年の夢』 
 反乱は翌1991年に日本を含む列強の軍事介入によって鎮圧されるが、列強が中国での利権確保のために軍隊を増派すれば、民衆の抵抗はさらに激化するであろう。事態が泥沼化すれば、各国は自国民衆に負担を強いることになろう。そうなれば、これに反発する「社会党虚無党が横行」「所謂帝国主義反対の勢力を惹起」することになろう。「支那国の死活問題が決する時は、列強の死活問題の決する時である」と展望する滔天は、中国革命から世界革命へという、十年前に兄の弥蔵が語った「大方針」実現の機が熟していると判断した。 
 
 問題は金だが、日本の政治家や大陸浪人たちに頼るやり方は繰り返したくない。そこで滔天が考えついたのは、なんと浪曲師への転身だった。浪曲で中国革命の事業について聴衆に語り聞かせながら少しずつでも金を稼ぐことに成功すれば、政治的思惑がらみの資金に頼らず自前で革命資金をつくれるであろう。 
 
 滔天の浪曲師宣言は周囲を驚かせた。兄の民蔵は30歳を超えた弟に、孫文と共に革命の宣伝と研究のために欧米を回るのがよいと説得し、妻の槌も夫の話に反対した。犬養毅は翻意をうながす手紙を送った。だが滔天はそれを押し切って桃中軒雲右衛門に弟子入りし、桃中軒牛右衛門としてデビューした。 
 
 滔天は浪曲に、金稼ぎの手段としてだけではなく、彼独自の見解をもっていた。演目の多くは、弱者を虐げる武士の横暴に対して生死を度外視して戦いを挑む侠客ものである。その姿に快哉を叫ぶ客の下層労働者たちのなかに、滔天は権力者への怒りを見出し、浪曲を「平民芸術」と呼んだ。下層労働者を客とする浪曲の世界で労働者の中に革命的気分を醸成し、さらにそれを通じて革命資金を得る。こうした考えは、講談や浪曲の世界で武士道を持ち出して戦争と国家主義をたたえる当時の風潮への対抗でもあった。 
 
 浪曲師デビューの話題づくりに「二六新報」に連載しはじめたのが、今も自伝文学の傑作として読み継がれている滔天の主著『三十三年の夢』だった。また、先に紹介した「国は富強に誇れども/下万民は膏の汗に血の涙」という一句は、滔天が各地を巡業して中国革命の運動を語って聞かせたときに歌った「落花の歌」の一節である 
 
 下手な浪曲をうなりながら各地を放浪する滔天の客席に、職工や車引きらに混じって中国人留学生の姿が目立つようになる。彼らは『三十三年の夢』の愛読者だった。この本はいつの間にか海を渡り、中国の革命派知識人らによって発禁の目をかいくぐりながら数種類の中国語訳本が出ていた。孫文の思想と人物、行動を生き生きと伝える書物として、若者たちの間でひそかに読み広がり、孫文の理想実現に献身的支援を惜しまない日本人滔天の姿は、義和団戦争を経てようやく革命を模索し始めた知識人たちを鼓舞した。 
 
 滔天が浪曲をうたい終わって楽屋にもどると、留学生たちは楽屋に押しかけて、本物の宮崎滔天に会えることに感激しながら、高揚した表情で革命への思いを口々に訴えた。滔天にとってそれは、これまでの孫文や彼の盟友のような少数精鋭の革命党員とは違う、新しい種類の中国の若者たちとの出会いだった。その中の一人、故郷の湖南省で蜂起を企てて失敗し日本に逃れてきたばかりの黄興とは、滔天が生涯にわたる深い交わりを結ぶことになる。 
 
 黄興らとの出会いは滔天の四年間の放浪生活に終止符を打ち、彼をふたたび中国革命のために奔走させることになった。だがそのかかわり方は、これまでとはまったく異なる。日本の有力者たちの力を借りながら自分が中国革命を成功に導くけん引役を果たそうというのではなく、革命の主役はあくまで中国人であり、日本人である自分はその支援者でしかありえないという自覚である。彼はそのころの心境を、「我が友人に支那革命の志士あることは我が終生の誇りである」と記した。 
 
 1905年(明治38年)に東京にもどってきた孫文と再会した滔天は、黄興を紹介する。孫文と黄興を中心とする華興会系のメンバーが合同で「中国同盟会」を結成、孫文を総理、黄興を副総理に清朝打倒をめざす、中国全土を網羅した統一組織が誕生した。滔天は同盟会の「日本人会員」として迎えられた。 
 
 滔天は同盟会の月刊誌「民報」の発行人を引き受けた。民報社と宮崎邸には多くの留学生や中国の革命家、活動家たちが出入りし革命論議をたたかわした。創刊号の冒頭には、初めて「民族」「民権」「民生」の「三民主義」を主張する孫文の文章が掲載された。革命派の留学生たちは幸徳秋水ら日本の社会主義者との交流も深めていった。 
 
 このころ、滔天の家族もやっと落ち着いた生活を送れるようになった。彼はそれまで中国革命の大義への奔走を理由に家庭を顧みず、妻子に貧窮を強いてきた。貧しさは変わらなかったが、槌は留学生たちの世話や来客の応対で生き生きした日々を過ごすようになり、夫の仕事を理解する献身的な協力者となった。母を苦しめる父を憎んでいた長男の龍介も、父をしだいに尊敬するようになり、日本の警察の尾行から留学生を守るような手助けをした。父の酒量も減っていった。 
 
 滔天はさらに新しい挑戦として、中国やロシアの革命の進展を伝える隔週新聞「革命評論」を刊行する。彼は、日本の国益に基づく関心ではなく、中国革命に対する真正の思想的共感を喚起することで、支援のすそ野を広げたかった。それが中国同盟会に対する日本人支援者としての貢献になると考えた。同紙は政治家や各界の名士、社会主義者らにも一部が寄贈され、革命評論社には堺利彦、大杉栄ら多くの社会主義者が訪れた。滔天と社会主義者が行動を共にすることはなかったが、両者のすれ違いは、社会主義者の多くにもあった中国人蔑視によるものとみられる。北一輝も「革命評論」の同人として中国革命に関わっていくが、彼は孫文より宋教仁を評価し、滔天らとは袂を分かつ。 
 
▽辛亥革命により中華民国成立 
 滔天が中国革命にむけて再度の新しい挑戦に立ち上がったころ、彼の言葉によれば日本はますます「理想の存在を許さぬ国」になろうとしていた。 
 
 世界から帝国主義を一掃しようとする滔天らの理想とは逆に、日本は日露戦争(1904〜05年)の勝利によって帝国主義的膨張の道を歩み出した。韓国の保護国化につづいて併合がなされた1910年(明治43年)、大逆事件により幸徳秋水らが死刑に処せられた。中国革命派や他のアジア留学生らの活動に対する日本政府の締め付けが強化され、孫文にも日本からの退去命令が出される。民報も発禁となり、東京の同盟会本部は事実上機能停止状態に陥った。しかし、中国革命の動きは加速した。 
 
 1911年(明治44年)の武昌での革命軍決起が各地に連鎖拡大し、革命軍は南京に臨時政府を樹立する辛亥革命が起きた。革命成功の報を受けて、滔天は中国人の同志と共に上海に向かう。船が上海に近づくと、港内の船にも陸上にも一斉に革命軍を支持する白旗がはためいているのに気づいた。40歳の滔天はうれし涙をこらえることができなかった。上陸した滔天のもとには連日、東京で彼に世話になったかつての留学生たちがあいさつにくる。彼らはみな、革命軍や革命政府の幹部となっていた。孫文は香港で滔天を出迎え、上海に到着した一行は革命の指導者として祝砲で迎えられた。 
 
 翌12年元旦、孫文が臨時大総統に選ばれ、中華民国が成立した。清朝の専制体制に代わって、アジアで最初の共和国が生まれたのである。孫文は就任演説で、共和の確立、民生の福利拡充、友邦諸国との親睦、国際社会における中国の地位向上とともに、「世界を漸次、大同(平等で平和な理想社会)に赴からしめんとする」と、革命の理想を語った。就任式に招待された滔天は槌に、「かかる喜ばしき元旦は生来初めての事に候」と手紙を送った。その後、滔天は槌と龍介を中国に呼び、宮崎家一行は総統府で孫文に迎えられた。 
 
 一方で滔天は、日本の出方を注視していた。列強は革命を潰すための軍事介入の機をうかがい、日本は出兵に前のめりだった。だが列強は民衆の抵抗をおそれて出兵をあきらめ、日本も英国の意向に阻まれ、介入を断念する。それでも日本は、混乱に乗じて中国への勢力拡大をめざす動きを弱めはしなかった。孫文の率いる南京の革命政府は、北京の清朝最強の北洋新軍を率いる袁世凱に北上を阻まれていた。孫文は、清朝皇帝溥儀の退位と孫文の臨時大総統辞任による南北妥協策を打ち出すが失敗、袁世凱は北京にとどまったまま大総統に就任し、袁世凱政権が成立する。日本は袁世凱を新政権の指導者に押し立て、満州に日本の勢力圏拡大をめざし始めた。 
 
 改革を後退させ着々と独裁を強化する袁世凱の辞職を求めて、孫文と黄興は1913年(大正2年)に第二革命に立ち上がるが敗北、日本に亡命する。滔天は大量吐血で入院、治療のため帰国を余儀なくされていた。 
 
▽対華二十一カ条要求の衝撃 
 1914年(大正3年)に第一次世界大戦が始まると、日本は日英同盟を理由に参戦、ドイツの拠点占領を掲げて山東省に出兵して青島と膠済鉄道を占領した。そして翌15年、大隈重信内閣は袁世凱に対華二十一カ条要求を突きつける。その内容は、山東におけるドイツ権益の日本への引き継ぎ、旅順・大連・南満州鉄道の租借期間の99年間延長、南満州と内蒙古における日本人の自由な居住と商業活動承認など(1〜4項)に加えて、5項以下で中国政府への日本人の政治・財政・軍事顧問の雇用、地方警察の日中合同化、兵器の日本からの供給または日中合弁の兵器工場の建設などを盛り込んでいた。これはそれまでの列強の権益要求を超えて、中国そのものの保護国化を求めるに等しかった。 
 
 袁世凱政権はこれに難色をしめし、要求内容を世界に公表した。日本はたじろぎ内容の一部は撤回したものの、軍事行動をちらつかせて要求の4項までを袁世凱に飲ませた。 
 
 対華二十一カ条要求は中国の人びとに衝撃を与えた。知識人のなかにまだ残っていた日本への親近感や信頼は吹き飛び、彼らは日本帝国主義が革命中国の最大の敵と考えるようになった。革命によって生まれた中華民国を日本の侵略から守るという抵抗のナショナリズムが、広範な人びとの心をつかんでいった。袁世凱が日本の要求を受け入れた日は「国恥記念日」とされ、日本製品のボイコット運動が広がった。 
 
 滔天も対華二十一カ条要求に激しい衝撃を受けた。彼は革命中国への日本の介入を懸念しつづけていたが、この要求は予想を超えるものだった。義和団戦争の際に彼が発した「支那国の死活問題が決する時は、列強の死活問題の決する時である」という予見が現実のものとなろうとしているのではないか、すなわち日本は中国への帝国主義的介入を深めていけば中国民衆によって持久戦に引きずり込まれて自滅の道をたどることになろう。恐ろしい流れを絶対に食い止めなければならないという焦りは、彼を衆議院選挙への立候補に駆り立てた。「根本的対支政策の確立」を公約に、病をおして熊本から立候補、自ら国会に乗り込んで時代の流れを変えようとした。だが結果は、最下位の落選だった。 
 
▽日本の「亡国」に警鐘 
 袁世凱の皇帝即位に反対する第三革命、袁世凱の死去、軍閥割拠の時代へと中国革命が迷走し、混乱に乗じ日本が反革命、侵略の野心をむきだしにしていくなかで、滔天は1917年(大正6年)、黄興ともに訪中、孫文と上海で会った。滔天が黄興がかつて教鞭をとった湖南省長沙の明徳学堂に招かれ講演したとき、校長は彼を、日本は我が国の仇敵だが宮崎先生は我が国の元勲である、本国の虐政に反対し民族主義をもって我が民国を支持してきたと紹介した。湖南省では学生の招聘を受けて第一師範学校でも講演した。滔天を招聘した学生の名は、毛沢東。この年、中国のとなりのロシアでは、ボリシェヴィキ革命によってソビエト政権が樹立していた。 
 
 だが滔天の肉体は衰えを隠せなくなっていた。長年の東奔西走と大酒が身長185僂隆莇な身体をむしばみ、肺についで腎臓を病んだ。もはや動き回ることができなくなった彼は、1919年(大正8年)、上海日日新聞に「炬燵の中より」のエッセイを連載しはじめた。これまでの活動の振り返りながら、彼は「日本問題」について論じている。それは、訪問者との対話をつうじて自問自答するという形式で進められる。 
 
 訪問者は言う。「日本を恨むはそりゃ無理じゃ。第一君の出発点が間違っているじゃないか」「何ぼ藻掻いても、支那問題の解決は日本問題の解決に待たざれば、結局無理じゃないか」。中国革命―世界革命の前に正面から立ちはだかっているのは、今や日本なのだ。それを放置してきた結果が、今の状況ではないか。「何故日本の改善を先にして、支那革命を後にしなかったのか。正当な順序を逆にして、支那革命を阻害する日本を恨む前に、自家の不明を恨まねばならぬ」というのだ。これは、日本の変革を放棄して中国で革命が成功すれば日本もおのずと変化するであろうして、中国だけに全力を傾注してきた滔天の自省の弁ともいえる。 
 
 だがその日本は、アジアの現実を直視できずますます孤立を深めている。このエッセイが開始された1919年、朝鮮では日本の植民地支配からの独立を求める三・一運動がおこり、中国では二十一か条の撤廃などを要求する五・四運動が全国的な抗日行動へと拡大していった。いずれに対しても、日本は過酷な弾圧で臨むだけだった。ロシア革命に干渉するためにシベリアに出兵した日本軍部隊がパルチザンの反撃にあい全滅したとの報も入ってきた。こうした情勢を受けて、滔天は上海日日新聞の「東京より」の連載でこう書いた。「今や我が国に一つの友邦無し。……罪を軍閥にのみ帰する勿れ。総て是れ国民の不明に基づく罪也。国民今に於いて自覚せずんば、遂に亡国なるのみ」 
 
 日本の行方に「亡国」の警告を発するのは、日本が中国革命への介入で泥沼に引きずり込まれて自滅するからだけではない。その場合、日本は中国とだけではなく、「他の一国」とも戦わざるを得なくなろうからだ。「他の一国」とは米国である。第一次大戦でドイツの軍国主義と戦った米国は、日本軍国主義の中国での膨張も阻止するであろう。「此点に於て、彼等(米国)と支那人と、共鳴点あるを忘れる可からず」。日本の中国侵略は日米戦争に発展し、日本は対中、対米の二正面戦争を闘わなくてはならなくなるだろうというのだ。 
 
 もちろん滔天は、自国の亡国を望んでいるわけではない。だがその一方で、一度、亡国の運命に陥らなければ、日本は世界の人びと共に「人権の大本」を回復するという理想をめざすことができないのではないかという冷徹な見方を捨てきれない。「顧みれば我が民族は余りにも驕慢なりき。鳥なき里の蝙蝠にて東洋の同胞に無礼を働けり。若し因果応報なるものが天地自然の約束事とすれば、一たびは亡国の惨を嘗めさせられるべき運命を有す。……国民此の惨を嘗めて鮮民に対し、台民に対し、若しくは支那南洋印度の同種族に対して真誠の同情を喚起するを得ん。而して始めて人種問題を論ずるの資格を得ん、更に進一進して世界人類と手を握るを得ん」(「東京より」) 
 
 五・四運動後の同年9月、滔天は龍介とともに中国に渡った。運動が切り開いた新しい時代の活気に沸き立つ中国にふれ、「無限の喜び」を感じた。学生たちが「愛国の情熱と一定の見識」をもち、「民国に新社会を現出しよう」という高邁な理想主義を抱いているのを目撃した。湖南省では、かつて滔天を講演に招いた毛沢東が学生のリーダーとして頭角を現していた。 
 
 滔天が最後に中国を訪れたのは1921年(大正10年)、広東を拠点に国民政府を再建しつつあった孫文の招きによるものだった。孫文は五・四運動以来の若者や民衆運動に依拠した中国国民党を創建し、「国民革命」へと進もうとしていた。上海では毛沢東らの率いる中国共産党の結成準備が進んでいた。だが滔天の生命の火は燃え尽きようとしていた。翌22年(大正11年)、彼は紆余曲折に満ちた波乱の生涯を終えた。53歳だった。 
 
 滔天の死から二年後の1924年(大正13年)、孫文は最後の来日で、有名な「大アジア主義」講演をおこない、「日本は西洋覇権の番犬となるか、東洋王道の干城となるか」と問うた。日本は前者の道を突き進み、亡国へと坂道を転げ落ちていった。 
 
▽滔天が21世紀の日本に問いかけること 
 以上、宮崎滔天の足跡を本書によってやや長めに紹介したのは、いくつかの理由がある。まず、私をふくめて後世のほとんどの日本人に正当な評価を受けてこなかった偉大な先覚者の実像を少しでも多くの人びとに知ってほしいと思ったからである。著者の加藤氏は、学者・研究者ではなくノンフィクション作家だが、滔天に関連する研究書と専門書を幅広く参照して彼の文章を読み込み、時代の流れに翻弄されながら「世界革命」という理想実現の闘いをやめなかった一人の人間の姿を生き生きとよみがえらせてくれる。文章は簡潔、平易であり、350ページの力作を一気に読み通させる。 
 
 もうひとつのより大きな理由は、彼の思想の射程の長さである。滔天は情熱的な行動の人だが、単なる夢想家ではなく、晩年の「東京より」に示されるように、その行動は鋭敏な知性と世界の状況についての深い思索に裏打ちされたものだった。だから加藤氏は、滔天の著作を読み進めていくうちに「まるで二十一世紀の私たちに向けて投げかけられているかのような言葉に触れ、ハッとすることもたびたびだった」と記している。 
 
 私がハッとさせられた一例をあげると、滔天が苦渋に満ちた筆致で発した、日本の「亡国」への警告である。驕慢な日本は一度、亡国の運命をたどらなければ、「世界人類と手を握る」ことができないのではないかという暗い予言はどうなったか。不幸にして日本は、彼の予言通りに一度国が滅びた。その悲劇を繰り返すまいとして、戦後日本は平和と民主主義を大原則とする国家再建をめざしてきた。だが新生日本は、滔天が願ったような、驕慢な態度を捨ててアジアの国々の人たちはもとより世界人類と手を握る道を歩んでいると言えるだろうか。そうでないとすれば、なぜなのか。滔天なら現在のわれわれの姿をどのように見るであろうか。その点を、彼が心血注いだ「世界革命」への格闘の歩みを再度ふりかえりながら、次回で考えてみたい。(つづく) 


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