2019年01月04日22時14分掲載  無料記事
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政治

元号は廃止しよう  根本行雄

  安倍晋三首相は5月1日の新天皇即位に伴う新元号を4月1日に閣議決定し、事前公表する意向を固めた。政府関係者が5月1日未明に明らかにした。4月中に今の天皇陛下が改元の政令に署名して公布し、5月1日から新元号を施行する方針だ。首相が4日の年頭記者会見で表明するという。 政府は元号法に基づき、皇太子さまの即位に合わせて、平成に代わる元号を定める「改元」を行う方針で、政府内からは国民生活への影響を考慮し、改元の半年程度前には「平成」に代わる新しい元号を発表したいという声が聞かれるという。しかし、新しい元号に浮かれている人々に言いたい。「ボーッと生きてんじゃねーよ!」 
 
 入院中に、『法と民主主義』2018年11月号(533号)を読んだ。特集は、「改めて問う 天皇制とは」(2019年天皇代替りを前に)であり、短い文章ばかりだが、内容の充実した月刊誌である。 
 
 澤藤統一郎「元号制の欠陥と、その本質」 
 
 森秀樹「改元と改憲のビミョーな関係」 
 
 横田耕一「憲法原則と『象徴天皇制』」 
 
 植竹和弘「天皇制のシンボル・「日の丸・君が代」 
 
 志田陽子「象徴天皇制とジェンダー」 
 
 この雑誌を読んで、だいぶ、頭が整理された。長年、疑問に思っていたことも、いくつか、わかるようになり、とても参考になった。是非、購読をおすすめする。発行は「日本民主法律家協会」であり、購読の申し込みは、電話は、03-5367-5430 FAXは 03-5367-5431 である。 
 
 
 澤藤が述べているように、「元号は、明治維新のとき、一世一元の制度となったものである。」 
 
 日本国憲法の第1章が「天皇」であり、第2章が「戦争の放棄」である。なぜ、この順番なのかが、ネモトにとっての長年の疑問の一つである。森秀樹は、「両者が対になって日本の憲法の基本的特色となっている。」と述べているが、この説明で、少し、この謎は解けてきた。 
 
 「日本国憲法が定めた「天皇」というのは、天皇という名称の一制度にすぎない。」という説明は、よくあwかる。だから、皇位の継承の規定は第2条があるだけである。そして、 
 
 天皇という地位にだれを就けるかを決めるのは主権者である国民ではない。森は、「ポツダム宣言受諾後に始まり、日本国憲法制定に至る憲法転換は、それが主権原理の転換を根底におくがゆえに、本来は上記の意味での『天皇制』の終焉を含意している」と述べる。確かに、森の述べている通りである。「ドイツ、イタリアは、国旗、国歌を改めたが、日の丸・君が代は政府によってなし崩し的に復権が進められていく。」それは日本全国の小中学校の入学式、卒業式において容易に確認できることである。戦前の「教育勅語」や、「日の丸・君が代」が復権されつつある。 
 
「建国記念の日」の制定、1966年。 
 
元号法は、1979年。 
 
1999年(平成11年)に成立した「国旗・国歌法」。 
 
こういうふうに経年的に並べると、この「右傾化」は容易に理解できるだろう。その背景には、天皇制がある。戦前と同様に、天皇を利用しようという輩が多数いるのである。 
 
 
 澤藤は、「元号制には国民の利便とは本質的に無縁のものである」と主張している。ネモトも、その主張に賛成である。 
 
 元号の表記は、天皇の代が代わるたびに変えなければならないという有限性があり、つまり、それが本質的な致命的な欠陥である。元号と西暦の二重表記はとても不便である。しかも、歴史の区分は天皇の在位期間とは関係のないものであり、その点においては明らかに非民主主義的な制度である。だから、「平成」を最後として、元号はやめた方がよいとネモトは思う。 
 
 日本はこの前のアジア・太平洋戦争に敗北し、天皇主権の「明治憲法」から国民主権の「日本国憲法」にかわった。そして、天皇は「象徴」となった。だから、天皇の地位は「神勅」から「主権者である国民の総意にもとづく」ものと変化し、「国政に関する機能」を持たず、憲法の定める「国事行為のみを行う存在」へと変化した。だから、天皇は「伝統を守り続ける責任」を負ってはいないのである。それゆえに、大嘗祭などの皇室祭祀は皇室の慣行であり、天皇家の私的な行事であるにすぎないこととなる。だから、当然のことながら、税金である高額の国費を使うことはとても奇妙であると言わざるを得ない。 
 
 
 
 では、なぜ、政権与党の面々や、いわゆる「右翼」と呼ばれる人々が「元号」にこだわるのかと考えると、それは天皇制の権威を守るためであると言わなければならない。天皇の権威を利用し、国民に天皇制の存在を国民の意識のなかに刷り込むために利用しているのである。元号こそは、象徴天皇制を支える最大のイデオロギー装置である。戦前の、「明治憲法」のもとで、教育勅語は「天皇の為に死ぬ」を教育目標とし、「日の丸・君が代」が利用されたことを忘れてはならない。 
 
 現在でも、東京都をはじめとして、国旗・国歌法を正当化に利用し、「日の丸・君が代」に反対する教師を差別し、抑圧し、人権侵害を堂々と行っている。それこそが「天皇制」の利用価値である。支配の正当化と人権侵害の正当化に利用されるのが天皇制の本質である。そのことと、天皇の人柄とは関係はない。「明治憲法」下とは異なり、現在では、児童や生徒に直接に、愛国心教育をすることは難しい。だからこそ、権力におもねる教員たちを利用し、入学式や卒業式などで「日の丸・君が代」を利用して、刷り込みを狙っているのである。国会において、政府の答弁とは異なり、教育現場での日の丸掲揚は着々として進められているのである。この植竹の意見にネモトは賛成である。 
 
 新しい元号に浮かれている人々に言いたい。「ボーッと生きてんじゃねーよ!」 
 
 元号は、明らかに非民主主義的な制度である。だから、「平成」を最後として、元号はやめた方がよいとネモトは思う。元号は廃止しよう。 


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