2019年01月22日23時29分掲載  無料記事
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欧州

独ソ不可侵条約への経緯を描く独仏の放送局ARTEのドキュメンタリー「ヒトラーとスターリンの条約」(1月13日から3月8日まで無料視聴可能)

  独仏共同出資の放送局ARTE(アルテ)が1939年8月23日に結ばれた独ソ不可侵条約の経緯を描いたドキュメンタリー「ヒトラーとスターリンの条約」をインターネットで無料公開中だ。1月13日から3月8日まで視聴可能である。ただし、この番組の制作はフランスのようである。 
 
●YoutubeのARTEのリンク 
https://www.youtube.com/watch?v=j1yQEOkt3X4 
  独ソ不可侵条約こそ第二次大戦の引き金となったナチとソ連との軍事不可侵条約であり、その結果、両国が東欧諸国を分割する結果となった。ドイツは1週間後の9月1日にポーランドに侵攻している。その背景には欧州の2大国だった英仏両国がヒトラーのドイツのチェコのズデーデン地方割譲を認めた1938年9月のミュンヘン協定があった。このいわゆる宥和政策を見て英仏両国の姿勢に疑問を持ち、スターリンは英仏と同盟を結ぶ道を捨て、ドイツとの接近を図ることになった。その過程にはこの番組の中でも描かれているソ連の外交を率いていた外務大臣(外務人民委員)のマクシム・リトヴィノフが1939年5月に解任され、ヴャチェスラフ・モロトフに交代したことが挙げられる。ヒトラーの外務大臣だったヨアヒム・フォン・リッペントロップと独ソ不可侵条約を締結するのがこのモロトフである。 
 
  両国の接近工作がベルリンのレストランとで双方が非公式でエージェントを介して行われたシーンがイラストで語られている。「我が闘争」にはユダヤ民族だけでなく、スラブ民族への侮蔑や共産主義への敵意も示されているが、それについてはどうなのか、とソ連のエージェントが尋ねるとドイツ側は「あれは15年前に書かれたもので、今日においてドイツの優先順位は変わったのだ」と答える。そこでは日本の大陸への侵略という脅威が独ソ不可侵条約推進の決め手になったことが語られている。二人の男は話がついたあと直ちに上層部に伝え、両国は条約の締結に向けて具体的に動き始める。この独ソ不可侵条約によってソ連は第一次大戦で失った領土を再び手にすることができた。この地域はソ連にとってはドイツとの軍事上の緩衝地帯でもあった。1939年のこの時、英仏がソ連と反ナチスで同盟を結ぶことは不可能となった。 
 
  番組は1時間41分に及ぶ大作であり、豊富な映像資料は欧州史を学ぶ人にとっては貴重な実像を見ることのできる機会となるだろう。ポーランド生まれのユダヤ人だったリトヴィノフが英仏を含め、反ナチス軍事同盟を結んで欧州を反ファシズムで1つにまとめようとしていたのが痛々しい。その努力は雲散霧消してしまう。ロンドンに駐在していたユダヤ人のソ連大使イヴァン・マイスキーも英国のイーデン外相を動かそうとしていた。イーデン外相は当時、宥和政策を行っていたチェンバレン首相のもとにいたが、本質的には抗ナチスであり、ナチスへの宥和政策には批判的だったと思われる。イーデン外相はリトヴィノフとマイスキーの尽力でモスクワでスターリンと会談をするが、スターリンの英国への猜疑心は強く、結局英国とソ連の対ナチス軍事同盟の構想は実ることはなかった。政治の1つの基本技術は敵陣営を分断させることにあり、その意味でヒトラーは才能を持っていた。 
 
  これが公開された期間が偶然だろうが、折しも北方領土を焦点とした日本とロシアの軍事条約(あるいは平和条約)の交渉期間である。日ロ間の交渉を平和条約の締結の前段と見る人もいるが特定秘密保護法に守られ、交渉の真相はまったく報じられない。安倍首相の「腹を割った」交渉次第ではロシアも日本の集団的自衛権の対象国に入る可能性はあるだろう。 
 
  フランスは独ソ不可侵条約のおいてはドイツの隣国であり、日本はソ連の隣国であった。日本は1936年にヒトラーのドイツと日独防共協定を結んでいたため、まさかそのドイツとソ連が不可侵条約を結ぶとは想像もできなかったのだろう。右翼の平沼騏一郎首相は「複雑怪奇」と語って8月30日に内閣総辞職した。それは独ソ不可侵条約が締結された8月23日のわずか一週間後であり、その翌日9月1日、ヒトラーのナチスドイツはポーランドに侵攻し第二次大戦がはじまった。 
  当時、日本には大陸侵略の方針において南進と北進の2つの可能性があった。ソ連のスパイだったリヒャルト・ゾルゲが日本で収集していたものも日本がどちらを選択するかについての確かな情報だった。もしドイツがソ連と戦争をしないとすればソ連との戦争は日本にとって大きなリスクとなる。しかも1939年5月に起きたノモンハン事件でも日本軍はソ連軍に大敗を喫していた。独ソ不可侵条約が結ばれたのは日ソ間で激戦が行われていた時期とほぼ重なる。1905年に講和条約を結んだ日露戦争でも勝利と言っても大量の犠牲を払った辛勝に過ぎなかった。ドイツがソ連と不可侵条約を結んだことは日本の内閣が総辞職するほどの衝撃だった。 
 
  独ソ不可侵条約からおよそ1年後の1940年9月27日、日本はドイツとイタリアと日独伊三国同盟を結びファシズム陣営に組し、南進の道を選択し、さらに米国との戦争に向かって突き進むことになる。そして日本が真珠湾攻撃を仕掛けたことで結果的に米国の欧州戦線への参戦を招き、皮肉にも回りまわってナチスドイツの崩壊につながっていく。そして、日本はアジアと真珠湾で戦争を始める前の1941年4月にスターリンのソ連と日ソ中立条約を結んだ。これも独ソ不可侵条約の副産物とも言えるだろう。今日の北方領土問題の原点でもある。1つの軍事条約あるいは平和条約は2国だけに限らず、周辺国の運命も大きく動かすものであることを忘れるべきではない。 


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