2018年12月21日13時25分掲載  無料記事
http://www.nikkanberita.com/print.cgi?id=201812211325275

コラム

言論の自由とレイシズム

  2015年1月10日と11日にフランスでは風刺新聞シャルリエブド襲撃に対して多くの人々が怒り、"Je suis Charlie " (私はシャルリだ)というプラカードを掲げて広場に集まった。その数は全土で400万人に上ったと報じられた。これは何よりも言論の自由を守る戦いであり、たとえその風刺が好きかどうかは別として、言論をテロ行為で制圧しようと言う試みにフランス人が怒ったのだった。 
 
  言論の自由という見地から僕は「私はシャルリだ」という運動に賛成の立場だった。しかし、日本国内ではシャルリはイスラム教への侮辱を行っているレイシズムの媒体だから、攻撃されるのもやむを得ない・・・みたいな意見も多く目にした。シャルリはムスリムの文化を侮辱している、とか、殺された漫画家にも非があったというような意見だ。確かにシャルリの漫画家たちの表現には一見、レイシズムに見えるものもあったが、日刊ベリタにフランス在住のRyoka氏が何度か寄稿して指摘してきたように欧州の風刺という文化に対する日本人の誤解があったと思う。シャルリを批判する人たち自身がシャルリを理解しないままに都合の良いところをつまんで全否定していたようなところが少なからずあったのではなかっただろうか。 
 
  しかしながら、作用には反作用があるように、日本人の中に「シャルリはレイシストだ」という見方が多数あったのだとしたら、「私はシャルリだ」を支持する僕も含めた多くの人たちが、「私はシャルリ」を掲げたフランスの人々と同様にレイシストではない、ということを示すことも必要ではないか、という風に僕はその頃から思い始めた。「私はシャルリだ」というような立場を持つ、ということは誤解される可能性もある。だから、そうではない、ということを示すことは「私はシャルリだ」を支持することと同じくらい必要ではないか、と僕は思うようになっていた。それは別段、義務ではない。けれども誤解をそのままにしておくのは良くないと僕は思うようになった。「シャルリ」を擁護するなら、それに付随する誤解を解く努力を2倍、3倍しないといけないのではないか、と思うようになった。 
 
  それがきっかけで僕はパリで反レイシズムの活動をしている人たちに話を聞いたり、集会に参加したりするようになった。何よりもまずその現場を1つでも2つでも自分の目で見て体験してみようと思うようになった。日本国内でフランスの事象をレイシズムか、そうではないか議論していても所詮は遠く離れた島国での井の中の蛙になりがちだからだ。 
 
  こうした誤解を解く努力はたとえば中国が行っている膨張主義的な傾向を批判する場合にも該当するのではないか、と思える。中国政府を批判したとしても、中国人一般に対するレイシズムではないということをはっきり明示することだ。中国が近隣諸国に大きな力を行使していることを批判するのだとしたら、あるいは中国が反民主主義的だと批判するのであれば、日本政府も同様のことをしてこなかったのか、あるいは現在もしていないか、という批判を行ってみることもまた必要なのではないだろうか。 
 
 
村上良太 


Copyright (C) Berita unless otherwise noted.
  • 日刊ベリタに掲載された記事を転載される場合は、有料・無料を問わず、編集部にご連絡ください。ただし、見出しとリード文につきましてはその限りでありません。
  • 印刷媒体向けの記事配信も行っておりますので、記事を利用したい場合は事務局までご連絡下さい。